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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(20)〜瑛士side

 
 
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「――あ、藤堂さん? えーと……、お仕事お疲れ様です」
 少し照れたような声が、耳に優しく響いてくる。
「土曜日なんですけど、お昼ご飯をうちで食べて、その後、ゆ、指輪を直しにいく感じで大丈夫ですか? それで……お母さんが、何か苦手な食べ物があるなら聞いてくれっていうんですけど、絶対何もないですよね」
「こら、果歩、ちゃんと聞いておきなさいよ!」
「きっと忙しいでしょうから、折り返しは大丈夫です。予定が変わったら連絡してくださいね。じゃあ」
 留守番電話を切った藤堂は、ぼんやりと顔を上げた。
 非常灯だけが点る通路の奥に、巨大な鉄の扉が浮かび上がる。
 祖父の敏篤の代に造られたという核シェルター。スイス製で、本殿地下10メートルの深さに、厚さ40センチの特殊な衝撃吸収素材で造られている。広島型原子爆弾が600メートル先で炸裂したとしても損傷を受けない設計で、扉は50センチの二重構造。
 その前に悄然と立つ藤堂の耳に、先ほど屋敷を辞したばかりの片倉の言葉がよみがえった。
(和彦様が持ち帰った〇号文書を見た敏篤様は驚愕し、その内容を決して公開しないことに決めたといわれています。――そして、ただちに精神の病気を理由に和彦様を後継者候補から外し、この秘密を未来永劫二宮家で背負う覚悟を決められたのです)
 皮肉なことに、燐光の暗号を解くために定められた後継者争いで、その真の勝者だった和彦は、実際に暗号を解いてしまったがゆえに、後継者になる資格を失ったのだ。
 その時、〇号文書の内容を目にしたのは、当主敏篤と和彦の2人だけだったという。
(お屋敷の誰もが、燐光様の再来といわれた和彦様が後継者候補から下ろされたことに疑問を抱いていましたが、敏篤様はご自身の奥様にさえ真実を打ち明けませんでした。――お分かりでしょうか、瑛士様。ここに〇号文書が持つおそるべきパラドックスがあるのです)
(〇号文書を返還しないことには、二宮家は護人としての役目から決して逃げられません。が、文書がもし本当に出てきたら――それを目にした人間は存在を消されるかもしれない。内容を知らない私には推測でしかものが言えませんが、少なくとも敏篤様は、そのように判断されたのです)
(今となっては遠い出来事のようですが、かつて日本では全共闘の活動が隆盛を極めており、共産主義、国家改革を唱える若者と、天皇を中心とした日本を守ろうとする右翼がぶつかりあった時代がございました。そのような過激な時代は過去ものですが、現代であっても、もし天皇制のルーツに触れるような文書が出てきたら大変な騒ぎになるでしょう。――いずれにせよ敏篤様は、内閣府にさえ〇号文書を発見したという事実を打ち明けず、兄である喜彦様を急ぎ後継者に決められたのです)
 確か、昨夜八神が言っていた。二宮家とは負の遺産だと。
 その遺産を、父親は、弟でなく兄に背負わせることにしたのだ。
 その時の父子3人の気持ちは、藤堂には想像するしかないが、たった一人で50年におよぶ謎を解いた好奇心旺盛な弟より、慎重で――どちらかといえば謀略に長けた兄を後継者にしたのは、どういう理由であれ正解な気がした。
(しかし喜彦様も喜彦様で、大きなトラブルを抱えていました。喜彦様は、灰谷市で出会った女性をぜがひでも妻に迎えようと、周囲の反対を押し切って屋敷の別棟に匿っていたのです。喜彦様が心中も辞さない覚悟であったこと、さらにはその女性が妊娠していたこともあり、敏篤様も黙認せざるを得ませんでした。――が、正式な後継者候補となると話は別です。周囲の非難の声も日増しに強くなり、敏篤様は苦渋の決断で、御前会議で推薦された結婚相手――松平長七郎の姉に当たられる、敦子様を屋敷に住まわせることにしたのです)
