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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(18)〜瑛士side

 
 
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「何かありましたか」
 立っていたのは竹内侍従長だった。ひどく混乱した様子で、藤堂を見てもすぐに言葉が出てこないようだ。
 藤堂は竹内を押しのけて外に出た。邸内の異変はすぐに分かった。
 室内の至る所に、耳にインカムを付けた黒スーツ姿の男たちがいて、職員を一階に誘導している。
「あの人たちは?」
「奥様が連れてこられた方々です。警察の人だと」
 引きつった声で竹内が答える。
 ――奥様……?
 藤堂は眉を寄せた。まさかと思うが怜のことだろうか。
「お身内の方を何人か同行されるとの連絡はあったのですが、大勢でいきなりやって来て、警備員の制止も聞かずにお屋敷に入られました。――御前様も承知のことだと仰られて」
 どういうことだ。
「本当に警察を名乗ったのですか」
「1人は間違いなく警察手帳を持っていました。それで、うちの警備員も引き下がるしかなかったんです」
 藤堂は改めて、目の届く範囲にいる男たちに目を向けた。各自、身の丈に近い長さの警杖を持っており、ひどく物々しい様相だ。体格も屈強で目つきも鋭く、とても堅気の人とは思えない。というより、警備の厳しい二宮の屋敷に、こうも堂々と無関係の人たちが踏み込んでくることなど、これまで一度もなかったはずだ。
 ――何が起きているんだ?
「あら、瑛士さん」
 一階に降りると、フロアに集められた使用人全員の前に、怜と、そして今朝方会った左近という警察官僚が立っていた。周囲は警杖を手にした男たちにぐるりと囲まれており、逆に二宮家固有の警備員は1人もいない。
「どういうことなんですか」
 驚きというより、怒りに駆られてそう聞くと、怜より先に左近が口を開いた。
「見ての通りです」
「見ての通りとは?」
「侠生会の襲撃から真鍋氏と二宮ご夫妻を守るため、元警察官や自衛隊からなる万全のチームをつくりました。今後、お屋敷の警備は私に全面的にお任せください」
「御前様、そのようなことを、内閣府が許可するわけがありません」
 色をなして声を荒げたのは甘粕だった。
「すぐに屋敷から退去することを命じます。これは明らかな不法侵入です」
「生憎私が許可しているのよ、甘粕家令」
 左近の隣で、微笑んだ怜が言葉を継いだ。
 怜は今朝と同じで、黒のパンツスーツを身につけている。高いヒールを履いているせいか、異様に長身の左近とならんでも遜色のない迫力がある。
「本日、正式に瑛士さんと籍を入れた二宮怜です。――甘粕家令、竹内侍従長、この家に関する決定は、今後全て私が行いますからそのつもりでいてください」
「――怜さん」
 藤堂は感情を押し殺して前に出た。今は余計なことに費やす時間は1秒もないのに、なんでこの人は、来て早々にもめ事を起こすんだ。
「この家にはこの家のルールがある」
「そのようね。でも私に、それを1から学んでいる時間はないのよ」
「だったら学ばなくても結構です。ただし、あなた以外の人員はすぐに敷地内から退去してください」
「瑛士さん、彼らは訓練された精鋭よ」
 ため息をついた怜は、藤堂の無理解を嘆くように両手を広げた。
「元警察官、自衛隊、傭兵、あらゆるところから左近が集めてきてくれた最強のチームよ。彼らが私とあなた――それから真鍋さんを24時間守ります。これからはどんな暴漢が侵入してきても問題ないわ」
「……怜さん。うちにも、うちで雇用している警備員がいる」
「ええ。全く役に立たない警備員がね。彼らがどれほど無能だったか、瑛士さんは知っているかしら」
「二宮様、これは有事に備えた訓練なのです」
 怜の傍らに立つ左近が、ゆっくりと後を継いだ。
「国内トップクラスのセキュリティを誇る二宮家の警備システムがどういうものか、私がこの目で検証しました。結果、武力行使にはものの役には立たないことが実証された」
「そんな訓練をしろとは、僕は一言も言っていない」
 藤堂は鋭く遮って左近を見上げた。
