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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(3)



「君はリビングにいろと言っただろう」
「嫌です。1人で残されても不安なだけじゃないですか」
 苛立ったように真鍋が先に歩いて行く。
 彼が本気で怒っているのは分かったが、果歩はかまわずその後を追って廊下に出た。
 藤堂が来たのかもしれないと思って、足をすくませたのは一瞬で、すぐその可能性が殆どないことに気がついた。
 昨夜ですら屋敷の警備は厳重で、果歩は真鍋の婚約者だと嘘をついて入り込んだのだ。片倉とさえ連絡がつかない中、藤堂が1人でやってこられるとは思えない。
 ではこの状況で、呑気にドアベルを鳴らす来客とは誰だろう。今の状況が全く分からないだけに、不安だけが胸を重くさせる。
 警察が外にいるから大丈夫だとは分かっていても、いきなり暴漢が押し入ってくるのではないかという恐怖もある。
「戻れ!」
「いやです!」
 怖い――でも、真鍋を1人では行かせられない。
 花織の言葉を信じれば、今、彼は生きる意欲を失ってしまっているのだ。もし、むざむざ命を投げ出すつもりなら、どうやっても止めなければいけない。 
 靴を履いて三和土に降りた真鍋が、物言いだけな目で果歩を振り返る。しかし彼は、すぐに諦めたようにドアノブに手をかけた。扉には、まだ鍵がかかっている。
「真鍋さん? 僕ですよ」
 真鍋が鍵を開ける前に、コンコンと軽いノック音がして扉の向こうから男の声がした。
 その瞬間、真鍋の背中が凍り付いたように固まるのが分かった。
「鍵、開けてもらえませんか。申し訳ないんですが、ちょいと県警までご同行願おうと思いまして」
 ――緒方さんだ……。
 果歩もまた、息をのんでいた。
 県警の緒方潤一。暴力団担当の刑事で、先日、市長室が襲撃された時も、2人の前に現れた。
 真鍋が言うには、昔からの知り合いで――幼少期をこの屋敷で共に過ごした幼馴染み。そして、理由はさだかではないが、彼がもっとも警戒している相手でもある。
「……、容疑はなんだ。もちろん正当な理由があるんだろうな」
 ドア越しに答える、真鍋の声が緊張している。
「今のところはないです。ていうか、なんだかややこしいことになってるんですよねー。」
 それに対する緒方の声が呑気すぎて、むしろそれが気味悪く思える。
「昨日、うちの機動隊が出てきたときは、僕も何事かとびっくりしましたよ。どうやら本社から、うちに出動要請があったそうでしてね」 
「……本社というのは警視庁か」
「ええ。うちの中でも、要請を受ける受けないで相当もめたらしいんですが、結局は本部長の判断で機動隊を出すことに決まりました。なにしろ本部長は去年まで本社にいたキャリアさんなんで」
 まるで世間話でもするような気楽さで緒方は続ける。
「当然、県警たたき上げの副本部長やら、他の幹部はカンカンですよ。昨日もニュースで散々叩かれていましたが、機動隊を出す正当な理由が何もないんでね。――で、昨夜からずっと綱引きがありまして、こうして僕があなたを迎えにきたというわけです」
「……意味が、分からないんだが」
「灰谷県警はあなたの護衛から手を引きます。当然機動隊も引き上げさせる。代わりにあなたの身柄を警察に拘留して、安全を確保するということですよ」
 真鍋が、扉に置いた手を握り締めるのが分かった。
「……、好きにしてくれ。しかし県警への同行は拒否させてもらう。悪いが別の人間と話をさせてもらえないか」
「それはちょっと難しいです。なにしろ僕があなたの事件の担当者だ。まだ解決していないですよね、市長室が銃撃された、例の事件」
「……ああ、そうだったな」
 そう言う真鍋が、奥歯を噛みしめ、怒りにも似た歯ぎしりを漏らした。
「いずれにしても、僕は警察へは行かない。話ならこの家で聞く」
「そりゃ無理ですよ。この家の周りはもうマスコミでびっしりで、空にも中継ヘリが飛び交ってる。日本中の注目を集めさせた昨日の舞台で、まさに映画さながらの告発をしたのはこのためですか? しかしこのままでは、マスコミにまで報復の危害が及ぶ可能性がある。市民の安全を守る警察としては、放っておくわけにはいかないんですよ」
 真鍋が怖い目で果歩を見た。その目が、戻れと言っている。果歩は唇を引き結んで首を横に振る。
「今、玄関のすぐ傍に車を付けてます。僕が県警までご一緒しますので、こっそり乗っていただけませんかね」
 びくっと真鍋の肩が震えるのが分かった。
