その時、背後で突然荒々しい足音がして、扉が外から開かれた。 「――っ、なんだ、一体」 意表を突かれたように立ちすくんだのは、意外にも緒方だった。 扉の向こうから雪崩れ込んできたのは、黒のヘルメットに防弾ベストをつけた十数名の機動隊員だった。けれど、昨日議場を埋め尽くしていた機動隊とは、制服の色が違っている。 警視庁――ベストに刻まれた文字に、果歩は思わず目を見張る。 彼らはあっという間に緒方を取り囲むと、一人がその身体を背後から羽交い締めにした。 「壁に手をつけ!」 恐ろしく整然とした喧噪の中、拳銃を手にした隊員の一人がそう命じ、緒方は素直に言いなりになった。 しかしその隙のない目は間断なく逃げ道を探っているようで、機動隊員によってリビングに押し戻されながら、果歩は不安な気持ちになる。 2人を囲む隊員の1人が、その不安を察したように声をかけてくれた。 「怖い思いをさせましたね。もう大丈夫です」 「……今、何が起きているんですか」 「今回は、市長の住居に無断侵入した件ですが、あの男にはいくつかの重大な容疑がかかっています。これから東京に身柄を移して取り調べますので、当分表に出てくることはないですよ」 ほっとしながらうなずいた果歩は、真鍋の横顔を見上げた途端、眉をひそめた。 彼の目は険しいままで、この状況に全く安心していないことがすぐに分かった。むしろいっそう緊張しているようにも見える。 「雄一郎様、的場様!」 その時、玄関から片倉の声がした。全身から力が抜けるほど安心した果歩は、思わずその方に駆け寄ろうとしたが、玄関からリビングまでの通路は、まだ機動隊員で埋め尽くされている。 「真鍋さん、どんな手を使ったのかは知りませんが、今回は、あなたが上手だったということですかね!」 黒いヘルメットの群れの向こうから、笑うような緒方の声がした。 「まぁ、いいですよ。でもこれで終わりじゃないです。言いましたよね。僕とあなたの縁は何をしたって切れないんです」 果歩の隣に立つ真鍋が、微かに喉を鳴らしたのが分かった。 「忘れないでください。僕はあなたを、自分の命より大切に思っているんですから」 人の輪の中から怒声が響き、緒方の声もそこで途切れる。 隊員によって、さらにリビングの奥に誘導された果歩は、ふとカーテンの隙間に目をやった。木立の向こうから、複数のテレビカメラがこの屋敷の様子を窺っている。 上空からは、再びヘリの爆音が響いていた。それは、今朝聞こえたものとは大分違って、ずっと遠くに聞こえるから、おそらくは緒方の言うようにテレビの中継ヘリなのだろう。 ――すごい騒ぎになってるんだ……。 それを家族が家で見ていると思ったら、胸の奥が切り裂かれるように鋭く痛んだ。 両親だけじゃない。今、一体どういう気持ちで、藤堂はニュース映像を見ているんだろう。 果歩が真鍋と一緒にいるということは、きっと片倉から伝わっている。なのに、一度も連絡がないのは何故だろう。 ――もしかして、もう藤堂さんは……。 やがて騒動も一段落したのか、騒然としていた玄関が静かになる。 同時にリビングの扉が開き、機動隊員とは明らかに雰囲気の違う制服警官が入ってきた。全員がその男に敬礼をしているから、おそらく相当立場のある人に違いない。 その男が、鉱石のように冷たい目をこちらに向けたので、果歩は思わず息をのんだ。年は四十代くらいだろうか。驚くほどに背が高い。藤堂や片倉より高く感じるからおそらく190は軽く超えている。 男がこちらに歩み寄ってきたので、真鍋が用心深く口を開いた。 「君は?」 「警視正の左近衛です。警視庁警備部の特別捜査官をしています」 男は低い声で言って、敬礼をした。 「灰谷県警との連携がとれず、危険な目に遭わせてしまったことをお詫びします。おけがなどはございませんか」 慇懃な口調なのに、顔は石像のようで、表情に一切の変化がない。 面長で、髪は刈り上げに近い短髪。制服姿はいかにも官僚のようだが、そのスーツの上からでも鍛え抜かれた身体であることがひと目で分かる。三白眼がやや凶相じみているのが気になったが、逆に頼りになりそうな風貌にも見えた。 真鍋が果歩を見たので、果歩は急いで首を横に振った。 少し安心したように、真鍋は左近と名乗った警察官僚に向き直る。 