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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(5)



  ――結婚……?
 藤堂が何を言っているのか、数秒、果歩の頭に入ってこなかった。
 ――え?
 今、……今、もしかして結婚って言った?
「……結婚?」
 最初に呆然と呟いたのは真鍋だった。
「今、お前、結婚って言ったのか?」
「ええ、それもまんまと、伯父さんの罠にはまってね」
 藤堂は冷めた目のままで視線を下げると、どこか忌々しげな口調で続けた。
「僕が、一度は結婚したいと思っていた人は、どうやら伯父さんのお眼鏡には適わなかったようです。あの人は最初から僕のパートナーを決めていた。それが後継者になる唯一の条件なら僕に選択の余地はない。昨日の内に籍を入れて、二宮との養子縁組も済ませました」
「ま……」
 真鍋が掠れた声で口を開いた。彼は明らかに動揺して、何度か声を詰まらせてから、言った。
「――待ってくれ、一体二宮さんが、どんな女性を選んだというんだ」
「信じられないなら、紹介しましょうか」
 藤堂はあっさりと言って、視線を開け放たれたリビングのドアの方に向けた。
「怜さん、こっちに来てくれないか」
「――今?」
 返されたのは、場違いに明るい声だった。 
「ねぇ、ここで出て行くと、まるで私が悪役令嬢みたいじゃない」
 固唾をのんで見守る果歩の前に、モデルのような長身の女性が現れた。
 黒いパンツスーツに白のシャツというシンプルなスタイルなのに、そこに現れただけで空気が一変するほど華やかなオーラをまとっている。
「はじめまして、瑛士さんの妻の怜です」
 鳶色の瞳に、褐色の長い髪。抜けるように白い肌。果歩はただ、圧倒されていた。
 並び立つ2人は、揃えたような黒いスーツに身を包み、身長差は殆ど感じられない。
 野暮ったいはずの藤堂が、今は別人のように洗練されて見えるのは何故だろう。
 まるでドラマから抜け出したような、お似合いのカップル――
「……八神さんの、姪御さんか」
 ようやく真鍋が口を開いた。怜は心得たように口角を上げる。
「ええ。真鍋元市長には、叔父が大変お世話になりました。お会いするのは初めてですけど、お噂はかねがね」
 怜の言葉を遮るようにその腕を取ると、藤堂が自分の方に引き寄せた。
「昨日、そろって養子縁組をしたので、戸籍上の名前は二宮になります。とはいえ、当面は旧姓で通すつもりなので、呼び方を変えてもらう必要はありません」
「――待ってくれ……」
 真鍋が遮り、彼は苦痛をこらえるような目で果歩を見て、そして続けた。
「……瑛士、嘘はもういいから、いい加減本当のことを言ってくれ」
「僕もこの数ヶ月、ずっとそんな心境でしたよ」
 皮肉な口調で藤堂が返す。
「それでもその人は、いずれ分かるとでも言いたげな目で、僕を見ていただけでしたけどね」
「頼む、瑛士。……俺なら、何があってもお前の言う通りにすると約束する。でも、それと的場さんのことは別の話として考えてくれないか」
「あなたにはそうでも、僕にはもう切り離せない問題です。というより、たとえば僕の個人的感情で彼女を守ったとして、それを僕の妻が納得すると思いますか」
 僕の、妻……。
 果歩はうつろな視線を足下に向けた。
 なんだろう、この感覚。
 好きな人に、そういう言葉で傷つけられるのは、私の運命みたいなものなのかな。
 ていうか、何を私が被害者みたいな顔してるんだろう。
 馬鹿じゃない? 最初に裏切ると決めたのは私で、藤堂さんがそれに対してどういう態度を取っても、受け止めるつもりでいたのに。
 なのに、何を無駄に傷ついているんだろう。
 もう私には、傷つく資格もないっていうのに。――
「もちろん納得なんてできません」
 藤堂の隣に立つ怜が、微かに微笑みながら言葉を継いだ。
「真鍋さん、私もまた、この件で人生が変わってしまったことをご理解ください。彼は当面仕事を続けるそうですけど、私は昨日付で退職しました。双方にとって思わぬ縁談でも結婚した以上は夫婦です。形だけの妻なんてもちろん御免被ります。私も一応女ですから」
 真鍋はまだ、猜疑心を込めた目で怜を見ている。
 怜は首をかしげるようにして笑うと、藤堂の腕をとって寄り添った。
「昨夜、瑛士さんに未練などないと確認できたから、私も的場さんを二宮で守ることに同意したんです。もしそうでないなら、その時は私が彼女を追い出すでしょうし、二度と瑛士さんに近づけたりしないでしょうね」