「さっきも申し上げたとおり、当分の間、県警本部で市長さんの身柄を守りますよ」
「――断る」
 堅い口調で、真鍋が口を開いた。
「自分の身は自分で守るし、今日は会社で今後のことを協議する予定なんだ。県警には、それが終わったら弁護士と一緒に」
「そこ、的場さんもいるんですよね」
 今度肩を震わせたのは果歩の方だった。
「じゃ、今ここで話しましょうか。彼女の知らない市長さんのあれこれを」
「――っ」
 真鍋が弾かれたように鍵に手を掛けたので、果歩は咄嗟に飛び出していた。
「だめ、真鍋さん!」
「君は出てくるな!」
 真鍋が激しい剣幕で言ったとき、扉の向こうで緒方の笑う声がした。
「ああ、やっぱり一緒でしたか。どうでした? 昨日の夜は。市長さん、ちゃんと満足してました?」
「……果歩」
 扉から離れた真鍋が、果歩の肩を抱いてリビングに引き戻そうとした。彼の青ざめた表情に、胸が詰まりそうになる。
「真鍋さん、分かったらさっさと出てきてくれませんか。あまり時間はないんです。言い忘れましたが、僕は的場さんの電話番号もメールアドレスも知ってるんですよ」
「分かったから、少しの間待っていてくれないか!」
 果歩の腕を引きながら、怒ったように真鍋が言う。この人は行くつもりなんだと、果歩はその刹那理解した。
 絶対に行くべきじゃない――よく分からないけど、市長室が銃撃された時も、2人の会話は奇妙だった。真鍋さんは、緒方さんに脅されているんだ。
「……真鍋さん、」
「すぐに帰れるから心配するな。そんなことより、君は瑛士に事情を説明して、すぐ迎えにきてもらってくれ」
「…………」
「いざとなったら二宮の名前を出して身を守れ。いいな、瑛士以外の誰が来ても、ここには一歩も入れるんじゃないぞ」
 なにそれ。
 それじゃ、8年前と何も変わってないじゃない。
 脅迫の相手が、吉永さんから緒方さんに代わってしまっただけじゃない。
 果歩は真鍋の腕を振りほどいた。驚く真鍋を突き放すようにして、玄関に駆け戻る。
 鍵を開けて、勢いよくドアを開けた。目の前に、少し驚いた目をした緒方が立っている。
「……、驚いたな、そっちが出てきたんですか」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってもらえません?」
「――果歩!」
 真鍋が駆け戻ってきて、背後から果歩の肩を掴んだ。果歩はかまわず前に出る。
「この人をどう脅迫しているのかは知りませんけど、私なら何を聞いても大丈夫です。私の知らない真鍋さんのあれこれってなんですか」
 肩をすくめて笑った緒方が、持っていた吸いかけの煙草を投げ捨てた。
「言ってもいいですけど、市長が多分嫌がりますよ」
「その通りだ。果歩、中に入ってろ」
「いやです!」
「いい加減にしないか!」
 腕を引かれ、背後によろめいた果歩の前で、扉がさらに開かれた。緒方が玄関に入ってきて、後ろ手に扉を閉める。
 咄嗟に果歩を背後に押しやった真鍋が、怒りを帯びた目を緒方に向ける。
「これは不当な住居侵入だ。すぐに俺が出るから、外に出てくれないか」
「――いいじゃないですか。ここは、僕にとっても思い出深い場所なんですよ」
 革ジャンのポケットに両手をつっこむと、緒方は靴を履いたままで廊下に上がった。
 そうだった。緒方もまた、この家で幼少期の一時期を過ごしていたのだ。
 真鍋の母が、会社関係者の子供たちを集めて催していたという夏のキャンプ。
 つまりこの人の家族もまた、光彩建設の関係者だったのだろうか。
「へぇぇ……、随分と様子が変わりましたねぇ。僕は昔の内装が好きでしたが、この子供っぽい色合いは市長さんの趣味ですか」
「入るな!」
 怖いほどの剣幕で、真鍋がその前に立ち塞がった。
「これ以上、勝手な真似をしたら、不法侵入で君を訴えるぞ」
「できるものなら、どうぞ」
 緒方は皮肉な目で笑って肩をすくめた。
「いいじゃないですか。ことによれば、ここは僕の所有物になっていたかもしれないんですから。ねぇ、市長さん」
 真鍋は黙ったまま動かない。2人が何を言っているか分からない果歩の前で、緒方は楽しそうに両手を広げた。  
「ま、そんなことはともかく、話しちゃいますか。そこの可愛いお嬢さんに。でなきゃ、いくら市長が遠ざけようとしても、いつまでも彼女、諦めそうもないですよ」
「……本当に、やめてくれないか」
 苦しげにうめいた真鍋の横顔は、半ば蒼白になっている。
「君の言うように、どこにでも行くよ。……そうだな、県警にしばらく守ってもらうのが、一番いいのかもしれない」
 真鍋を見上げた果歩は愕然としていた。
 何を言ってるの?
