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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(8)


 
「お姉」
 ぼんやりとソファに腰掛けていた果歩は、その声に弾かれたように顔を上げた。
 半分開いた扉の向こうから、妹の美玲がちろっと舌を出して手を振っている。
「来てたの、美玲」
「うん。お父さんとお母さんがものすごい剣幕だったから、つい後れを取っちゃいまして」
 おどけたように言うと、美麗はちょこんと果歩の隣に腰掛けた。
「なんだか随分久しぶりにお姉の顔を見たような気がするけど……やつれた?」
「せめて痩せたって言ってくれる?」
「……すっぴん?」
「ねぇ、そんなことより、お父さんは?」
 医務室に連れて行かれた父の後を、果歩は追っていくことができなかった。理由は警備上の都合と――母が、それを拒否したからだ。
(間違いなく頭に血が上っただけだから心配しないで。で、あんたが来ると下がるものも下がらなくなるから)
 飛行場の都合で、結局出発は2時間遅れになった。先発のヘリはもう出発したというから、藤堂も真鍋もそれで東京に行ってしまったはずだ。つまり飛行場に残っているのは、今は果歩だけだろう。
「お父さんなら全然大丈夫。一時的に血圧があがっただけなんだって。その血圧もすぐに下がったから、さっさとタクシー拾って帰っちゃったわよ」
 果歩の昼食として用意されていたサンドイッチを手に取ると、美玲はむしゃむしゃと食べ始めた。
「えっ、じゃあ2人とも、もう帰っちゃったの?」
「そりゃそうでしょ。お姉の顔みたら、またお父さん大噴火じゃん。え、これマジでおいしい。いらなかったら全部食べちゃっていい?」
 そんな――。
 あんな言い争いをして、謝罪ひとつできないままお別れなんて。
 一応一週間とはいわれているけど、いつ自宅に帰れるかなんて分からないし、本当は心細くてたまらないのに。
 そこまで2人を怒らせてしまったの? そんなに私のこと……。
 さすがに目元が熱くなりかけた時、美玲が慌てたように食べかけのサンドイッチを皿に戻した。
「あ、そだ、忘れてた。これお母さんから」
 ソファに置いていた大きめのトートバッグを持ち上げた美玲が、それを果歩に差し出した。
「めちゃくちゃ重かった。お姉ちゃんの舞台化粧一式。あと、眼鏡とコンタクトと……」
 ――え?
 果歩はバッグを引き寄せ、急いで中身を確かめた。ボックスに入ったメイク道具一式と、お気に入りのボディオイルと香水。ホットカーラーと髪留めに、フェイスパック。眼鏡とコンタクトケースと……。
「……ポテチ?」
「それは私からのサービス。お姉がストレスたまった時用」
 バッグの底から、3袋も出てきたうま塩味の袋に、果歩はしばらく言葉も出なかった。
 なによ……。
 この生意気な妹に、なんで泣かされなきゃいけないの?