「……もういい、やめてくれ」
 うめくように言った真鍋が、果歩の肩を抱いて自分の方に引き寄せた。まるで、もう見るなといわんばかりの態度だった。実際、果歩はもう見ていなかった。自分の足下だけを見つめていた。
 それでも真鍋に庇われた途端、見なければいけないんだと思い直した。
 これは、いってみれば天罰のようなもので、絶対に避けてはいけないことなのだと。 
「よく分かったよ。……もう、十分だ。何もかもが俺の失策で、……お前という人間を見誤っていたことが全てだった」
「ご理解いただけて何よりです」
 藤堂は素っ気ない口調で言って、どこか優しい目を傍らの妻に向けた。
「怜さん、先に車に戻っていてくれないか」
「私なら一足先に東京に帰らせてもらうわ。家の手配もあるし、調べておきたいこともあるから」
 次の瞬間、藤堂が横顔を強張らせた。不意に顔を寄せた怜が、頬に口づけたからだ。 
「新婚なんだから、あまり遅くならないでね」
 年上なんだな。とそんな2人を見ながら、果歩はぼんやりと思っていた。
 何歳くらい上の人なんだろう。今の藤堂さんも年齢不詳だけど、女性の方もよく分からない。30代後半のようにも見えるし、無邪気な笑顔は20代のようにも見える。
 真鍋が再び果歩を見たが、果歩は顔をあげなかった。心の表面に膜が張ったように、現実の気持ちが出てこない。
 その真鍋が、再び藤堂に向き直る。怜は出て行き、室内には再び3人だけになっていた。
「瑛士、お前を本当に、見損なっていたよ」
「あなただけには、そんなことを言われたくないですね」
 藤堂は微かに笑って顔を上げた。
「むしろあなたを慕っていた過去の自分を、どこかに棄ててきたい気分です」
「勝手にしろ。――彼女と話し合うつもりはないのか」
「話し合う? 何を?」
「お前はさっき、自分が先に選択したと言ったな。しかも取り返しのつかない選択だ。それについて、彼女に説明することはないのかと言ってるんだ」
「説明なら、今したと思います。どこかで似たような話を聞いたと思ったのは僕の思い過ごしでしたか。何も言わずに消えていなくなるより、随分ましな別れ方だと思っていましたが」
「瑛士――」
「やめて!」
 どちらを止めたのか分からないままに、果歩は咄嗟に藤堂を見上げていた。同時に藤堂も驚いたように果歩を見下ろし、2人の視線が、数秒空で絡み合った。 
 それを先に、どこか腹立たしげに逸らしたのは藤堂だった。
「初めて、この人の素顔を見たな」
「…………」
「そもそも僕と彼女に、この状況で何を話し合えというんですか。僕は――たとえ僕自身が今回の選択をしなくても、こんな裏切りをする人と一緒にはいられない」
「……瑛士、いい加減にしろよ」
 耐えかねたように真鍋が果歩を押しのける。それを遮るように、藤堂は真鍋に向き直った。
「僕が真鍋さんを殴りますか? それとも真鍋さんが僕を?」
「…………」
「もうどちらでもないですね、――ただ、こうやって一人の女性の人生を振り回した責任だけは、きっちりとってもらいます」
 
 
 *************************
 
 
 藤堂と真鍋を乗せた車が、警察車両に囲まれて公道に滑り出していく。空から響くヘリコプターの爆音がサイレンの音をかきけすほどにうるさい。
 歩道を埋め尽くすテレビカメラとレポーター。真鍋の車を追って走り出すマスコミとおぼしき車、バイク――
「ヘリポートで、また会えますよ」
 耳をつんざくほどの喧噪が遠ざかった時、背後から、片倉の声がした。
 ぼんやりと車を見送っていた果歩は、弾かれたように顔を上げる。
「一緒に行きたかったでしょうが、今は別々に動いた方が安全です。的場様は、私が責任をもってヘリポートまでお送りしますので」
「……ありがとうございます」
 静けさを取り戻した別荘周辺には、片倉と果歩、あとはボディガードとおぼしき数名の男性の姿しかない。
 今し方出て行った車の中に、果歩もまた同乗したことになっていた。マスコミと灰谷県警の目を欺く形で、果歩だけが片倉と残されたのだ。
 不意に頭上が影に覆われたのを感じ、バッグを握り絞めていた果歩はぎこちなく顔を上げた。いつのまにか、小雨が降り始めている。
 灰色に沈んだ世界に、灰色の雨が降っている。 
 背後で傘をかざしてくれている片倉の顔を、果歩はまだ見られないでいた。
 無意識に胸に置いた手が、もうそこにない指輪を探し、震えている。
「私は、余計なことをしましたか」
 不意に背後から、片倉の声がした。
 ――余計なこと……?
