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年下の上司 story4〜 July

女心と夏の空 課対抗バトミントン大会(3)


「傘持ってるか?」
「え、ううん」
 午後8時。
 スポーツセンターの室内の隅、昼に続き連日の夜の特訓に耐えかね、さすがにへばっている時だった。頭上から晃司の声だけが聞こえてきた。
「降ってるよ、さっきまで晴れてたのに」
「そうなんだ」
 ほとんど嵌め殺しの館内の窓からは、外の景色がうかがい知れない。
 ――夏も天気って変わりやすいのかしら。
 疲れた頭で、果歩はぼんやりと考える。
 確か朝の天気予報じゃ、ゼロパーセントのはずだった。
 ま、どうせ職場に戻れば傘がどこかにおいてある。そこまで走って戻ればいいだけだ。
 顔をあげた果歩の前に、スポーツドリンクのペットボトルが手渡された。
「………ありがと」
 その優しさが信じられなくて、呆けたように晃司を見上げた果歩だったが、確かに差し出してくれたのは晃司で、受け取ったのは自分だった。
「……………」
 特訓が始まって以来、ずっと頑ななまでに冷たかった相手である。
 ――まぁ、……つきあってた頃は、こんなことも普通だったんだけど。
 今はこの好意を、素直に受け取っていいかどうか、なんとも微妙な関係だ。
 晃司は無言で、果歩の隣に腰を下ろし、自分もペットボトルに口につけた。
 彫りの深い端整な顔立ち。つきあいはじめた頃と違うのは、少し顎の辺りに剃刀負けがあることくらい。
 自分もそうだけど、晃司も確実に年を取っている。果歩はふと、そんなことを思ってしまっていた。
「仕事、いいの」
「今週は諦めた」
 そっけない声だけが返ってくる。
 ――私のせいかな、もしかして。
 たまらない罪悪感、というより居心地の悪さを感じつつ、果歩は自分もペットボトルの口を切った。
 午後8時少しすぎ。室内に、今は2人しか残っていない。
 連日の練習は確かに果歩にも苦痛だった。が、それもやっと今日で終りだ。今日は金曜、明日は休みで、本番は日曜である。
「……明日は」
「えっ」
 晃司のつぶやきに、ドキッとして果歩は固まる。ま、まさか、明日も練習しようってんじゃ。
「仕事に出なきゃな」
「……………」
 窓を叩く雨の音が、果歩の耳にも聞こえてきた。
 かすかに嘆息し、晃司は物憂げに、再びペットボトルに唇につける。
「……………」
 果歩も無言で、冷たい水分を口に含んだ。
 最近の晃司は、異常といってもいいほどのオーバーワーク気味だ。
 大型プロジェクトをいくつも抱えている都市政策部は、今、都市計画局の中で一番忙しい。晃司はその担当で、日々、国との調整と入札準備に追われている。
 多分、連日のように局で最後まで仕事をしている。南原の言葉を信じるなら、休みの日まで出ているという。
「………ごめん、私のせいで」
 呟くと、少し意外そうな目で見下ろされた。
「つか、俺が勝手につきあわせてるんだ。か、」
「…………」
 そこで、晃司は言葉を途切れさせて目を逸らした。
「……的場さんには、悪いと思ってるよ」
「…………」
 的場さん。
 職場以外で、そんな呼ばれ方をされたのは久し振りだ。
 最初は的場さんだった。当たり前だけど――果歩も、前園さん、と呼んでいた。
 何年か前、晃司が最初に都市計画局に異動してきた日。地獄のような4月の初っ端。異動書類が足りなくて、電話すると直に持ってきてくれたのが、顔を合わせた最初だった。
 ――はじめまして、前園です。
 ――総務の……的場さん。これから庶務のことは、的場さんに聞けばいいですか。
 少し緊張していたのだろう。背が高くて凛々しくて、かっこいいけど――なんだか可愛い印象の方が強かった。特に仕事で関わりもないのに、やたら目が合うな、と思ったのが、意識しはじめたきっかけで――。
「んじゃ、もうちっといくか」
 晃司が、すっくと立ち上がる。
「あ、っっ」
 慌てて立ち上がりかけた果歩は、足の痛みに悲鳴をあげた。
 が、同時に、じろりと晃司に振り返られて、びくっとしながら居住まいを正す。
「………あのさ」
 腰に手を当て、晃司が、呆れたようにため息を吐いた。
「なんでそんなに、おびえてるわけ」
「そ、そんなんじゃないけど」
「他意はないっつったじゃん、今回は」
「………わかってるけど」
 そういう意味で怯えてるわけじゃなくて。
 ただ――それは、晃司に言ったところで、理解してもらえない感覚かなと思う。
「ゆっくりやるから」
 対面のコートに立ちながら、晃司は、実際ゆっくりとラケットを振りかぶった。
「気楽に受けて、羽根つきやってる感覚で」
「う、うん」
 緩やかな放物線を描き、シャトルが果歩の頭上めがけて飛んでくる。
「………っっっ」
 思いっきり振りかぶっても――なんの手ごたえもなかった。
 固まった果歩の足元に、てん、とそれが落ちてくる。
「拾って」
 意外にも、怒声ではなく、穏やかな声がした。
「そっちから打ってみな、ゆっくりでいいから」
「………うん」
 本当にゆっくりと、こわごわと打ってみた。打点が芯からはずれたシャトルは、すかっとコートの圏外に飛んでいく。
「……っよ」
 軽く身をひるがえした晃司が、果歩からすれば不可能とも言える距離の球をラケットですくい上げた。
 それは、再び、ゆっくりと果歩の頭上に落ちてくる。
「いいよ、そんな感じで落ち着いて」
 果歩が、ラケットを振るたびに、晃司は声をかけてくれた。
「心配しなくても、本番じゃ俺がいるんだ。大抵のタマは俺が拾うから、どうにもならないやつだけ拾って」
 予想もしなかった長いラリー、果歩にしては、最高記録。
「いい感じじゃん」
 息を切らして座り込んだ果歩に、タオルを投げながら晃司は言った。
「上手くなったよ、随分」
「………ほんと?」
「ああ」
 一瞬であるが、晃司は笑い、まだ何か言いたそうな表情なった。
「じゃ、後は本番でな」
 が、すぐに表情を固くすると、それだけ言ってきびすを返す。
 この練習中、必要以上に冷たかった晃司は、もしかして、わざとそんな態度を取っていたのかもしれないと――果歩は初めて思っていた。
 一度も笑わないのも、不自然に距離を開けて歩くのも。
 それは、嫌われているとかじゃなくて、多分、男のプライドの問題として。
 晃司なりに、みっともない真似をしたことの清算をしようと思っていたのかもしれない。
「…………」
 不思議だった。
 しつこく追いかけられていた時より、今、背中を見せて去っていく男の気持ちが、逆にひどく気になっている。
 ――馬鹿ね、もう終わったことじゃない。
 果歩は自分に言い聞かせて立ち上がった。
 着替えを済ませ、受付でロッカーのキーを返そうとすると、受付の若い男が、「あ、」というような顔になって背後を振り返る。
 再び向き直った男が手にしていたのは、ビニール傘だった。
「これ、使ってくださいって」
「私?」
「ご一緒だった男性の方が」
「………………」
 終わったことだ。
 でも、終わったからこそ、あらためて見えてくるものもあるのかもしれない。
 果歩にも、そして晃司にも。

