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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(7)



 ――え……?
 振り返った果歩の視界に、制服警官に先導されて通路を歩いてくる男女の姿が飛び込んできた。それが父と母であると分かった果歩は、声をなくして立ちすくむ。
 声を上げたのは母親で、父は唇を一直線に引き結び、落ち着いた足取りで歩いている。
「的場様、ご家族が空港までご挨拶にこられたと、今警備室から連絡が」
 傍らで、片倉が言っている。いや、そういうことはもっと早く教えてほしい。
「すでに事情は説明して、納得いただいたとのことですから大丈夫です。あまり時間はありませんが、別室を用意しましょうか」
「え、ええ。その方がいいと思います」
 果歩はこくりと唾をのんだ。
 父とつきあいの薄い片倉には分からないだろうが、今、父はとんでもなく怒っている。
 傍目には冷静そのものに見えるけど、それは怒りが爆発寸前になっている兆候だ。
 昔一度だけそんな父を見たことがある。高校生の時――嘘をついて友人と県外のコンサートに行った帰りに事故に遭って、朝帰りした時と同じ顔――。
「的場様、申し訳ございません。私からも連絡を入れさせていただいたのですが」
 そう謝る片倉をいきなり押しのけると、父は立ちすくむ果歩の腕を掴みあげた。
「――お前という奴は!」
 果歩はぎゅっと目をつむった。叩かれる――!
 昨日行き先も告げずに家を出たきり、電話一本入れなかった。
 今日、家に藤堂を招くと予告しておきながら、その時刻を過ぎても電話ひとつしなかった。父が怒るのも当然だ。5月からずっと心配ばかりかけてきて、その挙げ句がこの騒ぎで――
 目の前に、いきなり大きな背中が割り込んだ。その人が父の腕を掴んで止めてくれたと分かった時も、まだ果歩は何が起きているのか分からなかった。
 果歩の視界には、その人の肩越しに顔を赤くして怒っている父の姿がある。
「……っ、き、貴様、一体何のつもりだ」
「すみません。お嬢さんは何も悪くないんです」
 目の前で、父の腕を掴んでいるのは藤堂だった。
「落ち着いてください。事情は、僕が説明しますから」
「なんだと、貴様ッ」
「お父さん、ここは警察が大勢いますから!」
 母が、もう片方の父の腕にしがみつく。
 それで我に返ったのか、父――憲介は、腹立たしげに、藤堂と母の腕を振りほどいた。
「事情ならもう聞いた」
 そう言う父の顔には、まだ爆発しそうな怒りが見え隠れしていた。
「昨日辞任した馬鹿市長のせいで、うちの果歩まで危険な立場になったという説明だ。言ってみろ。なんでなんの関係もない男のせいで、果歩が逃げ隠れしないといけないんだ。というより、今日までお前は何をしていたんだ!」
「……、申し訳ありません」
 藤堂が苦しげに頭を下げる。
「俺はな、お前を信用したから娘との交際を認めたんだ。それを一体、なんなんだ。果歩もお前も、何度俺をたばかれば気が済むんだ」
 お父さん、やめて。
 果歩は呆然としながら、心で悲鳴のような声を上げた。
 今ここで、誰が一番関係ないかと言えば藤堂だ。そのことを父はまだ知らないのだ。
「……藤堂さん、今日私たちが、どういう気持ちであなたを待っていたか分かります?」
 そこで母が口を開いた。いつもさばさばして、どんな深刻な状況でもあっさり受け流す母が、初めてみるような怖い目をしている。
「31の娘がようやくプロポーズを受けることになって、家族全員が喜んで、その支度をして待っていたんです。それが、一体どうしたら今みたいなことになるんですか」
「すみませんでした」
 果歩が震える唇を開くより早く、そう言った藤堂が、唇を噛みしめて頭を下げた。
「僕が……事情があって、もうお嬢さんとの約束を果たせなくなりました。本当に申し訳ありません」
「……事情?」
 訝しげに呟く父に、藤堂は頷き、さらに深く頭を下げた。
