「こちらにどうぞ」 左近に先導されて案内された部屋の前には、制服警官が2人見張りに立っていた。 空港内の地下にあるVIPルーム。 部屋はプラベートジェットの発着口につながっており、通路の出入り口は人目につかないよう厳重に管理されている。 先日この部屋に、父と叔父がいたことを思い出し、真鍋は皮肉な気持ちで足を止めた。「ここで、何を?」 「簡単な事情聴取です。立場のある人間が行いますので、ご安心ください」 「安心も何も」 投げやりに言って、真鍋は扉に手を掛けた。 「どうせ俺に、拒否権はないんだろう。誰が出てきても構わないよ」 ここまでの道中、車の助手席に座っていた藤堂と後部座席に座っていた真鍋は、あたかも尋問のような事務的な会話を交わしただけだった。 車中の藤堂は終始冷静で、時折片倉と連絡を取っている口調にも、一切のよどみがなかった。真鍋の顔を一切見ない横顔は、自分の全く知らない、別の誰かを見ているような感じだった。 まだ、信じられない。 まだどこかで、今の何もかもが、瑛士の仕組んだ芝居ではないかと思っている。 いつものように、少し甘えるような目で「雄一郎さん」と親しみを込めて呼んでくれるのではないかと――そんな馬鹿げたことを考えている。 ――馬鹿だな、俺も。 瑛士から、その親しみの全てを奪ったのは俺なのに。 昨夜、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのは俺なのに―― ただそのやるせなさの中で、ひとつ、気になることを瑛士に聞かれたのが今も胸に引っかかり続けている。 (――真鍋さん、二宮家が保管する文書について、伯父さんから何か聞いていることはありませんか) あれはどういう意味だったのだろう。 二宮家が保管する文書というからには、同家が収集・保管しているというさまざまな国家機密に係る文書だろうが、それをどうして俺に聞いた? もちろん二宮喜彦からは何ひとつ説明を受けていないし、それがどういうものでどこに保管されているのかというのも、噂程度にしか聞いたことがない。 そもそも真鍋は、二宮家の全容を一切知らされないまま、形ばかりの当主になったのだ。――真鍋にとってはほんの一時、その力を拝借したかっただけで、当然二宮喜彦も真鍋の目論見を承知していたはずだった。 ただ、真鍋の計画に乗ることを決めた二宮喜彦の思惑は、藤堂が先ほど口にしたこととは大分違うはずだ。 あの人は――多分……。 苦い思いを噛みしめながら扉を開けた真鍋は、そこにいる人を見て、目を見張った。 真珠色の絨毯が敷き詰められた室内で、イタリア製のソファに腰掛けているのは、先に東京に戻ると言っていた佐倉怜――今は二宮怜になった、八神警視総監の実娘だった。 「どうも、真鍋さん」 微かに笑って、怜は気さくに片手を挙げた。 「かけてくださる? どうしても2人で話がしたくて、新婚の夫を欺きました」 「悪いが、これ以上瑛士に恨まれるのはうんざりなんだ」 口にした途端、自虐にも似た嫌悪感が、微かに自分の眉をゆがめさせた。 「何の話か知らないが、隠し事はこれきりにしてくれると助かるよ」 「ごめんなさい。なにしろ瑛士さんはまだ私を信用していないし、私も私で、彼のやり方を不服に思っているから――飲み物は?」 「結構だ」 素っ気なく答えながら、真鍋は今の状況を頭の中で整理した。 芝居の可能性はゼロではないが、今の言葉を額面通りに受け取れば、瑛士とこの女性はまだ一枚岩ではないらしい。そして、最終的な主導権は、今時点では怜が握っている。 警視庁の左近を瑛士を欺く形で使っているのだから、そういうことだ。 ということは、あれは脅しではないのかもしれない。 (昨夜、瑛士さんに未練などないと確認できたから、私も的場さんを二宮で守ることに同意したんです。