 今自分が、8年前と同じことを繰り返しているんだって――どうしてそれが分からないの?
「緒方さん、回りくどい言い方はやめて、さっさと話してくれませんか」
 果歩は、再び真鍋を押しのけた。
「言っておきますけど、何を聞いたところで私は一歩も引きません。この人を脅して連れて行くなら好きにしてください。今度は私が、弁護士でも何でも雇って、取り戻しに行きますから」
「……果歩、頼むから」
 うめくように言った真鍋の手が、果歩の手首を力なく掴んだ。
「頼むから、今は俺の言うことに従ってくれないか」
「市長さんの言うとおりですよ」
 鼻で笑いながら、緒方はどこか気の毒そうな目で果歩を見た。
「そんな風にあなたにしつこくつきまとわれて、苦しいのはむしろ市長さんの方だと思いますけどね」
「私がどうしようと、結局この人は苦しいんです。だって、どこまでいっても一人で解決しようとしているんですから!」
 何もかも一人で背負い込んで、自分を犠牲にすることで解決しようとしている。何年も何年も、きっとこの人はそうしてきたんだ。
 その負の連鎖だけは、今、私が断ち切らなければいけない。――絶対に。
「言っておきますけど、私を遠ざけたところでもうとっくに手遅れです。真鍋さんが私のことで誰かの言いなりになっていたように、今度は私が、真鍋さんが隠していることを知りたくて、誰かの言いなりになるかもしれない。――これ以上面倒なことになる前に、本当のことを話すべきだと思いませんか」
 それは目の前の緒方ではなく、背後の真鍋に向けて言った言葉だった。
 真鍋は動かず、果歩の手首を掴む指に、ほんのわずかな力がこもる。
「はは……、これはなんとも勇ましいことで」 
 笑うような目になった緒方が、果歩越しに真鍋を見上げ、その目をわずかに険しくさせた。
 真鍋はまだ何も言わない。果歩の手首に添えた手も離さない。果歩は祈るような気持ちで、その沈黙が続けばいいと願った。
 目を覚まして、真鍋さん。
 もう私は、二十代だった頃の私じゃない。もうあなたが思うほど、弱くも頼りなくもないんです。
「ああ、そうですか。じゃ言いますよ。どうやら市長さんも、腹を括ったようですから」
 緒方の目に、初めて陰惨な光がやどった。
 不意に全身から凶暴なオーラがほとばしったような緒方に、果歩は初めて恐怖を覚えていた。これがこの男の本性なら、これまでの陽気で親切な緒方は一体何者だったのだろう。
「市長さんは5年ほど前まで、男相手に身体を提供していたんです」
 花織や真鍋の言動から、どこかで薄々そういった話が出るような気はしていたが、それでも衝撃で、しばらく言葉が出てこなかった。
 緒方は、冷たい目に嗜虐的な光を宿してにやりと笑う。
「相手は外国人で、言ってみれば光彩建設のための枕営業ですよ。それが随分性質の悪い連中だったみたいでね。……気の毒に、いいところのお坊ちゃまだった市長さんは、無理矢理悪い遊びを教えられた挙げ句、それがきっかけで黒い界隈の餌食になった」
 真鍋の手が、力なく果歩の手首から離された。
 果歩は懸命に唾をのみこみ、次々と押し寄せる動揺に耐える。
「……悪い遊びって、なんですか」
「簡単に言えば、違法薬物を使ったセックスですよ。――当然その出所はよからぬ連中で、社会的地位の高い人ほど暴露されたら身の破滅になる。市長さんは、その口封じのために連中に売り飛ばされたんです。まぁ、どこからが仕組まれていたことなのか、今となっては分かりませんが」
 呆然と立つ果歩を見下ろし、緒方は薄く微笑した。
「綺麗な場所を歩いていた人が転落するなんてあっという間だ。これ、以前お嬢ちゃんにもお話したことがありますよね?」
「…………」
「あの夜は、とても楽しかったですね。僕の頭の中にはあの時、市長さんのなまめかしい姿がよぎっていたんですが、あなたは他人事のように眉をひそめていただけだった。――とても愉快で残酷で、そして楽しいひとときでした」
 この人は何者だろう。
 果歩はぼんやりと緒方を見つめた。
 こんなにも人の心を笑顔で切り刻むことができる、この人は一体、なんなのだろう。
「さて、市長さんですが、もちろん嵌め撮りもされたし、写真もかなり撮られていました。そもそもそれが連中の目的だったんですからね。でも、ご安心ください。そういったものは裏にも表にも一切出回っていないんです。そう――そうなる前に、正義の味方が、そいつらを一掃したんですよ。この世のどこにも痕跡が残らないほど、徹底的に」
「…………」
 ――え……?