「僕は昨日、別の人と籍を入れたんです」
 父と母が同時に凍り付くのが果歩にも分かった。
「お嬢さんには事後報告で……本当に申し訳なかったと思っています」
「……、お」
 唖然としたような顔になった父の顔に、みるみる赤い血がのぼる。
「やめて、お父さん!」
 今度藤堂の前に身を乗り出したのは果歩の方だった。その時は、振り上げた父の拳を隣で母が必死に掴んで止めている。
「藤堂さんは悪くない。悪いのは私なの!」
「なんだと?」
「わ……私が先に、裏切ったの」
 唇が震え、激しい動揺が言葉を途切れさせた。
 悪いのは私なのに、どうしてここで、藤堂さんが謝らないといけないんだろう。
 むしろ私が、藤堂さんに怒られないといけないのに。
 背後に立つ藤堂の存在を苦しいくらい意識しながら、果歩は震える唇を再び開いた。
 いっそのことこの場から逃げ出してしまいたかった。でもこれが、自分のつけなければならないけじめなのだ。
「藤堂さんは悪くない。私が……、私が、藤堂さんでない人を選んだの」
「……藤堂さんでない人って、あんた」
 母が呆然と呟いた。父が動揺もあらわに強張らせた顔をしかめる。
「まさかと思うが……、あの馬鹿市長のことを言っているんじゃないだろうな」
「真鍋さんのことをそんな風に言わないで」
「じゃあ、どう言えばいいんだ!」
「お父さん!」
 再び癇癪を爆発させた父を、母が組み付くようにして止めている。
「あんな男――お前を8年前にもてあそんで、さっさと逃げた男じゃないか。いくら顔がよくて金持ちでも、人間として最低のことをした男じゃないか」
「やめて、お父さん」
「挙げ句うちにきて、お前につきまとわれて迷惑だとまで言ったんだ。週刊誌を見たが正真正銘人間のクズだ。正義の味方気取りで父親を告発したが、それだってどうせ自分の醜聞隠しだろう」
「……本当にやめて」
 果歩は耳を塞ぎたくなった。
 真鍋さんのことを何も知らないのに、そんな風に言わないで。
 あの人が今日まで私のために、どれたけの犠牲を払ってきたか、……。
「今度、……今度ちゃんと、お父さんにも紹介するし、ちゃんとあの人のことを説明するから」
「聞きたくない」
「お願い、お父さん」
「お前こそ目を覚ませ!」
 父は目を真っ赤にして両拳を握り締めた。
「自分が騙されていることがまだ分からないのか。なんなら今日まで買った週刊誌を全部見せてやる。あんな破廉恥で最低なゲス野郎はな」
「やめて!」
 果歩は耳を塞ぐようにして声を張り上げた。
「私、真鍋さんを愛しているの」
 お願いだから、少しでもいいから、真鍋さんのことを分かってあげて、
 でないとあの人が気の毒すぎる。こんな風に――灰谷市の誰からも馬鹿にされて嫌われたままだなんて。
 そんなの、あまりにも報われなさすぎる。
 目を見張った父が、雷に打たれたようにその場に立ちすんでいる。
「お願い……。もう真鍋さんのことを、そんなに悪く言わないで」
「……お前は」
 うつろに呟いた父が、次の刹那よろっと不自然によろめいた。
「お前はもう、うちの娘じゃない……」 
「お父さん!」
 母が悲鳴を上げたが、膝を折った父を咄嗟に前に飛び出して抱き支えたのは、ずっとその場に立っていた藤堂だった。
 果歩は我に返ったように顔を上げたが、藤堂はすぐに傍らの片倉に視線を向けた。
「片倉、医務室の手配を」
「はい」
「それから、彼女のヘリの時間を少し遅らせてくれ」
「お父さん、しっかり、すぐにお医者さんに見てもらえますからね!」
 打ちのめされたように膝をついた果歩は、ただ呆然と、目の前で繰り広げられる光景を見つめていた。
 家族を巻き込んで進行していた藤堂との恋の終わりは、もう自分1人だけの問題ではないのだ。
 関わった全員をこれほどまでに傷つけて、あれだけ信頼し合っていた藤堂と真鍋の関係をも壊してしまった。
 この罪を、本当にいつか購える日がくるのだろうか――

 *************************
    
「どうしたんですか、ぼんやりして」