「そもそもあなた方は二宮の身内を名乗り、警察の権威を借りて敷地内に侵入した。今後は、身内と警官を名乗る人間を一番警戒しなければならないことだけはよく分かりましたよ」
「瑛士さん」
 そこで不意に前に出た怜が、藤堂の腕を掴んで引き寄せた。唇は笑っているが目は冷ややかに冴えている。
「ここは黙って、私の言うようにしてくれないかしら」
「できません」
「あなたの対応ひとつに、的場さんの命運がかかっていると言っても?」 
 はっと息が詰まったようになり、藤堂は顔を強張らせた。
「……どういうことですか」
「可哀想だけど、あなたがいくら頑張ったところで最初から的場さんは篭の鳥よ。真鍋市長の計画はね、あくまであなたが的場さんを安全圏に置くことで完結するものだったのよ。つまり、この二宮の家に」
「…………」
「姿を消した真鍋さんの行方を、県警も侠生会も血眼になって捜している。見つからなかったどうするかくらい、あなたにだって簡単に想像つくでしょう? ――的場さんはきっと正常性バイアスが並外れて高いのね。それとも平和な環境に長くいすぎたせいで、危機管理能力が著しく欠如しているのかしら。真鍋市長は強情な彼女を自分が管理しているホテルに無理矢理に閉じ込めた。ではあなたは?」
 藤堂のネクタイに手を添えると、怜はそれを直す仕草で、やんわりと自分の方に引っ張った。
「彼女の意思を尊重する? そんなことしている場合だと思う? あなたはまだ知らないみたいだけど、彼女には相当厄介な人間がつきまとっているのよ」
「誰ですか」
「的場さん、今年の4月に拉致されかけたことがあるわよね。湊川会の使っていた下っ端に」
 藤堂は表情を硬くして息をのんだ。
「その本当の黒幕だった人物――ある意味、県警や湊川会よりも危険な男よ」
 あの件には、不可解なことが多々があった。当時真鍋の秘書だった片倉は大筋を知っていたようだったが、それを決して藤堂には話そうとしなかった。
 この件は雄一郎様が片をつけられました――そう言われたから藤堂は憤りを飲み込み、引くことにしたのだ。
 その片倉からは、着信はあっても留守電はない。つまりまだ果歩の身辺に異変は起きていないはずだ。
「片倉が的場さんの傍にいるから、安心しているのかもしれないけど」
 そんな藤堂の内心を読んだように、怜は続けた。
「片倉がいくら有能でも、果たして1人で守ることができるかしら。彼女には同居家族もいるし、離れて暮らす妹さんもいる。それに、本当に邪魔だと判断したら、灰谷県警は片倉を逮捕してでも足止めするわよ」
 ――逮捕?
「……なんの理由があって」
 数秒の衝撃の後、藤堂は呆然と呟いた。怜は微笑み、藤堂の腕に自分の手を絡める。2人は小声で会話しているため、傍目には妻が夫に甘えているようにしか見えないだろう。
「言わなかった? 信号無視すらしたことがなければ別だけど、人は大なり小なり、罪を犯しているものだって」
「…………」
「職務質問から始まって、何かしらの嫌疑で任意同行――逮捕するまでもなく、半日くらいなら簡単に足止めできる。それが警察の権力よ」
 藤堂は初めて、怜という女の本当の顔を垣間見た気がした。
 この人は確かに、警察の力を使って雄一郎さんと的場さんを守るだろう。
 しかしその力は、彼女の意思ひとつで逆の方向にも使うことができる。
 彼女は今、そうできることを暗に藤堂に示唆したのだ。
 黙る藤堂の耳元に、怜はそっと唇を近づけた。
「的場さんと片倉のことは、私と左近に任せておいて。もちろん的場さんの家族の安全も保証する。――でも、分かるでしょう? そのためには瑛士さんが私に協力してくれないと」
 怜は藤堂から手を離して、立ちすくんでいる職員らに向き直った。
「というわけで、分かってもらえたかしら。この家のことは、全部私に任せてもらっているの。夫である瑛士さんから。――ね、そう約束したわよね?」
 甘粕と竹内が物言いたげな目で藤堂を見ている。藤堂は何も言えずに目を伏せた。
 完敗だ。――これでは手足を縛られたも同然で、どうすることもできない。
「もちろん、私のやり方が気に入らない人は、家を出て行ってもらってかまいません。相応の退職金は支払いますし、新しい働き口も探します」
 堂々した態度で怜が前に出る。藤堂は黙って背後に引いた。
 この家の本当の主人が誰なのか、その瞬間はっきり全員に分かるような光景だった。