もしそうでないなら、その時は私が、彼女を追い出すでしょうし、二度と瑛士さんに近づけたりしないでしょうね) 目の前の女が、果歩の命運を握っていると思うと果てしなく憂鬱な気持ちになる。 しかし二宮家の当主はあくまで瑛士で、その立場は絶対的なはずだ。当主の妻に求められるのは、優秀な遺伝子を残す、ただそれだけである。だからこそ妻は家に閉じ込められ、外界とは遮断された生活を余儀なくされるのだ。 ―― 一体二宮の家は、今どういう状況になっているんだ? 「……君と瑛士は、昨日、結婚したと言ったな」 「ええ。役所に婚姻届を出したという意味では」 「行き過ぎた質問だったら謝るが、君は瑛士をどう思っているんだ?」 「どうとは?」 「……俺が言うまでもないが、瑛士には恋人がいた。君らの結婚が、瑛士の意思だったとはどうしても思えないんでね」 怜は特に気にする風でもなく、晴れやかに微笑んだ。 「私の立場で答えれば、もちろん瑛士さんを配偶者だと思っています。4歳も年下だし、多少頼りなくはありますけど」 4歳年下。 真鍋は思わず目をそらした。同時に、果歩には絶対知られたくないと思っていた。 そういう時の女性の気持ちは想像するしかないが、自分と同じ年の女性が、年下の恋人の配偶者になったのは、彼女にとって苦痛でしかないのではないか。 その気持ちは、少しであるが真鍋にも分かる。7歳年下の、まだ22歳だった果歩と付き合っていた頃、彼女にはもっと若くて――人生に憂いなどない若者が似合っているのではないかと何度もそう思ったからだ。 彼女が次に選んだ恋人が、2歳も年下だったことには驚いたが、逆にそれで諦めがついたのかもしれない。 やはり自分のような年の男は彼女にはふさわしくなかった。そんな風に、心にふんぎりをつけることができたからだ。 「そもそも結婚に、恋愛感情って必要でしたっけ」 そんな真鍋を見つめ、怜は不思議そうな目で笑った。 「なくても法的には問題ないし、後からついてくればいいんじゃありません? もちろん私も彼も最初はぎくしゃくしましたけど、そういうのって次第になじんでいくものでしょう?」 「さぁ」 「さぁ? 彼と同じ立場で一度はご結婚されたのだから、アドバイスくらいしてくださってもいいじゃないですか」 「残念なことに、僕の妻は一月も経たずに他界したんだ。――それで? いい加減本題に入ってくれないか」 あえて感情を揺さぶるワードを入れたつもりが、怜は動じることなく冷笑した。 「あなたの本題は、途中で切り上げてしまうんですね。意に沿わない答えでごめんなさい。でも私、瑛士さんとはきっちり添い遂げるつもりですから」 「…………」 完璧なアンガーコントロール。さすがは八神夫妻の実の娘だ。 この女性相手に、まだ甘いところのある瑛士が主導権をとれるはずがない。 「こう見えて古風なんです。厳しい家で育ちましたし、両親も喜んでくれた縁組みです。もう年も年だし、子供だって産みたいですから」 「……本題は?」 暗い気持ちで真鍋は聞いた。そうか。芝居でも嘘でもなかったのか。 俺は――俺は果歩に、これから何をしてやればいいんだ。 8年前も今も、彼女の幸福をこんな形で奪ってしまった。それをどう、償えばいいんだ。 光彩建設の絡んだ汚職では、おそらく真鍋の逮捕は免れない。叔父の吉永がそのために色々工作していたことは知っていたし、当時の状況を知っているのも、その責任を問えるのも、もう真鍋しかいないからだ。 まずは伯父と父を国外に逃亡させたことで逮捕され、そこから本格的な取り調べが始まるだろう。それはもう覚悟している。 自分はそうやって、いつか確実に果歩から離れられるが――その後、彼女はどうなるんだ? 誰が彼女をこの先守ってくれるんだ? 