「昨日、警察に屋敷に入るのを止められた時、そこで思いとどまるべきだとも思ったのです。けれど私の判断で、的場様を雄一郎様の傍に行かせました」
 果歩は、こくりと唾を飲み込んだ。
「……長年この仕事をしていると、昨夜のように自分で判断するしかない場面に限りなく遭遇します。そんな時、私はいつも己の勘に従っているのです。ああすることが、私には昨夜の最適な答えに思えました」
「……藤堂さんは」
 その名前を口にした時、胸の奥がかきむしられるように痛んだ。
「……、彼は、その時にはもう、先ほどの人と結婚を決めていたんですか」
「そのように存じます」
「……私が、真鍋さんのところに行くことも?」
 それには、片倉はしばらく無言だった。
「私が申し上げました。……その時は、的場様はまだ瑛士様の恋人でしたから」
 片倉の言葉のひとつひとつが、容赦なく果歩の胸に突き刺さる。
「……藤堂さんは、」
「的場様」
 傘をさらにかざし、遮るように片倉は言った。
「先ほどの瑛士様のお振る舞いは私にも意外でしたが、決して嘘を言われていたわけではないと思います」
「…………」
「――的場様より、瑛士様が先に選択したのは事実です。ですから、このことで瑛士様に罪悪感を抱かれる必要は全くないと思います。瑛士様も」
 そこで初めて、片倉は苦しげに言葉を切った。
「今日、それを一番お伝えになりたかったのだと思います」
 

 *************************
 
 
 2人の前に黒塗りの車が数台滑り込んできて停車する。片倉は気を取り直したように、果歩を促して後部座席の扉を開けた。 
「もうここには戻ってこられませんが、お忘れ物などはないですか」
「ないですけど、……なんだろう、とにかく色々、なさすぎて」
 果歩もまた、気持ちを切り替えて苦笑した。
 メイク一式に、眼鏡にコンタクトケース。さっきから目が痛いのは、装着時間の限界を超えているからだ。だから自然に目も潤んでくるのかもしれない。
「やっぱり、いったん自宅に帰るのは無理ですか」
「そうですね。……難しいと思います」
 表情を陰らせた果歩を、片倉は気の毒そうな目で見下ろした。
「今回は、警察の方からご自宅に連絡を入れますので、ご両親にも納得いただけると存じます。――もちろんご心配はされるでしょうが」
「……、私が電話するのは、じゃあその後の方がいいですね」
 心配どころか、父がどれだけ激怒するかと思うと、気持ちがますます重くなる。
 まだ、これから起こることが現実だと思えないが、果歩はこれから東京の―― 一度訪れたことのある、二宮家に向かうのだ。
 その一角で、少なくとも一週間は身を隠すことになった。当然、真鍋も同じ立場である。
 聞いたときは絶対に嫌だと思ったし、今でもその気持ちは変わらない。
 そこは、藤堂と怜が共に暮らす家でもあるのだ。藤堂は当面灰谷市にとどまるだろうし、遊園地並に広い敷地で顔を合わせる機会がないことも分かっているが、それでも耐えられないと思った。
 でも、他に選択肢はない。果歩が拒絶すれば当然真鍋も拒否するだろうし、そうなれば真鍋の安全が保証されなくなるからだ。
 ――ありがたいと思わなきゃいけないんだ。少なくとも、真鍋さんの近くにいられるんだから。
 藤堂との話し合いの後、真鍋は悄然と黙り込み、果歩に掛ける言葉も思いつかないようだった。
 果歩もまた、何を口にしても上っ面な言葉しか吐けないような気がして、黙り込んだままでいた。
 今日の出来事が、二重三重に真鍋を追い詰めてしまったのは明らかで、それをどう励ましていいかさえ、その時の果歩には分からなかった。
 というより、この先自分が本当に真鍋の傍にいていいか分からない。
 二宮家に行きたくない気持ちは、むろん果歩より真鍋の方が上だったろう。
 あれほど容赦ない言葉で、10歳も年下の――それまで弟のように可愛がっていた藤堂に貶められ、侮辱されたのだ。その藤堂の、いわば自宅に匿われるのだから、屈辱もひとしおだろう。果歩が真鍋の立場でも、断固として拒絶すると思う。