(喜彦様の結婚問題が解決するまで敏篤様は当主を退くことができず、屋敷内に喜彦様の妻2人、静香様と敦子様が同居するという異常事態が長く続きました。――それを和彦様が、敦子様と結婚するという形で収められたのはご承知のとおりです。しかしその際、〇号文書が、両家の駆け引きに使われたということまではご存じではないでしょう)
(松平家は〇号文書が発見されたのではないかと疑い、敦子様を通じて屋敷内を探索したといわれています。いずれにせよ、ご結婚問題を機に、二宮家がいっそう〇号文書の隠し場所に神経を使うようになったのは言うまでもございません。――そうして〇号文書は、再びある種の特殊頭脳を持った人間でしか開けることのできない、秘密の場所に隠されることとなったのです)
(もうお分かりでしょう。つまり〇号文書の秘密は、50年の時を経て、燐光様から和彦様の頭脳に託されたのです)
 
 地下の核シェルター。
 藤堂の目の前にある特殊素材でできた厚い扉には、明らかに古い型のバスワード式ロックが取り付けられている。
 ロックの周辺は黒金色の鉄材で溶接されており、それが暗闇の中で、冷えつくような色味を放っていた。  
(和彦様は、核シェルターの扉におそろしく強力なパスワード式ロックを取り付けました。開けるには126桁のパスコードが必要で、5度間違えれば生きている間は決して解除されないという厄介なロックです。きっと喜彦様は、同数の数字を瑛士様に書き残されているでしょうが、その数字を打ち込んだところでロックを解くことはできません。あれは、4種類の数字を用いた計算を経て全く別の数字に置き換えられた――いわば暗号数字なのです)
 暗号数字。
 つまり、それとは全く別の並びの126桁の数字が本来のパスワードで、なんらかの法則を用いて、暗号数字を元の数字に戻してやる必要がある。
(和彦様が作られた暗号数字は、燐光様が作られたものと全く同じ手法で作成されています。暗号数字を元の数字に戻すためには、鍵となる4種類の数字が必要となるのですが、燐光様と同じように、和彦様もまた、4つの内の2つしか残しませんでした。残る2つの数字は、今に至るまでどこからも発見されておりません)
 そこまで聞いて、藤堂も燐光が作ったという暗号の原理を理解した。
 RSAだ。2つの巨大素数をかけ算してつくった巨大整数。それを素因数分解することがほぼ不可能であることから作られた暗号である。
 たとえば、4937と6329をかけ算すると、31246273という数字が簡単に出てくるが、31246273という数字から、元の2つの素数に素因数分解することは殆ど困難な作業である。
 RSA暗号とは、その原理を用いた暗号方式である。問題を作った者には答えが簡単に分かるが、問題を出された者には決して解くことのできない、現時点で世界最強の暗号なのだ。
 金庫の中に残されていた数字は、ざっと見積もっても2000桁以上。それが2つの巨大素数を掛け合わせた積なら、そこから元の素数を割り出すのは――現代のスーパーコンピューターを使っても不可能だ。
(何故和彦様が全ての数字を残さなかったのかは分かりません。燐光様の暗号が50年後に人の力で解けたように、いずれコンピューター技術の発達により、簡単に解読できる時代がくると思われていたのでしょうが、未だその時代が到来していないことだけは確かです。そして運命の皮肉のように、和彦様は燐光様と同じ年で早世なさいました。以来、地下のシェルターの鍵はずっと閉じられたままなのです)
(つまり、和彦様が亡くなられた今、鍵は誰にも開けることができないのです)
 ――僕には、できない……。
 久世老人が侠生会の猶予を得たとしても、それほど長くは待ってもらえないだろう。よくて数日か、半月か。