 どういう、意味?
 初めて鳥肌のたつような思いで、果歩は目の前の男をみていた。この人は何……?
 そもそも、本当にこの人は刑事なの……?
「でも、薄情な市長さんは、その正義の味方を何年も避けていたんですよ。それどころか、匿名で密告さえしようとした。一体、どういうことなんでしょうね」
「……君とは、二度と関わらないと言ったはずだ」
 背後から、初めて真鍋の声がした。その口調が思いのほかしっかりしていたので、果歩はどこかほっとした気持ちで、真鍋の隣に回って彼の手を握りしめる。
 しかし緒方は、より嗜虐的な笑いを浮かべて、その真鍋の顔をのぞきこむようにかがみ込んだ。
「そうですか? でも先週は久々にいい声を聞かせてくれましたよね」
「…………」 
「手錠を嵌められて、薬を打たれてやられたのは久々でしょ。どうですか? 昔の快感を思い出したんじゃないてすか」
「……あの時は」
 歯ぎしりでもするような声が、果歩の隣から聞こえた。
「ずっと君を、殺したいと思っていたよ」
 それがいつのことで――そこで何が起きていたのかを悟り、果歩は呆然と立ちすくんだ。唇が震えて眉根に痛いほどの力がこもった。
 この男は――悪魔だ。そんなことも知らず、私は何度も、この男と親しく話をしていたのだ。
 その悪魔が、目を細めて楽しそうに笑う。
「ひどいなぁ、僕があなたのために、これまでどれだけ手を汚してきたと思ってるんですか」
「頼んだ覚えはない」
「先日、お嬢ちゃんを間一髪で助けたのも僕なんですけどね。あれは本当に、純然たる市長さんへの好意からだったのに」
「やめてくれ」
 我慢も限界だとばかりに、真鍋は荒々しく言い放った。
「俺へはともかく、彼女には二度と近づかないでくれ。君は――そもそも君は、本当に警察官なのか?」
「ええ。残念なことに、生憎ね」
 肩をすくめた緒方は、革ジャンの片側を開き、その中にあるものを2人に見せつけるようにした。そこには、装着した防弾ベストとホルダーに納められた拳銃がある。
 ベストには灰谷県警のロゴが入っており、本来なら拳銃も、市民を守るために携帯しているものだ。しかしそれを所持する警官が悪党なら、当然拳銃は凶器になる。
「さて、話も終わったところで、一緒に来てもらいましょうか。僕が、このお嬢さんに危害を加えそうになる前に」
 思わず真鍋の手を握る手に力を込めると、前に出た真鍋が果歩の肩を抱いて背後に押しやろうとした。その真鍋の動きがふと止まり、数秒言葉をなくしたように立ちすくむ。
「…………」
 歯を食いしばって泣く果歩の涙を指で払うと、真鍋は苦しげに目を閉じた。
「……大丈夫だから」
「……だめ」
「本当に大丈夫だ。俺ならすぐに戻ってくるから」
 ――行っちゃだめ……。
 どうしたらいいんだろう。
 ここでもまた、私は彼の足かせになってしまった。ただ助けたいだけなのに――ただ、この人に昔みたいに笑ってほしいだけなのに――




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