 *************************
  
 濡れた裾をハンカチで拭いながら果歩が執務室に戻ると、予想していた通り、総務には誰もいなかった。
 自席の付近だけ照明をつけて、慌しく出たきりになっている机の上を整理する。
「……………」
 フロアの、ほぼ中央にある都市政策部。
 その近辺だけ、ほんのりと明かりがついていた。
 多分、晃司だ。
 残っているのは1人じゃないだろうけど、先に戻った晃司は、すでに残業体制で仕事をしているに違いない。
 ――缶コーヒーでも、買っていこうかな。
 果歩は逡巡しながら自身の財布をバッグから出した。
 へんに思われるだろうか。
 でも、傘のお礼だってあるし。
 それに、ペアで試合に出るのは、みんな知ってることだから――だから、差し入れくらい、そんなに意識しなくてもいい……ような気もするし。
 迷いつつ、財布を持ってロビーに出た。
 自動販売機は、2つ階下の休憩室にある。
 照明の落ちたフロア、エレベーターをやめて、階段にしようかと思った時だった。
「……………」
「……………」
 薄闇の中から、ふいに大きな影が浮き出してくる。
 その影の持ち主を即座に認めた果歩は、思わず息を引いていた。
 おそらく、フロアの突き当たりにある男性用更衣室から出てきたばかりの男は、果歩の前で、不思議そうに足を止めた。手には鞄を抱えている。
 わずかな時間差。つい先ほどまで、藤堂が執務室に残っていたことを、果歩はようやく理解した。
「これから、お仕事をされるんですか」
 少し、優しい声がした。
「え……」
 いえ。
 と言うべき所なのに。
「はい、少しだけ」
 と、果歩は答えてしまっていた。
 闇の中、互いの顔がはっきりと見えない。
 藤堂の眼鏡だけが、淡い照明を反射している。
「あまり遅くならないように」
 何か、言いたそうでもあったが、しばらく黙っていた藤堂は、それだけ言って目礼した。
「失礼します」
 果歩も、ひどく事務的に答えていた。
 藤堂の大きな身体が、果歩の傍をすり抜けて非常階段のある方に向かう。
 ――ここ、13階ですよ。
 ――階段で下まで降りられるんですか。
 喉まで、会話の糸口がこみあげている。
 なのに、それを何一つ口に出せないまま、果歩は、遠くなる足音を見送った。
 ――私……何やってんのかな。
 どこか所在無い、からっぽの気持ちのまま、果歩は再び執務室に戻っていた。
「……………」
 散らかったままの机の上。
 でも、いつもそうだけど――急ぎの書類や郵便などは、気がつけばきちんと、行くべきところに流れている。
 藤堂が来るまでは、それがどんなに重要な書類でも、机の上にいつまでも置かれていた。果歩が気づかなければ、誰1人気づかないし、関心さえもたれなかった。
 日中でも、夕方でも、今果歩が安心して席を空けていられるのは、藤堂がいてくれるからだ。以前は、考えられもしなかったし、長時間席をあけるなど不可能だった。いくらバイトがいたとしても――。
 見えない所で、いつも彼は助けてくれている。
 重要なところでは突き放すけど、評価されない影の部分では、惜しまずに手を貸してくれる。
 アルバイトがつかなくなった件では、確かに果歩も藤堂に不満を持っていた。が、藤堂が、日々そのことで、ベストな対応を考え続けていることも知っている。
 果歩はため息をついて窓辺を見る。
 あれだけ降っていた雨は、いつの間にかやんでいた。
  