「その逆で、私を信じてもいいと思う人は、どうぞこの場で名乗りでてください。これから私と一緒に、新しい二宮家をつくっていきましょう」
「――家令の甘粕です」
 すかさず前に出たのは、甘粕家令だった。
「御前様が決めたことなら、私に異論はございません。奥様の言うとおりにお仕えいたします」
「警備システムを担当している森です」
 ざわめく職員の中から、次に声を上げたのは森だった。
「僕はまだお屋敷に来て日が浅いので……、このままお勤めさせてもらえると助かります」
「森さんね。あなたのことはよく知っています」
 怜は満足そうに微笑んだ。
「早速だけど、この家の警備システムについて詳細を教えてもらいたいの。後で私の部屋に来てくれる?」
「かしこまりました」
「わたくしは、お暇させていただきます」
 震える声でそう言い、竹内が涙を滲ませた目を藤堂に向けた。
「私のような年寄りは、これまでの二宮家が変わってしまうことに、耐えられそうもありません。――だから私は最後まで反対したんです。瑛士様は一度は二宮を棄てて出て行った人間です。このような人物に当主の重責が担えるはずがございません!」
「……口を謹んでいただけると嬉しいわ。この人は私の夫です。竹内さん」
 どこか悲しげな口調で言うと、怜は使用人たちを見回した。
「残念だけど、同じように思っている人を引き留めたりはしません。そして感謝の気持ちを込めて送り出すつもりです。竹内さん、何年もお勤めいただいた功を労して相応の退職金は用意させていただきますね」
 怜の声は優しく、それで緊張していた皆の表情が少しだけ和らいだようだった。
 藤堂は敗北を感じたまま、立ち尽くしていた。
 彼女と今、争うだけの意味もエネルギーも自分にはない。
 というより、真鍋と果歩を人質に取られたも同然の立場では、抗う術が何もない。
 二宮家を占拠した怜の思惑は分からないが、彼女が廃家に反対するだろうというのは、今朝話した時から分かっていた。
 おそらく彼女は、自分なりの方法で侠生会と和解しようとしているのだ。そしてそのために、二宮家の権威を使おうとしている。システムに詳しい森を呼び寄せたのは、藤堂より先に二宮家が保持している秘密文書を確保するつもりなのだろう。
 救いは、シェルターの扉に仕掛けられたパスワードが、怜や左近には絶対分からないということだ。
 地下の扉を開けるパスワードらしき整数は、封筒の中の紙面に、伯父の直筆でしたためられていた。
 126桁の数字と千桁以上にも及ぶ長い数字。最後に12という数字が何かのおまけのように添えられている。
 最初の126桁がおそらくパスワードだろうが、後の2つは何なのだろう。
 不審に思いながらも、部屋の扉が外から激しく叩かれた時、本能的な危険を察した藤堂は、咄嗟に126桁の数字を暗記すると、その部分を破りとってシュレッダーに投げ込んだ。
 残る数字は、さすがに記憶しきれず、仕方なく鍵と一緒に金庫に戻したが、マイクロサイズに粉砕された126桁の数字だけは、今は藤堂の記憶の中にしか存在しない。
いわばそれだけが、藤堂に唯一残されたアドバンテージだった。
 
 
 
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「緒方潤一。職位は警部、灰谷県警組織暴力対策課の刑事よ」
 机の上に投げ出された写真を手にとった藤堂は、微かに眉を寄せた。
 今は自分のものになった父の書斎。怜の背後には左近が立っていて、室内を鋭い目で見回している。
 もっとも重要な秘密が隠されたこの部屋を話し合いの場に選んだのは、警備システムの要である森が怜側についた以上、指紋認証で守られた扉などなんの意味もないと思ったからだ。
 使用人の何人かは竹内に続いて辞めるだろう。特に仕事を奪われた形になった警備部は、部長の小田切を始め、全員が辞表を提出するかもしれない。
 邸内には左近が連れてきた私設警備員が我が物顔で歩き回り、使用人1人1人の行動をチェックしている。皆が怯え、ひどく殺伐とした雰囲気だ。
 そんな中、藤堂が手にした写真には、一度見たことのある男の顔が、見慣れた灰谷市の商店街を咥え煙草で歩いていた。
 癖のある黒髪、斜に構えた目つきと、ライダースーツに包まれたしなやかな長身。
 ――以前、灰谷市役所に来た男だ。