「助けてもらったことには礼を言う。ただ警視庁所属の君らが何故灰谷市に来たのか説明してもらえないか」 果歩もこくりと唾を飲んだ。 それほど警察組織に詳しいわけではないが、警視庁の管轄は東京都だ。 眉筋ひとつ動かさずに左近が答える。 「我々が今身柄を拘束した男に、都内で起きた別事件の容疑がかかっているからです」 「だとしても、何故機動隊が?」 左近は答えず、黙っている。 「はっきり言ってくれないか。もしこれが八神さんの命じたことなら」 「指揮系統については、お答えしかねます」 「……答えてもらえないなら、僕も君らに従っていいかどうか分からない」 「残念ですが、市長」 「先ほどから何度も連呼されているが、僕はもう市長じゃない」 「――、失礼しました。では真鍋さん、お分かりになっておられるでしょうが、灰谷市ではあなたやあなたの恋人を安全にお守りすることはできません。灰谷県警ではなく、警視庁が出動したのはそのためだと思って下さい。そして我々の管轄があくまで東京都内である以上、ここに長くとどまることもできません。――我々と一緒に東京に来ていただけますか」 「……東京?」 「八神総監は今、安全な場所に身を隠しています。同じように、あなたにも当面身を隠していただきたい。――これは警察とヤクザの戦争です。どちらかの命を奪われた時点で我々警察の負けなのです」 真鍋が迷うように黙り込み、果歩は思わず、彼の腕に手を添えていた。 不安で、胃がキリキリと痛んだ。真鍋の表情の暗さが、彼がこの男の言葉を全く信じていないことを何より雄弁に語っている。緒方という最悪の危機は去ったが、今が本当に安心できる状況なのだろうか。 「……、断ったら?」 「我々は引き上げます。後は灰谷県警がなんとかするでしょう」 「なんとかね」 皮肉な目で笑った真鍋は、微かに嘆息してから果歩の肩をそっと押した。 「分かったよ。僕はどこにでも行くからひとつだけ頼みがある。彼女を、自宅まで送り届けてやってくれないか」 「それはできません」 果歩が口を開くより早く、左近は冷たく遮った。 「そこにいる女性も、真鍋さんと一緒に東京に護送するよう指示を受けています。的場果歩さんもまた、我々の護衛計画の一部なのです」 「彼女は僕には無関係の人だ」 真鍋が、初めて感情的な口調になって、果歩を背後に押しのけた。 「一体誰が、なんの権限で彼女の自由を奪えるのか言ってみろ。警察には、そんなことができる根拠も権限もないはずだ」 「指揮系統は申し上げられません。では真鍋さんは、残された彼女一人に灰谷県警の相手をさせるつもりですか。あなたがどう思おうと、こちらの女性はもう無関係ではないのです」 左近は冷たい目のままで淡々と言うと、背後を振り返って、「ルートの確保を」と部下に指示した。 「マスコミが大勢この周辺に詰めかけています。移動先を知られては厄介ですので、移送は変則的な手段を用います。何か持参されたいものがあれば、10分以内に支度をしていただけますか」 まだ頭上ではヘリコプターの音がする。果歩は不安に駆られて、自分の胸に手を当てた。 ――私も……東京に? 今、真鍋から離れたくはないが、あまりにも展開が想定外すぎて、どう答えていいか分からない。 あと10分でなんの支度もできるはずがなく、家では今頃、両親が藤堂を迎える支度をしているはずなのだ。 そもそも、突然現れたこの人たちが、敵なのか味方なのかも分からない。 警察なら問題なく味方だろうと思っていた、先ほどまでの自分はどこにもいない。 むしろ合法的に凶器を手にすることができるだけに、もっとも恐ろしい敵なのではないだろうか。―― 「……移動とはどこへ? まさか僕らを警視庁に拘留するとでも言うんじゃないだろうな」 真鍋の口調からも、抑えた怒りが溢れだしそうになっている。 この人が警察を全く信用せず、選挙中からホテルを転々としていた理由が、果歩にもようやく分かったような気がしていた。警察とは、ある意味もっとも恐ろしい暴力組織なのだ。 「むろん、法的にあなた方2人を拘束する権限は、今のところ我々にはありません」 「いずれ法的に拘束するとでも言わんばかりの言い方だな。