「泣くほど嬉しいんなら、お小遣いちょうだい」
「はいはい、今度家に帰った時にね」
 果歩は苦笑いして、手の甲で涙を拭った。
 なんだか、ギスギスに固まっていた心が、不意に暖かなものに包まれたような気がする。
 美玲もそうだけど、お母さん……、こんな支度までしてくれてたんだ。
「そんなことより、せっかく片倉さんに会えると思ったのにいないなんてがっかり。どこに行っちゃったの?」
「――分からないけど、多分東京に先に行ったんじゃないかな」
 そう言いながら、果歩は化粧箱の中から鏡を取り出した。
 化粧をしたいところだが、ひとまずコンタクトを取ってしまおう。東京に着くまで真鍋に会うこともないだろうし、今目を休ませておかないと大事な時にもたなくなる。
「片倉さんは、もう私の……なんていうか、護衛担当じゃなくなったの」
 もともとそんな担当だったのかどうかも知らないが、丁度このサンドイッチを運んできた時、片倉からは丁寧な別れの挨拶をされた。
(――本日を限りに、的場様のお側を離れることになりました。もうお会いすることはないかもしれませんが、お元気でいてください)
 片倉はあくまで藤堂の家の人だから、藤堂と別れた以上、片倉とも必然的に別れることになるのは分かっていた。もうお会いすることはない――それは藤堂とも、そうなのだろう。
 つまり、二宮の屋敷に行ったところで、藤堂や片倉と顔を合わせる可能性はほぼないということだ。それだけが寂しさの中の一抹の救いのようにも思える。
 これで本当に、藤堂と自分をつなぐ糸が切れたのだ。
「もしかして片倉さん、タイプなの?」
 感傷を振り切るように、あえて明るく果歩は聞いた。
「てか、普通にかっこよくない? 背も高いし強そうだし、韓国ドラマに出てくる俳優みたい」
「まぁ……、見た目はともかく、なかなか面倒な人よ」
「下の名前はなんていうの?」
「……、なんだろ。そう言えば聞いたことないかな」 
 鏡を広げてコンタクトを外し始めた姉を、美玲は物珍しそうな目でまじまじと見た。
「……家でもめったに見せないすっぴん眼鏡に、まさか今なりますか」
「しょうがないじゃない。もう目が痛くて限界なんだから」
「そう言えばさ、荷造りしてる時のお母さん、ノリノリだったよ」
 果歩は目をしばたかせながら眼鏡をかけた。たちまち世界がワンサイズ小さくなる。
 お母さんが――ノリノリだった?
「なんだか面白いことになってきたわねって。あの人、ああいう性格じゃん」
「う、うん。確かに」
「お父さんがカンカンだから一緒に怒ってるふりしてたけど、多分内心じゃ、いけいけって思ってたに違いないよ。だって言ってたもん。ワンチャン市長さんもありよねって」
「わ、ワンチャンて」
「私は大きい人の方が好きだったけどなー。でも勝手に結婚しちゃったなんていくらなんでもひどすぎ。さすがにあれには失望したわ」
「…………」
「そんな状況で、よくお父さんを止めに入ったね? どんだけ図々しい人だったんだろ」
「そうね」
 果歩は言葉すくなに言って、ポテトチップスの袋を開けた。
「え、今食べるの?」
「今食べなくて、いつ食べるのよ」
 正直、二宮の家でこんなものを食べる状況が想像できない。口の中に食べ慣れた味が広がった途端、気持ちも少し落ち着いた気がした。
 その袋に手を伸ばしながら、美玲が口を開く。
「ま、でもいいじゃん? これもタイミングだよ、タイミング。気兼ねなく市長さんとイチャイチャしちゃいな。昔は怖くて聞けなかったけど、お姉のお初の相手でしょ」
 果歩はチップスのかけらを喉に詰まらせかけていた。
「私、そんなことあんたに一言でも言ったっけ」
「ベンツの人でしょ? すっごくよく覚えてるもん。あんなド田舎の未舗装道をキラキラしたベンツでさ。大げさでなく本物の王子様みたいだったから」
「…………」
 確かに私もそう思っていた。22歳の私にとって、彼は何もかもがキラキラと眩しい王子様のような存在だった。
 ただ、その美貌と豪華な衣装の下に、すごく寂しい顔を持った王子様だったけど――
「昨日の夜さ、実はお母さんとしみじみ語り合ったんだよね。お姉はまるでシンデレラみたいだって」
「はい?」
「市長の息子なんだから、真鍋さんってまさに灰谷市の王子様じゃない? で、貧乏な市職員のお姉を見初めて恋に落ちるんだけど、お姉は哀れ、市役所の地下で灰――もとい書類整理の日々」
「ねぇ、それ、こじつけにもほどがない?」
「魔法使いはりょうさんかなぁ。お姉には初めての親友だよね。お姉を運ぶかぼちゃの馬車は誰だろう。そういえばお姉、大きい人の前に間違いなく誰かと付き合ってたよね」