 背後から肩を叩かれ、その場に立ちすくんでいた真鍋は、強張った顔を上げた。
「すごい修羅場でしたね。他人の私からすると、まるでコントを見ているようでしたけど」
 くすっと笑うと、怜はネイビーのコートを羽織った。
「まさかあの程度の安い告白で、気持ちが揺れちゃったとか言わないでくださいね」
「あれは僕を、父親から庇うための抗弁だ。本気で言ったわけじゃない」
「だったらいいですけど」
 プライベートジェットの搭乗口に向かって歩き出した怜の傍らには、あたかもボディガードのように左近警視正が付き従っている。その左近の前で、一向に悪びれずに怜は続けた。
「じゃ、一足先に私は東京に帰ります。あなたと2人でいるところを瑛士さんに見つかったら厄介なことになるので」
 真鍋は黙って顔を背け続けていた。今の自分の顔を、誰にも見られたくなかった。
(私、真鍋さんを愛しているの)
 聞いた瞬間、心臓がえぐられるようだった。
 それが嘘でも残酷で、真実であっても救いがない。
 しかもその言葉に、自分以上に心を切り刻まれた人がいる。
 彼女の父親が近づいてくるのが見えたとき、真っ先に身を翻して彼女と父親の間に身体を割り込ませた。
 なんの迷いもなく、父親の怒りを自分に向かわせて、正面から謝罪した。
 今朝、藤堂が口にしたことを、実のところ真鍋は半分も信じていない。真鍋に対して怒っているのは本当だろう。それでも結婚はやむを得ない事情があったからだろうし、彼女への気持ちも変わっていないはずだ。
(私、真鍋さんを愛しているの)
 果歩がそう言った時の、藤堂の顔を真鍋は見ていない。見なくても――しばらく動かなくなった背中で、あの刹那何を感じたのかは考えるまでもなかった。
「……怜さん」
「何か?」
「できれば、急いでもらえないか。僕は近々検察に逮捕される。もちろん君の方が、その辺りの事情に詳しいだろうが」
「…………」
「そうなると、君の計画に支障が出るんじゃないか」
「ご忠告どうも」
 怜は悠然と答えてきびすを返した。
「でも安心してください。拘置所とか警察施設の方が、むしろ狙いやすいんですよ」
 扉の前で足を止めた怜は、楽しそうな目で真鍋を振り返り、自分の心臓のあたりを指でつついた。
「父の命を守りたいのは私一人じゃないってことです。父は人望のある人ですから」
 そこで左近が冷たい目で真鍋を見たので、この男もその一人なのだと暗黙の了解で理解した。そもそもこの場にいること自体、左近が怜の共犯者である証なのだが。
 つまり警視庁も信用ならないということだ。八神さんは……おそらくだが、娘の暴走を知らないか、手出しのできない場所に置かれている。
 ――果歩を……この女に近づけさせるのは危険だな。
 真鍋が意に沿わない行動をとれば、怜は容赦なく果歩を使って揺さぶりをかけてくるだろう。そんな真似だけは絶対にさせてはならない。
「そんなことより、その辛気くさい顔なんとかなりません? いくらなんでも的場さんに気づかれちゃうじゃないですか」
「俺がどんな顔をしようと勝手だろう」
「勝手でしょうけど、女の勘は案外鋭いものだから。死相が出てますよ。思いっきり」
「…………」
「ひとまず私の指示があるまでは、的場さんをうまく騙しておいてください。――それに、多少は見せつけてもらわないと困ります」
「見せつける?」
「瑛士さんに。――ねぇ、私たちが一体誰を相手にしてると思ってます? 今はショックで頭が回ってないみたいですけど、その気になれば、私たちより何倍も頭のいい人なんですよ?」
「…………」
「瑛士さんが心をかき乱されている間に、さっさとこと進めてしまいたいんです。――計画、ばれちゃうでしょ」
 真鍋はしばらく黙ってから、怜から目をそらした。
「君は、お父さんと同じ仕事に就くべきだったね」
「ありがとうございます。じゃ、取引のこと、絶対に忘れないでくださいね」


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