ではどこへ? それを明示するか、僕が今の状況をマスコミにリークするか、どちらかを選んでくれないか」 真鍋がそう言うと、初めて左近の眉が微かに動いた。 「そんな真似をすれば、ますます面倒なことになるだけだと思いますが」 「面倒? 今以上に面倒なことがあるなら言ってくれるとありがたいよ」 「民間施設の、極めてセキュリティの高い場所とだけ申し上げておきます。ちなみに、東京地検特捜部への送迎も我々が行います。今日の午後に、任意で出頭される予定になっていますね」 「よく分かった」 冷ややかに遮ると、真鍋はポケットから携帯電話を取りだした。 「そんな曖昧な場所に、僕一人ならいざしらず彼女を連れて行くことは絶対に許さない。しかも10分で支度しろだと? 僕らは警察の都合で動く道具じゃない。――それに彼女には、警察など頼らなくても安全に守ってくれる友人がいるんだ」 「それは、誰のことを言っているんですか」 その刹那、果歩は息が止まりそうになっていた。 ************************* 「予定通り10分以内に護送車の準備を。――それから僕も、ヘリポートまで同行する」 「かしこまりました」 敬礼する左近の腕の向こうに、背の高い人影が現れた。 声だけで分かっていたはずなのに、それでも果歩には、まだ目にしている光景が信じられなかった。 どうして藤堂さんがここにいるんだろう。 驚きもせず笑いもせず、それが当たり前のような顔をして、警察に指示しているんだろう。 ――眼鏡、してない……。 渋い光沢を放つ黒の上質なスーツと、ネイビーのネクタイ、後ろに流した髪。 二宮家で一度見た時とも、印象が全然違う。冷たい目色も人に命令することになれた口調も、まるで、初めて見る別の人みたいだ。 「……瑛士か」 半ば呆然と呟いた真鍋に、藤堂は初めて冷めた目を向けた。 「誰の指示かと問われれば、僕が指示させたことです。なにしろこれは二宮家の元当主が起こしたスキャンダルなので」 「……、お前が、当主になったのか」 「ええ、皮肉なことに、あなたの思い通りにね」 どこまでも冷淡な藤堂の口調に、果歩は耳を疑った。というより、ここにいるのは本当に自分が知っている藤堂なのだろうか。 「そしてあなたがしでかした愚行の後始末を押しつけられている。僕のここから先の人生は牢獄です。人の人生を好き勝手に決めてくれたんだ、当然、その報いを受ける覚悟はあるんでしょうね」 「……、瑛士、お前は知らないと思うが」 「いずれにせよ、この件に関しては、もう真鍋さんに拒否権はないと思ってください。これからは、不服であっても僕の指示に従ってもらいます」 遮るように藤堂は言って、左近に向かって片手をあげた。それだけで全てを察したように、左近を始め、リビングで待期していた機動隊員が外に出て行く。 「最初に断っておきますが、僕は何もあなたを守りたくてこんな真似をしているんじゃない、そこにいる人についても同様です」 鋭い口調で言われたことが、自分のことだと――果歩はしばらく分からなかった。 そこにいる人。 そこに――いる人。 「僕には責務がある。二宮の家を守るという責任が」 やがて口を開いた藤堂は、そこで言葉を切り、憎しみさえ感じられる目で真鍋を見た。 「これは、当主である僕の資質が問われる問題だと思って下さい。あなたの思惑はどうあれ、一度二宮を名乗った人間を逮捕させるわけにも、殺させるわけにもいかない。僕の代で、そんな汚名を家につけさせるわけには絶対にいかないんです」 「瑛士、そもそも俺と二宮の家は最初から無関係だ」 辛抱強く、真鍋は続けた。 「二宮のおじさんに聞いてみるといい。俺が本当の意味であの家の当主になったことなど、一度としてなかったんだ」 藤堂は、馬鹿にしたような冷笑でそれに答えた。 「――あなたにはつくづく失望したな。僕より頭のいい人だと思っていたのに、まだ分からないんですか」 「……なんだと」 「これまでも散々策を弄してきましたが、伯父さんは、今度こそ本気で僕を当主に据えるつもりだったんです。真鍋さんはその駒として使われただけなんですよ」 「駒……?」 「何百年も安泰だった二宮の家が、あなたのせいで反社会勢力との抗争に巻き込まれている。