 いずれにせよ、たった数日で、25年もの間、誰にも解けなかった暗号が解けるはずがない。今現在、コンピューターの計算速度がどれくらい進んでいるかは分からないが、何百台ものスーパーコンピューターを繋いだとしても、その桁数の素因数分解には、十数年かかるはずだ。
「よかったじゃない、瑛士君」
 冷たいヒールの音が廊下に響き、背後で怜の声がした。
「早い段階で廃家の選択が無理筋だと分かって。――他に手立てがないなら、もう私のルートに賭けるしかないと思うけど、どうかしら」
 藤堂は黙って扉を見つめた。
 廃家について、藤堂が真剣に考え始めたのは今朝のことなのに、何故この人は、こんなにも早く片倉さんを探すことができたんだ――? と思ったが、その疑問も空しさの中で消えていく。
「あなたが協力をしてくれるなら、的場さんと真鍋さんは私が責任を持って守るし、必ず侠生会といい形で和解すると約束するわ」
「……僕の、協力とは?」
「二宮家の当主として、私を支えてほしいのよ」
 怜の声に、少しだけ力がこもった。
「松平さんが御前会議のメンバーを抱き込んでその座を狙っているなら、早急にそれに対抗する後ろ盾を得ないといけないわ。というより古い人たちにはとっとと退散いただいて、これからは私たち若い世代が、政経界を引っ張っていくべきだと思う。あなたには、その象徴になってもらいたいのよ」
 つまり神輿の上のお飾りだ。その派手な飾りの下で、この人は何をする気なのだろう。
「あなたの存在が、私がやろうとしていることの何より強力な後ろ盾になるの。私はこれから、文字通り命がけで、父と真鍋さんを救うために連中とやりあうつもりよ。それが成功するかどうかは、あなたがどれだけ政経界で存在を示せるかにかかっていると言っても過言じゃないわ」
「……何度も言いますが」
「これは取引よ、瑛士君」
 遮るように怜は言った。
「そして最後通告でもある。もしあなたが拒否するなら、真鍋さんや的場さん、片倉親子に何があっても、私は一切関知しない。灰谷県警、侠生会、それから緒方――真鍋さんの命を狙う連中は、間違いなく的場さんを標的にするでしょうね。彼女を二宮の家に呼ぶといっているけど、果たして素直に来るかしら? あなたはもう私と結婚しているのに」
 喉を鳴らし、藤堂は拳を握り締めた。
 どう言葉を尽くしても、的場さんが来ないことは、自分が一番よく知っている。
 そしてもう、言い訳の言葉もない。
「その代わり、もしあなたが素直になって……、いい夫として私に協力してくれるなら、――まず明日の朝には、緒方の身柄を拘束すると約束するわ。叩けばいくらでも余罪がありそうだから、それは比較的たやすいでしょ」
 断れば、代わりに片倉を逮捕するとでも言いたいのか。――言外にそう脅されていような気がして、藤堂は眉を寄せる。
「本当は瑛士君も分かっているんじゃないの? ――素直に動いてくれないのは、真鍋さんも同じよ。あなたが自分のために身を引いたと分かればなおさらそう。あなたが明日しなければならないのは、真鍋さんと的場さんに同情されることでも理解されることでもない、徹底的に憎まれることよ」
「…………」
「――傷ついた的場さんを、真鍋さんは放っておかないでしょうし、真鍋さんが命を狙われていると知れば的場さんだって放っておけるはずがない。断言してもいいわ、彼女はあなたのためには二宮家にはこないけど、真鍋さんのためなら来るはずよ。真鍋さんにしてもそう、瑛士君が頼んだところで絶対に二宮家には来ないけど」
 的場さんが頼めば行くだろう。それは、藤堂にも分かっている。
 反論は、全て喉の奥で力なく消えていく。
「……これ、渡す気はなかったけど、真鍋さんのことを調べさせた報告書よ。彼が何故緒方みたいな男と関係を持ったのか、緒方がどうして真鍋さんのために7人も殺したか、全部この資料に書いてある」
「…………」