 昨年11月に起きた大河内主査の痴漢えん罪事件で、どこからともなく現れて果歩を助け、知らない間に懇意になっていた男である。
 ――まだ35歳か。もう少し年上のようにも思えたが……。
 この男に対しては、最初から胡散臭いものを感じていたし、何かしら危険な兆候を覚えていたのは確かである。だたそれは、果歩に近づく異性への身勝手な嫉妬だと思い、その当時は自身の感情を口に出すことを控えていた。
 疑惑がほぼ確信に変わったのは、今年の春、果歩が拉致されかけた時、偶然通りかかったというその男に助けられたことである。
 人を信じやすい果歩にしても、さすがにあの状況で緒方が偶然現れたという詭弁を信じてはいないようだった。その緒方の近影と若い頃と思しき写真、そして何故か似顔絵が卓上に置かれている。
「警察官としては、非常に有能な男です」
 言葉を継いだのは左近だった。
「群馬出身。母子家庭で、母親は本人が高校生の時に亡くなっています。環境の悪い中で相当な努力をしたんでしょうね。地元の自動車修理会社で数年勤務した後、警視庁に中途採用。以後、2年の交番勤務を経て新宿署に、その翌年には本庁の組対四課にマル暴担当として抜擢されています。新宿署時代に、大物ヤクザを検挙したようで、四課でもエース級の扱いでした」
 似顔絵を取り上げた藤堂は、その下から出てきた黒焦げの屋内の写真に目をとめた。
 火災で焼けたものだろうが、殆どが炭化して、壁からは鉄骨がのぞいている。
「金払いもいいし、後輩の面倒見もいい。不思議なカリスマ性を持つ男で、警察内にかなりのシンパがいると言われています。一方で未成年を囮捜査に使うなど、非合法の捜査を半ば公然とすることがかねてより問題視されており、また高い検挙率の裏に、ヤクザとの裏取引があることも疑われていました」
「……この火災の写真は、何か関係が?」
 藤堂が聞くと、左近は無言で、写真の一枚を取り上げた。
「今から5年前、新宿で某組織の末端組事務所で火災が発生。出入りの高校生も含めて7名が死亡するという事件が起きました。遺体は性別も分からないほどの燃えっぷりで、当初は、その7名の死因を特定することも困難でした」
 左近が、写真の中にある黒い丸太のようなものを指さした。それが遺体とわかり、さすがに藤堂は目をそらした。
「結論から言えば、7名は凄まじい暴行を受けた後、生きた状態で焼かれていたことが分かりました。その残虐性から、事件は早々に暴力団同士の抗争だと結論づけられ、後になって思えば様々な証拠や証言が捜査線上から振り落とされたまま、迷宮入りとなりました。ところが随分後になって、事件に関する有力な証拠が、一部幹部の手で握りつぶされていた事が分かったんです」
「それが、緒方が自らの関与を認めていた音声データよ」
 似顔絵を指で叩きながら後を継いだのは怜だった。
「目撃者の証言に沿って作成したモンタージュとも人相が一致。ただ、データは、聞き手の声がカットされていてね。しかも明らかに盗聴されたものだから、公判の証拠にはならないし、……分かるでしょう。現役警察官が7人もの市民を殺したことが分かれば、一体何人の幹部の首が飛ぶと思う?」
「……、だから隠蔽したというんですか」
「その翌年に、緒方は灰谷県警に異動になっています」
 反論しかけた藤堂を遮ったのは怜だった。
「瑛士君、死んだのはしょせん社会のクズなのよ」
「その中には、高校生もいたと言った」
「だから? いずれにしてもクズはクズよ」
 感情のさざ波ひとつ見せない怜の目に、藤堂は言葉をのんで黙り込んだ。
 自分とこの人たちは、しょせん住んでいる世界が違うのだ。
 しかし、正義とは決して一律なものではない。どこを基軸にするかによっていかようにも顔を変える。今、怜を非難がましい目で見てしまった藤堂にしても、誰かにとってみれば非難の対象になる規範に従って生きていることは自覚している。
「……それで、この男が、真鍋さんや的場さんにどう関わってくるというんですか」
「瑛士君」
 居住まいを正すように、怜は組んでいた足を解いた。
「緒方の動機は、真鍋雄一郎なのよ」
「……? どういう意味です」