 けれど、真鍋は逆らうことなく、その条件を受け入れた。それが果歩のためだと分かっているから、果歩も何も言えなかった。
 結局真鍋も果歩も、互いが足枷となって縛られている。それが情けないし、その弱みを容赦なく突いてきた藤堂と怜には、怒りさえ感じている。
 でも――
(この人の素顔を、初めて見たな)
「今朝は、何度かお電話をいただいていたのに、出られなくて申し訳ございません」
 雨音に混じって片倉の声がした。気づけば運転手が入れ替わり、片倉が運転席に収まっている。
「実は明け方から数時間の間、私は灰谷県警に拘束されていたのです、携帯も護身用の武器も全て押収されて、危うく銃刀法所持違反で逮捕されるところでした」
「えっ……」
 驚きで声を詰まらせる果歩越しに背後を見ると、再び前に向き直った片倉はエンジンキーを回した。
「幸い、県警の動きを瑛士様が早々に察してくださり、ことなきを得ました。――瑛士様というより、佐倉様がその方面にお詳しいとのことなので、佐倉様のご助言があったのかもしれませんが」
「……佐倉様?」
「――失礼しました。瑛士様の奥様の旧姓です。ご親戚が警察官僚だとお聞きしたので」
 聞くんじゃなかったと思ったが、果歩は無理に口角を上げた。
「素敵なお名前ですね」
 同性に対してあまり引け目を感じたことのない果歩だったが、彼女だけは別格に思えた。顔立ちでいえばりょうの方が遙かに美麗だが、持っているオーラのようなものが全然違う。きらきらと輝く太陽光が彼女の周辺に降り注いでいるようだ。
 第一声で自分のことを令嬢と言ったのには驚いたが、きっと普通にそんな風に言える環境で育った人なのだろう。 
 ――お似合いだったな……、藤堂さんと。
 彼と並んで、身長差を感じない女性を初めて見た。しかも機転を利かせて片倉さんを助けたのなら、パートナーとしては最適だ。助けられてばかりの情けない自分とは全然違う。
 なにより、あの人は藤堂さんのお義父様に選ばれたのだ。――
「…………」
 目が痛い。早くコンタクト外したいな。
 で、何も考えずにお布団にくるまって寝てしまいたい。
 目が覚めたら、この雨も上がっているのかな。
 それで……。
 昨日の午前中、ベランダから見上げた空を思い出し、果歩は反射的に目を閉じた。
 もうやだ。
 自分が、汚くて情けなくて嫌になる。
 自ら望んだ結末が、今目の前にあるだけなのに、何を被害者みたいな顔で傷ついて、身勝手な感傷にふけっているんだろう。
 ていうか、藤堂さんももっと上手く――
「……片倉さん」
「はい」
 車はまだ同じ場所に停車している。おそらくだが、ボディガードを乗せた後続車の準備ができるのを待っているのだろう。
 無意識に自分の胸に手を当てた果歩は、そこに何もないことに気づき、馬鹿みたいだなと苦笑した。自分で外したものなのに、朝から何度同じ場所を触ってしまったんだろう。
「……実は藤堂さんに、お返しして欲しいものがあるんです」
「……はい」
「お預けしてもいいですか。彼ももう、私と顔を合わせたくないと思うので」
「…………」
 冷静に振る舞っているようでも、バッグに差し入れた自分の手が震えている。指輪を納めたポーチを取り出した時、「――的場様」と、片倉の堅い声がした。
「私は優秀な執事なので」
「…………」
 はい?
 そこは笑うところだろうかと思ったが、片倉が大真面目だったので、果歩は瞬きをして彼の言葉の続きを待った。
「的場様が、何を瑛士様にお渡しになりたいか分かります。それを私が、お受けすべきことも」
「…………」
 果歩は黙って、ポーチをぎゅっと握り締めた。
「……ですが、お断りしてもいいですか」
「どうして、ですか」
「お答えしかねます。……できれば、的場様で処分いただければよろしいかと」
「…………」
「申し訳ございません。私はあくまで瑛士様にお仕えしている身ですので」
 一瞬、胸を締め付けられるような気持ちになったが、果歩は「そうですね」と急いでその感情をのみこんだ。




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