「これを読めば、あなたも昨夜の判断が正解だったことが分かるはずよ。真鍋さんは……一種のセルフネグレストよ。自分が死のうが廃人になろうがどうでもいいの。近々、光彩建設の汚職で逮捕されるでしょうけど、それだって吉永冬馬のでっちあげ――でも真鍋さんには、汚名を晴らす気さえない。分かるでしょう? あの人には生きる希望と、誰か支えになってくれる人が必要なのよ」
 こんなものまで用意したのかと思うと同時に、ふと、そこに怜の焦りを垣間見た気がした。
 彼女も彼女で、何かしら手詰まりの状況を打開しようと焦っているのかもしれない。
 が、だからといって、そこから反撃の糸口を見つけることもできない。
 藤堂は黙って怜の手から封筒を受け取った。
 真鍋には果歩が必要だ。それは最初から――昨年の秋に、花織から真鍋の8年を聞いた時から分かっている。
 それが分かっていてなお、自分はあの夜、果歩の手を取ったのだ。これから先の非難と苦悩を全部1人で抱える覚悟で。
 ただ覚悟しきれなかったゆらぎがずっと心の中で自分を苛み続けていて、それが――昨夜の判断につながったのかもしれない。
 果歩が真鍋の真実を知れば、彼女の選択肢がひとつしかないことは最初から分かっていた。
 分かっていたから、どれだけ彼女になじられようと、何度も身を引く決意をした。
 でも、あの夜――彼女が自分のことを選んでくれた夜、初めて藤堂は気づいたのだ。彼女が持っていると信じていた選択権は……
 ――いや。
 未練のような気持ちを藤堂は、頭から追いやった。
 いずれにしても、昨夜自分は一度は掴んだ果歩の手を離したのだ。
 他の誰でもない、自分の意思で父と同じ道を選んだ。
 父と母が別れたのは、母が自分を産んだ直後だと聞いている。理由も事情も詳しくは知らないが、母は東京を離れて働きながら藤堂を育て、その最中――藤堂が2歳の時に、父は別の女性と結婚した。
 もしその2年、母が父を待っていたのだとしたら、そこにどんな事情があったとしても、絶対に父を許せない。母に聞けば、そんなことあるわけないでしょと笑い飛ばされるのは目に見えているが、藤堂は記憶しているのだ。
 母がその年まで、ずっと左手の薬指に指輪をしていたことを。
 仮に、父の中途半端な嘘が母を縛り、その未来を奪ったのなら、父は最低の人間だ。――その轍だけは絶対に踏まないし、踏みたくもない。 
 考えなければいけないのは、僕がどう振る舞えば、的場さんが一番……。
 一番、僕を嫌いになれるかということだ。
 ――もう十分だという気もするけどな。
 その時、ポケットの中の携帯が鈍く震えた。片倉だ。時刻は午後3時を回っている。
 画面を無言で見つめながら、藤堂は背後の怜に聞いた。
「片倉さんを、伯父さんの病室に置いてもらうことはできますか」
「……、もちろんよ。ただ息子の方を二宮家に戻すのは認められないわ」
 怜が片倉を藤堂から引き離したがっていることは分かっている。彼女は自分を、無能な操り人形にしたいのだ。彼女の思うところの、理想的な二宮家の当主に。
 片倉にとっても、今がおそらく最後のチャンスだ。人として普通に生きていけるかどうかの。
「片倉には、二度と二宮家に近づかないように僕の方から話します。――怜さん、しばらく僕を一人にしてもらえますか」
 藤堂は電話に出た。ぶつ切りの雨音が、まず耳に飛び込んでくる。地下のせいか通信状態が異常に悪い。
 藤堂は地上に続く階段に移動しながら、携帯を持ち直した。
「僕だ、どうした?」
 雨が、途切れることなく降り続いている。
 その雨は、僕の心に降り続いて、決して止むことはない。
















瑛士side 終





年下の上司はしばらく休載します。連載再開は年明け以降の予定です。
先の見えない世の中ですが、私も頑張って執筆します。皆様、どうかお元気でお過ごしください。 
2021 9.1 石田累
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