あなたにそうさせる気はなくても、伯父さんがそうなるよう仕組んだということです。僕を逃げられない立場に追い込んで、その全ての後始末をつけさせるために」 「……二宮さんは」 唾を飲み込んだ真鍋が、呆然と呟いた。やはり、それを遮るように藤堂は口を開く。 「僕も知らなかったが、伯父さんは、心の奥底ではずっと僕を憎んでいた。理由は言うまでないでしょう。僕が、あの人の一番大切なものを壊してしまったからです」 冷めた口調で言った藤堂は、苦痛に耐えるように眉をしかめた。 「……僕も、今は逃げるつもりはない。伯父さんに憎まれていると分かった以上、あまんじてその罰を受ける覚悟です」 真鍋はもう何も言わない。ただ眉を寄せ、頭の中ではおそらく必死に考えている。自分がどこで、何を誤ったのかを。 そんな真鍋を、藤堂は皮肉な冷笑を浮かべて見下ろした。 「あなたは自分が殺されて、それで綺麗な幕引きを図るつもりだったんでしょうが、それは二宮の敗北を意味します。そんな無様な結末だけは絶対に許さない。どうせ死ぬつもりなら、どんな屈辱にも耐えられますね? 耐えてください。それがあなたが、僕にしたことへの贖いだ」 ――この人は……誰? 果歩は、悪夢の中に取り残されたような気持ちで、次々と残酷な言葉を吐く藤堂を見つめていた。 今、目の前にいる藤堂が、果歩にはまだ自分の知っている藤堂だとは思えなかった。 真鍋のことを、「雄一郎さん」と呼ばないのは何故だろう。 この部屋に入ってから、私を一度も見ないのは何故だろう。時折向けられる視線は、まるで果歩が空気になったかのように素通りされる。 ああ、そうか。 もうこの人は知っているんだ。 私も裏切りも、ここにいる理由も全部、知っているんだ。―― 藤堂の視線や態度のひとつひとつが、胸をズタズタに切り裂いていくようなのに、果歩は人形ようにぼんやりとその場に立ち続けていた。 そしてまた、今朝、浴室に入ったときと同じ感覚に見舞われる。 自分が、現実から抜け出して夢の中に入っていくような感覚。 「行き先は、じゃあ、二宮家か」 「ええ、僕が警察に要請して、そういう流れになりました」 「……確かにお前に対して、俺は……フェアではない方法を使ったのかもしれない」 しばらく黙っていた真鍋が、やがて苦しげに口を開いた。 「お前は俺には弟みたいなもので……、どこかでお前を子供扱いしていたのは、間違いない。……ただ、的場さんのことは」 「そこにいる女性のことなら、一緒に東京に連れて行くと言いませんでしたか?」 そこにいる女性。 果歩は微かに喉を鳴らし、真鍋が表情を固くするのが分かった。 「元はといえば、あなたの愚策でここまで追い詰められた気の毒な人だ。外にはマスコミが詰めかけ、あなたの命を狙う相手も、むろん彼女をターゲットにと決めている。守りますよ、僕が。お望み通り、二宮の屋敷で」 その高飛車な言い方に、うつむいた真鍋が懸命に怒りを飲み込んでいるのが分かった。 「……、礼を言うよ」 「ただ僕には、彼女はもう関係のない人だ。この人を守るのは、あくまで真鍋さんが僕に従うことと引き換えです。真鍋さんが僕の意に背いた時は、容赦なく放り出すのでそのつもりでいてください」 「……、瑛士」 「忘れたんですか、真鍋さん。そもそも二宮とはそういう家です。その力は、家を守るためにしか使えない。――あなたがこれ以上二宮の家に泥を塗らないことと引き換えになら、この人を守ると言っているんです」 「いい加減にしろ!」 ついに耐えかねたように、真鍋は怒りもあらわに顔を上げた。 「お前は誤解しているし、――一体さっきからなんなんだ。それともこれは、壮大な茶番なのか? お前が何を言っているのか、俺にはさっぱり分からない」 「誤解? この状況で僕が何を誤解しているのか、ぜひ分かりやすく教えていただきたいですね。でもそんなことは、もう些細な問題だ。先ほども言ったように、僕の人生はもう決まってしまったんですから」 「……どういう意味だ」 「これは、彼女が僕を裏切る以前の問題です。いってみれば、僕が先に選択した」 「だから、どういう意味なんだ」 「僕は昨日結婚したんです」 |
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