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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(19)〜瑛士side

 
 
「瑛士様」
 左近に連れられて入ってきた人を見て、藤堂は立ち上がったきり絶句した。
 片倉藤士郎。片倉の父で、二宮家の元参与官。
 伯父が当主を退いた時、同時に役職を辞して国外に住居を移したはずの人だ。
「……、片倉さん、どうしてここに?」
「申し訳ございません。喜彦様のお体のことを思うと、奥様と一緒に海外で暮らすことなど到底できませんでした」
 片倉藤士郎。
 10歳で初めてこの人を見たとき、英国紳士のようだなと思ったのをよく覚えている。
 すらりとした長身で、見事なロマンスグレー。
 伯父の終身執事で、一時期は脩哉の執事を務めていたこともある。伯父も脩哉も、この人が煎れた紅茶しか絶対に口にしようとしなかった。
 息子のように才気走ったところはないが、穏やかで紳士的で、細やかなところにまでよく気がつく。存在自体が優雅で、どこか浮世離れした男だ。
 その片倉が、――屋敷にいる時は常に折り目正しい英国製のスーツに身を包んでいた男が、今は薄汚れたシャツを着て、前に突き出した両腕をスーツの上着で隠している。
「偽造パスポートを使い中国経由で入国したところを、昨夜、私の方で確保しました。現在内閣府も、行方をくらました片倉元参与の居所を探しています」
 藤堂は、冷徹な口調でそう言った左近を見上げた。
 めまいがしそうだった。つい数日前まで二宮家の使用人を統括していた片倉が、その古巣に、これほどまでに惨めな姿で連れ戻されたのだ。
「……片倉さんと、2人にさせてくれませんか」
「できません」
 むべもなく左近ははねつけた。
「この男は、不法入国の罪に問われています。そのような犯罪者を、二宮家の当主と2人にさせることなどできません」
 罪を自覚しているのか、片倉は悄然とうなだれたまま何も言わない。
 藤堂は拳を握り締めた。
「……、だったらせめて、この人の手錠を取ってくれませんか」
「お断りします。この男は」
「――いい加減にしろ!」
 怒りを爆発させた藤堂に、初めて左近が驚いたように眉を上げた。
「この人を罪に問えるものなら、やってみろ。この人はもう日本人でもなければ片倉という名前でもない。どこの誰かも分からない人を、なんの罪に問えるというんだ」
 口を開いた怜の反論を遮るように、藤堂は続けた。
「いっておくが、今の僕に表沙汰になって困ることは何もない。どういう手続きを取ったかしらないが、こちらも法に則って徹底的に争わせてもらうが、それでいいのか」
「……手錠を取ってあげて」
 怜が、背後の左近を振り返った。
「しかし」
「いいから。――外に出ているわ、瑛士君。私たちに片倉さんをどうこうする気はないし、むしろ内閣府から助けてあげたつもりなのよ」
 冷笑が唇をかすめたが、藤堂は黙って自身から湧き上がる黒い感情をのみこんだ。
「恐れ入りますが、扉には見張りを付けさせていただきます。この男は犯罪者です。身柄は我々が拘束する権利があります」
「好きにしてくれ」
 見張りがいようといまいと、どうせ2人の会話は盗聴されているのだ。
 警察組織が本気になれば私人の権利などいとも簡単に奪えることを、藤堂は改めて実感していた。この世の中で何が善で何が悪なのか。その境界線はどこにあるのか。自分がひどく重たい混迷の中に迷い込んだような気持ちになる。
 左近と怜が退室すると、藤堂は片倉をいたわるようにソファに座らせ、自分も隣に腰掛けた。
「このようなことになり、面目次第もございません。……喜彦様から、決して戻ってくるなと念を押されていたのですが」
 言葉を切り、片倉は悄然とうなだれた。
「何十年も連れ添った来た主人の最期を看取るのは、やはり私でなければならないと思いました。直接お会いすることは叶わなくとも、せめて喜彦様の容態が分かる場所にいたかったのです」
「……僕が、必ず伯父の傍に戻れるように手配します」
 しかし、そのためには、怜が今後突きつけてくる要求をのまなければならないだろう。そもそも怜は、藤堂から何らかの妥協を引き出すために片倉を探し出してきたのに違いないのだ
 藤堂が唇を噛みしめた時、片倉がゆっくりと顔を上げた。
「瑛士様、先ほどは私のような者のために怒って下さり、ありがとうございました」
「……いえ」
 思わぬ事を言われ、藤堂は戸惑って視線を下げた。
「喜彦様があの場にいれば、さぞかしお喜びになられたでしょう。あの方は常々、瑛士様が感情をのみこんで生きておられることを残念に思われていたのです」
「…………」
 そんないいものではない。 
 怒ったという自覚さえなかったが、そのくらいあの一時、理性も分別も吹き飛んで、暴力的な感情に支配されていた。真鍋を殴ったときは、まだどこか冷静に振る舞えているという自覚があったが、今回はそうではなかった。
 どんな感情もいったん飲み込んで処理できると思っていただけに、先ほどの自身の振るまいが、意外でもあり恐ろしくもある。
「瑛士様、しかし私は、己の意思でお屋敷に連れてきてもらったのです。今、何が起きているのかは存じております。喜彦様がやり残されたことに、挑もうとなさっておられるのでしょう」
「……侠生会との、和解ですか」
「そうです。――廃家を、お考えになられているのでしょう?」
 ようやく、今の現実に立ち戻り、藤堂は顔を上げた。
「やはり伯父も、その方向で考えていたんですね」
「廃家に関して言えば、脩哉様がお亡くなりになられたときから、喜彦様はずっと考えておられたと思います」