 ごほっごほっと、再び果歩は咳き込んでいる。
「ま、なんにしても、その王子が8年ぶりにお姉を見つけてハッピーエンドなんだから、最高じゃない」
「あのね。まだそうなるって決まったわけじゃないから」
「ええ? あれだけ大勢の前で愛してるって言ったのに?」
 その時のことを思い出した果歩は、自分の表情が曇るのを感じて顔を伏せた。
「あれは……」
「あれは?」
「……あれは、どうしてもお父さんに、真鍋さんのことを認めて欲しかったから」
「ん? つまり売り言葉に買い言葉ってこと?」
「そうじゃなくて……」
 多くの人が見ている前で、父の口から、真鍋を悪く言われるのが耐えられなかった。
 ああ言えば、父が、あれ以上真鍋を罵倒することもないと思ったのだ。それは同時に、自分の娘を辱めることになるからだ。
 ただ、さすがにあの場で――しかも真鍋の了承なしに言っていいセリフではなかった。
 今となっては、あの騒ぎが真鍋の耳に入らなければいいと祈るばかりだ。
 知ってしまえば、間違いなく迷惑に思われるだけだろう。今の私は、いろんな意味で彼の足枷でしかないのだから。
 しかもあの場には――
「とにかく、真鍋さんが私をどう思っているかも分からないことだから」
 思考がそこに行こうとする前に、果歩急いでこの話題を打ち切った。
「もうこの話はおしまい。私が感情的になってただけってことで」
「はぁ? 意味分かんない。なにそれ」
 その時、コンコンと扉を外からノックする音がした。
 外で待期しているボディガードだと思った果歩は、急いで立ち上がって扉を開ける。
「何かありました?」
 そこに立つ人を見て、果歩は喉を鳴らすようにして絶句した。
 ――え……?
 真鍋もまた、意外そうな目で果歩を見下ろして瞬きしている。
「あ、お兄さん、お言葉に甘えてお邪魔してまーす」
 棒立ちになった果歩の背後では、美玲が呑気に手を振っている。 
 ようやく美玲が、コンタクトを外し始めた果歩をまじまじと見ていた理由に思い至った果歩は、穴があったら入りたいような気持ちになったが、もう遅い。
「……ああ」
 ややあって、真鍋が納得したように口を開いた。
「そういえば君は、目が悪いんだったね」
 もう――…………最悪。


 *************************


「……さ、先に、東京に行かれたんじゃなかったんですか」
 ソファの隅ぎりぎり寄って、不自然にうつむきながらそう言った果歩を、隣に腰掛けた真鍋は、訝しげに見下ろした。
「いや、そのつもりだったけど、よく考えれば特段急いで赴く必要もないしね」
「…………」
「東京に発つ前に、色々手配することもあったし、君と同じ便にすることにしたんだ」
「へー、………そうなんですか」
 調子のいい妹が、気を利かせてあっさり外に出て行ったので、トイレでコンタクトを入れ直す間もなく、果歩は真鍋と2人きりになっていた。
 今更眼鏡を外すのも不自然だし、かといってこのみっともない顔で真鍋を見ることもできない。距離をとって、正面から直視されるのをかろうじて防いでいるという状態だ。
 落ち着いた色合いのスーツに身を包んだ真鍋が、普段以上によそ行きの顔に見えるだけに、今の自分との差が身にしみる。
 彼が入ってきたとき、机の上には開封したポテトチップスの袋があって――それは慌てて片付けたのだが、その時の「こんな子供っぽいものを?」とでも言いたげな真鍋の目が忘れられない。
 というより、今朝は私をあからさまに避けていた真鍋さんが、一体どういう心境の変化だろう。今朝はもう、私と二度と会いたくないようなことを言っていたのに。……
 前夜から起きた様々な出来事を思えば、彼が自分と顔を合わせたくない気持ちはよく分かる。
 正直果歩も、どう真鍋と接していいのか分からないままだった。
 いずれ2人で話し合いをするにしても、多少時間を開けなければいけないだろうと思っていたのだ。――
「もしかして体調でも?」
「……っ、いえ、少し目の調子が悪いだけです」
「目? 医者には診てもらったのか?」
「いえ……」
 真鍋が訝しげな目で顔の顔をのぞきこむ。
「どんな風に悪いんだ」
「……別に」
「別にとは?」
「…………」
 忘れてた。この人が重度の心配性だったことを。
 いや、でもまさか、目くらいで。
「少し待っていてくれ、往診を頼めるかどうか聞いてみる」
「――、ちょっ」
 違うんです。そういうんじゃないんです!