「真鍋さん、今何が起きているか、もちろんあなたは理解していると思います。なにもかもあなたが企んだこととは言いませんけど、父の身に危害が及ぶことは、当然想定されていましたよね」 「……八神さんか」 真鍋は暗い目で怜を見上げた。 八神と面識を得たのは、真鍋が果歩に絶対に知られたくないと思っていた時代のことだ。 緒方は、真鍋が一方的な被害者のような言い方をしたが、本当のところは少し違う。 その頃の真鍋は、闇の勢力に繋がる人間――いわば緒方のような人間とのつながりを求めていたのだ。 「言い訳するつもりはないが、あの人の覚悟は俺以上だった。それを悔いるような人ではないが、ご家族には申し訳ないことをしたと思っている。結局は、俺の失策に八神さんを巻き込んだようなものだからね」 「父を動かしただけあって、見事だったと思います。あなたの立てた計画は」 怜は冷ややかな目で立ち上がった。 「これであなたの見立てた人物が、侠生会の会長になっていれば完璧でしたね。灰谷市も光彩建設も、報復を受けることなく湊川会の影響下から逃れられていたはずです。――でも、結局はそうはならなかった」 「…………」 「隠居した元ナンバー2を怒らせてしまったのは失敗でしたね。その人物に根回しをしなかったのは、あなたのミスではないんですか、真鍋さん」 「最初から俺の失策だと言っているつもりだが」 真鍋は目元を険しくさせて怜を見上げた。わかりきったことを、何故念押しするのかと思いながら。 「先ほど、瑛士さんと添い遂げると言いましたけど、実は別れてあげてもいいと思っているんです」 眉を寄せる真鍋を見下ろし、怜は冷めた目で微笑んだ。 「取引しません? 真鍋さん」 「……取引?」 「私がどうして、キャリアを棄ててまで瑛士さんとの結婚を受け入れたと思います? どんな手を使っても、私を産んでくれた両親を助けたかったからです。人としての幸福を棄ててまで社会正義のために戦ってきた両親です。それがこんな結末だなんて、あまりにも不条理だと思いませんか?」 「……それで?」 「瑛士さんは、二宮の家名のためにあなたを守ると言ってますけど、現実的には不可能です。詳細は言えませんけど、今瑛士さんは行き詰まっています。――はっきり言えば、昨日の時点で彼のプランは詰んでいるんです」 「…………」 昨日の時点? 昨日――たった一日で、一体何があったんだ。 「なんらかの形で、少なくとも私たちサイドが報復を受けなければ、侠生会は絶対に引きません。育ちのいい瑛士さんには分からないと思いますけど、ヤクザってそういうものですよね? 二宮の名前に負けて引き下がれば、今度は侠生会のメンツが立たなくなるじゃないですか」 「――、もし君が俺をここに呼んだ理由が」 ようやく怜の目的を理解した真鍋は、こくりと唾をのんだ。 「瑛士に黙って、俺を連中に差し出すことなのだとしたら、初めて君に感謝するよ」 「うまくやります。傍目にはあなたを守って――そう、ほんの些細なミスで失敗した体裁で」 「今日、いくらでもその機会はあったんじゃないか」 「その前に、父の安全を確約させるための交渉をしないといけないんです。瑛士さんは知りませんけど、もう水面下で話し合いが進んでいます」 その計算高さと残酷さに、真鍋は内心舌を巻いていた。 二宮さんの人選は確かだった。これほど冷徹で合理的な女性を、俺は今まで見たことがない。 その時扉が開いて、左近が中に入ってきた。 「お嬢様、今、少しよろしいですか」 「外で待ってて」 怜がぞんざいに答えると、左近は折り目正しく敬礼してから外に出る。 そういう関係か――と真鍋は表情を変えずに驚きをのみこんだ。少なくとも佐倉怜にとって、左近はただの警察官ではないらしい。 左近のことは、八神からも聞いたことがない。