 言葉を切り、どこか辛そうに片倉は続けた。
「この重責を担うのは自分の代で終わりにしたいと願い、密かに内閣府と交渉を進めていました。とはいえ、実はこのように思われたのは何も喜彦様だけではないのです。歴代の当主が一度は考え、そして諦めてきたことでした」
 話が深淵に踏み込んだのを察し、藤堂は扉を振り返った。
「……片倉さん、この会話は盗聴されている可能性があります」
「ご安心ください。このお屋敷内での盗聴は不可能です。――そして差し支えのない範囲で、奥様にも大筋の話は伝えてございます。今となっては、隠しておく必要もない話でございますから」
 盗聴が不可能と言い切れるのは、電波に何かしらの制限が掛けられているからだろう。が、その責任者はすでに怜側についている。
 そう言おうとしたが、やめた。そもそも怜は、片倉から何かを伝えさせたくて、藤堂と二人にしてくれたのだ。
「瑛士様、二宮家が代々収集してきた諸々の資料や記録は、実は敗戦後、全て国家に返納しているのです。――残る文書はたったひとつ、それが内閣府が〇号文書と呼んでいるものです」
 藤堂は頷き、唾をのんだ。
「〇号文書のことなら聞いています。どうしてその文書だけが、二宮の元に残されたのですか」
「敗戦後の日本を占拠したGHQが、何を検討していたかご存じでしょうか」
 藤堂が答える前に、「万世一系、123代続いた天皇制の廃止です」と、囁くような声で片倉は続けた。
「詳細は、この世に生きる誰一人として知りませんが、〇号文書には天皇制存続の命運がかかる、ある重大な秘密が記されていたといわれています。もしGHQがその文書を探し当てれば、国体が崩壊しかねない秘密です。――時の政府は、その隠匿を二宮家に一任しました。当時の当主二宮燐光は、もてうる知恵の限りを尽くして〇号文書をGHQから隠し抜いたといわれています」
 藤堂は先ほど見たばかりの家系図を思い出した。二宮燐光とは、藤堂の曾祖父にあたる。真鍋をのぞけば、今から4代前の当主で、27歳の若さで亡くなった人だ。
「二宮家の秘匿性……特殊性故に、あまり知られてはいませんが」
 片倉は続けた。
「燐光様は、二宮家始まって以来の天才といわれ、日本の戦後復興の一助となる、さまざまな学術論文を後世に残したことでも知られています。今の世にあって、なお戦後復興を支えた大企業や政治家が二宮家に頭が上がらないのは、燐光様の研究が、日本経済の礎となっているからなのです」
 全くの初耳だったが、かつて政府の情報収集機関だったゆえに今でも政経界に絶大な影響力を持つ――という実態のない話より、信憑性がある気がした。
 そもそも何故二宮家が、今の時代にあっても特別な存在なのか。藤堂の感覚では、二宮家の人間はむろん、取り巻きたちも、その理由を曖昧にしか理解していない。
 あたかも実態の見えない怪物を、むやみに恐れて敬遠しているようなものだ。その厚いヴェールの下にいるのは、どこにでもいるような人間であり、家族だというのに。
「それほどの天才ゆえに、政府は〇号文書を燐光様に託しました。日本人にとっては己のルーツが記された、現存する唯一の証拠です。失ってしまえば、真実は人類の歴史から永久に消えてしまうことになる。燐光様はそれを隠し抜くことと同時に、未来永劫祖先に残すことを誓い、とある場所に〇号文書を封印しました。そして、その場所を暗号として書き残したのです」
「……暗号」
 心臓が収縮したのは、伯父が金庫に残した数字を思い出したからだ。あれもまた、紛れもなく暗号である。
「それは500桁以上の不規則な数字からなる長文で、燐光様の死後、幾人もの言語学者――戦争中、暗号解析に携わったエキスパートなどが挑みましたが、誰も解くことができませんでした。忖度抜きで申し上げても、燐光様の作られた暗号は、当時世界最高の暗号文だったといえるでしょう。――ゆえに、後の悲劇が生じたのです」
「悲劇、とは」
「燐光様が若くしてお亡くなりになられた後、本当に誰一人として、その暗号を解くことができなくなったのです。実は燐光様は、暗号を解くための『鍵』を、二宮家の代々の当主にだけに残していました。20桁と1桁からなる数字がそれです。けれど、その鍵の用い方は誰にも分からず、跡を継がれた燐光様の弟、燐光様の子である先々代の敏篤様……誰もその暗号を解くことができなかったのです。燐光様の頭脳は、優秀な血を持つ二宮の中でも、それだけ桁外れだったのです」
 500桁、20桁、1桁。3つの数字の組み合わせか。
 藤堂は無言で眉を寄せた。金庫の中にあったのは、およそ二千桁、126桁、2桁からなる数字だ。3つの組み合わせという点では共通している。
「敏篤様の頃から、二宮家では血筋の者全てを集め、徹底的な英才教育を受けさせた上で、もっとも優秀な人間を当主にするという制度が取り入れられるようになりました。瑛士様もご存じの『後継者争い』です。理由はいうまでもありません。燐光様の残した暗号を解き、〇号文書の隠し場所を突き止めるためです。二宮家では、もはや誰もが、この時代遅れのお役目から解放されたいと願っていたのですが、〇号文書の返還なくしては、政府が決してそれを認めなかったのです」
「……それで、結局、未だ曾祖父の暗号は解かれていないのですか」
「いえ」
 眉をひそめた藤堂を見やり、一拍おいてから片倉は口を開いた。
「燐光様の死後、およそ50年後に暗号はようやく解けたのです。そして〇号文書もまた50年ぶりに白日の元にさらされました。それを成し遂げたのが、まだ22歳だった二宮和彦様。瑛士様のお父上です」



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