「言葉通りの意味。緒方は真鍋さんのためにこの連中を殺したの。死んだ7名と真鍋さんはなんらかのトラブルを抱えていて、それを解決したのが緒方ということ――もっとはっきり言えば音声データの聞き手は真鍋さんよ。こう言ったらあなたにはショックかしら。現物を聞いてもらうことはできないけど、まるで恋人同士が喧嘩をしているような会話だったわ」
「…………」
「緒方と真鍋さんが、いつ、どのタイミングで親しくなったのかは分からないけど、真鍋さんの方が、緒方の本性を知って耐えられなくなり、告発を決意したんでしょう。――証拠となる音声を録音したのも、それを警視庁に送ったのも、間違いなく真鍋さん本人よ」
 そこで言葉を切った怜が、嫌悪でもするように眉をひそめた。
「警視庁にいた頃から、なんのためらいもなく違法捜査をやってきた男よ。今、左近に調べさせているけど、この男の周囲では、何人も不審な死者が出ているの。こいつがこれまで何人殺してきたかなんて、正直言えば分からない。――正直、相当に得たいのしれない男よ」
「私の経験則上、この手の顔をした人間は、平気で人を殺せます。まるで羽虫を何の気なしに叩き潰すように」
 さらりと左近が口を挟んだが、藤堂にはそう言う左近も同類のように思えた。
「……で、この人物が、4月に的場さんを拉致した首謀者だったと」
「首謀者は、あくまで光彩建設の吉永冬馬です。ただ、吉永は知らなかったでしょうが、実行犯であるチンピラは、実質緒方の支配下にありました。――緒方は途中まで現場を指揮し、突然的場果歩を救出する方向に考えを変えた印象です」
「……どういうことですか」
「緒方の行動パターンから推察するに、自分の力を、真鍋市長に誇示するためだったのでしょう」
「DVと同じよ、瑛士君。相手を精神的に支配することにかけては、緒方はプロよ」
 怜の言葉に、藤堂は黙って眉を寄せた。
 一度市役所に来たときの男の態度――ふるまい――その男と会話していた時の、果歩の楽しそうな横顔。あの時途中から参加した宮沢りょうが、羊と狼の話をしていたが、本当にあの場には、一匹の獣が、羊の味方の顔をして紛れ込んでいたのだ。
「緒方の目的はいまひとつはっきりしませんが、一度鎖を切って逃げた真鍋市長に、ひどく執着しているのは間違いありません。真鍋市長が何をされたら一番苦しいのか、あの男はよく知っている。だから的場さんに接近したし、彼女がいる時を狙って市長室を襲撃させたのだと推察されます」
「もういいです」
 苦悩の中で藤堂は遮った。これが怜の切り札なら、もう白旗をあげるしかない。
 現役警察官である緒方に対して、藤堂がとれる手はないに等しい。市長室襲撃事件の実行犯はまだ捕まっていない。つまり、一時は灰谷市のトップに立った真鍋ですら、緒方には手出しできなかったのだ。
 そんな男が、今も、的場さんに手を伸ばせば届く距離にひそんでいる。正直言えば、家のことなど放り出して、今すぐにでも灰谷市に戻りたいくらいだ。
 怜は最初から、これを条件に藤堂に譲歩を迫るつもりだったのだ。
「……的場さんは、当面二宮家で預かります」
「私がそれを許すとでも?」
「僕の家のことを決めるのに、あなたの許可がいるとは思えない」
「瑛士君、明日には灰谷市に戻るんでしょう? 仕事が随分たまっているって言っていたわよね? その間この屋敷で、彼女は私の許可がないと何もできない立場なのよ」
「……、」
 藤堂は奥歯を噛んで憤りを追いやり、怜を見た。
「彼女を取り引きの材料にする目的はなんですか。――僕は今でも、問題を解決するには廃家しかないと思っています。そういう意味では怜さんと目的は一緒のはずだ」
「目的は一緒でも手段は違う。私はあなたと違って、ヤクザとの約束を鵜呑みにするほど素直じゃない。今、持てる力を失うことは敗北を意味するわ。そんな真似は絶対にさせられない」
「では僕のしようとしていることと、あなたのしようとしていることが、どう違うというんですか」
 怜もまた、侠生会となんらかの取り引きをしようとしているはずだ。ヤクザとの約束を鵜呑みにするという意味では、怜も藤堂と同じなのだ。
 藤堂がそう言うと、怜は初めて怒りを目に浮かべ、すっくと立ち上がった。
「瑛士君、あなたがそう言って抵抗することは想定済みよ。だったら廃家が不可能なことを理解させるしかないようね。――左近、連れてきて」




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