一度、調べてみた方がいいのかもしれない。 「じゃ、真鍋さん、契約は成立でいいですね」 「ああ」 真鍋が立ち上がると、微笑んだ怜がすっと手を差し出してきた。 少しためらってから手を出すと、力強く握りしめられる。 ひどく奇妙な気分だった。死神と握手したら、多分こんな気持ちになるのだろう。 その死神が、ひどく優雅に微笑んだ。 「その時は間違いなく瑛士さんと離婚すると約束します。真鍋さん、あなたの死と引き換えに」 ************************* 市の東部にある空港の中に、目的のヘリポートはあった。そこには警察車両が詰めかけ、すでに物々しい様相を呈している。 隣を片倉に、前後を屈強なボディガードに囲まれて、VIP用の通路に案内された果歩は、これから戦争にでも行くのだろうかと、不思議に皮肉な気持ちになった。 まぁ、もうじたばたしても仕方ない。そもそもこんな状況で、平服にドすっぴんで歩いているのだから、これ以上怖いことなど早々ないだろう。 怖いのは私の気持ちと……――そう、またあの人が、私の前から消えてしまうことだ。 「……真鍋さんは、今どこに?」 「別室で、警察の方と話をされていると伺っています。ヘリが出るのは10分後なので、直に戻っておいでになるでしょう」 ヘリコプターに乗るなんて、人生初めての経験だ。最初は同じ機体に藤堂も一緒に乗るのだと思って憂鬱だったが、道中別々のヘリだと聞いて、その不安もなくなった。 怜は一足先に東京に帰ったらしいが、藤堂はこれからどうするのだろう。今日は土曜日だから、いったんは東京に行き、月曜日に再び灰谷市に戻るのだろうか。 真鍋のしたことの後始末と彼は言っていたが、灰谷市も相当大変な立場に立たされるはずだ。局のとりまとめ役である藤堂と春日の忙しさは、考えるまでもない。 というより、二宮の当主と市役所の仕事って、両立できるものなのだろうか。一応公務員は副業禁止だけど、その辺りは―― 反射的に藤堂の姿を探して視線を彷徨わせた果歩は、はっと我にかえってうつむいた。 何やってんだろ、私。 いい加減、彼のことを考えるのはやめなければ。 考えたところで、どうにもならないし、私にできることは何もない。それに、もう――もう二度と振り返らないって決めたんだ。 果歩は気持ちを振り切るように首を振って、片倉を見上げた。 「片倉さん、途中でどこか、お店にでも寄れません?」 「お店とは?」 「色々……化粧水とか乳液とか。ひ……」 口にしかけた言葉を飲み込み、果歩は笑顔で前に向き直った。 「せめて口紅くらい塗りたいですし、目薬も欲しいかな」 「どうでしょう、少し難しいかもしれません」 耳につけたイヤホンに手を当てながら、慎重な面持ちで片倉は言った。 「急ぎご入り用なものがあれば搭乗までに私が手配いたします。ただ、大抵のものは二宮の家に揃えられていると存じますが――え?」 そこで片倉がイヤホンに意識を集中させたので、果歩は所在なくため息をついた。 いや、いくら二宮がすごい家でも、私の度にあう眼鏡はないはずだし、コンタクトケースやコンタクトの洗浄液とか……そういったものまであるのだろうか。 というより、やっぱり一度は家に帰りたい。いまさらだけど、これから長期にわたって家を空ける理由を、警察はどう両親に説明してくれているんだろう。 ていうか役所は? しばらく休んでいいとは言われているものの、ここまで休みが続くと――クビにならない? ああ、なんだか罪を犯して逃亡している気分になってきた。本当に本当に、今から私が東京に行くの? 「果歩!」 その時、思わぬ声が背後から響いた。 |
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