 慌てた果歩は、腰を上げかけた真鍋の腕を掴んでいた。しかし、真鍋がこちらを振り返った瞬間に、ばっと顔を背けている。
「……君は、何がしたいんだ?」
「い、……いえ」
 気まずい沈黙が室内に落ちる。
「……、俺の顔が見たくないなら」
「――、違います」
 あなたの顔が見たくないのではなく、今の私の顔を見られたくないというか――
 ていうか鈍くない? 普通はこの落差で分かるでしょ。私は素顔と外行きの顔が別人なんです。それを、明るい場所でまじまじと見られるのが嫌なんですよ。
「眼鏡のことなら、別に気にしなくてもいいんじゃないか」
「は? 私がいつ気にしたって言いました?」
「…………」
 条件反射で真鍋を見上げた果歩は、自分の見栄っ張り気質が発動したことに気づいて、耳まで赤くなった。
 真鍋は、やや呆れたような目をしていたが、微かに息を吐いて、果歩の手をそっと押し戻す。
「まぁ、いいよ。僕も以前は、自分の目の色を気にして、眼鏡が手放せなかったことがあったしね」
「はぁ」
 真鍋さん、それ、全く次元の違う話です。
「それも、日差しが入った時、少し色が変わるというだけでね。今思うとバカバカしいこだわりだったよ」
 うつむいた真鍋の目元が険しくなったので、果歩はその話が、彼の過去に関係しているのだと気がついた。
「きっと君も、それと似たような感覚なんだろうね。問題は人の目ではなく、自分の心の中にある。僕にしてみれば、痛々しく充血した目でいられるより、今の方がずっといいと思うよ」
 少しためらってから、果歩は真鍋との距離をつめた。彼が今、自分のために思い出さなくてもいい過去にふれてくれたことが分かったからだ。
「……そんなに充血してました?」
「どうだろう。正直言えば、朝からあまり、君の顔を見ていないんだ」
 うつむいたままの真鍋が、微かに苦笑するのが分かった。
「君の気持ちは分かるが、僕の前では、気にしなくていいと言いたかっただけだよ」
「…………」 
 それは正直無理だけど――でもしばらくは、この人の言うとおりにしてみようかな。
 だって私が自分を偽っていたら、この人も絶対に本心を見せてくれないような気がするから。
「真鍋さんの眼鏡、私は好きでした」
「そう」
 真鍋は微笑んだが、その目はどこかうつろな陰りを帯びて自分の足下に落とされている。 
 彼の意識が過去に引き戻されているのを感じ、果歩はそっと真鍋の腕を取っていた。
 ――……馬鹿な人。
 私のためなんかに、いちいち辛いことを思い出さなくてもいいのに。
「なんで、自分の目の色が嫌いだったんですか」
「母と、よく似ていたからかな」
「お母様、すごい美人だったんですね」
「そうだね」
 不意打ちのように目ガ潤むのを感じ、果歩は真鍋の手に自分の手を重ねていた。
 辛い思い出ばかりじゃないですよね。
 いい思い出だってありますよね。
 だから真鍋さんは、今もそんなに辛いんでしょう?
 本当はお母さんが、大好きだったから――
 優しい、優しい真鍋さん。
 いっそのこと、自分を傷つけた人を、本当に嫌いになれればもっと楽に生きられるのに――
「今日は、午後から地検に行かれるって……」
「うん。しっかり話をしてこようと思う。告発が正式に受理されなければ、この数年、僕がしてきたことが全部無駄になるからね」
「……絶対に、帰ってきてくださいね」
「…………」
「二宮の家で、どういう風に暮らすのは分からないですけど、夕食くらいは、一緒に食べられますよね?」
「どうかな。遅くなるかもしれないし、僕を待つ必要はないと思うよ」
「待ってます。迷惑かもしれないけど」
 答えない真鍋の手をそっと握り締めると、果歩はその肩に頬を寄せた。
「雄一郎さん、もう、私をおいて、どこにも行かないでくださいね」



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