 *************************
  
「いやぁ、やっぱり的場さんは何やらしても完璧だね」
 ベンチで汗を拭っていると、他課の男性職員が数人やってきて、座る果歩を取り囲んだ。
 日曜日。
 大会当日。
 区内の高校の体育館を、その日だけ借り切っての局内バトミントン大会である。
 体育館の隅のベンチで、試合を終えたばかりの果歩は、束の間の休息をとっていた。
 外はいやになるほどの晴天だが、開け放った扉から入る風は、冷たくて心地いい。
「前園君との息もぴったりで、なんだかやけちゃうよ、おじさん連中は」
「そんな」
 果歩は、笑って手を振った。
「私なんて、ただ立ってるだけで」
 実際、謙遜なしだった、果歩は真面目に立っているだけである。
「それでサマになっちゃうんだよねぇ、果歩ちゃんは」
「よ、都市計画局のお蝶夫人!」
 それは、なんだか微妙な例えだ。
「こう見えて、運動神経ゼロなんです」
「またまた、準決勝まで出といてよく言うよ」
 笑いながらそう言った男は、ひとつ離れたコートで試合をしているカップルを見た。
 午前の最後の試合が行なわれている第2コート。
 藤堂と流奈の姿がそこにはある。
「流奈ちゃんは、これまた果歩ちゃんと対照的なんだなぁ。まるっきりダメそうなのに、なんだかんだ言って上手いんだ」
 果歩もつられて、あまり見たくないから見ないでいた2人に視線を向けた。
「きゃーっ」
「こんなの、とれませぇん」
「こわーい」
 とか言いつつ、確かに流奈は、全ての球を綺麗に拾って打ち返している。
 時々、鋭いスマッシュも決まり、
「きゃっ、適当に打ったら入っちゃった」
 などと、ミエミエの媚を、背後の人に降っている。
 背後――バックに立っている藤堂に向かって。
「しかし、モーニング娘ちゃんのスカート、あの丈はちと問題じゃないかね」
「藤堂君も、役得というか、拷問というか……」
 おじさんたちが微妙な表情でうなずきあうのも当然で、流奈の着ているのは、いわゆるテニスのスコートだが、間違いなく走るたびに、下着がしっかりと見えているに違いなかった。
 ただし、それもスポーツ用のものだから、見られてどうこういうものではないのだろうけど。
「………………」
 着る? 普通。
 たかが局内のバトミントンの試合で。
 ちなみに流奈以外の女性職員は全員ジャージ。果歩も、下はスポーツジャージを穿いている。さすがに30すぎて、膝上は痛い年頃だ。
「しかし……藤堂君は、体格は見事なのに」
 果歩の隣で、苦笑いを含んだ声がした。
 藤堂は流奈の背後に立っている。最初の試合から今までずっと、不動の後衛ポジションである。
 が、果歩が見る限り――動いているのは殆ど流奈で、藤堂は、わたわたと背後を行き来しているだけのように見えた。
「民間君は、どうも運動はいまひとつらしいねぇ」
「気の毒に、モーニング娘ちゃんが1人でやってるようなもんだね、あれは」
 ――本気……出してないのかな、藤堂さん。
 また、失点。試合はどうやら競っている。
 失点はほとんど藤堂のミスで、それを「きゃー、偶然入っちゃった」と言いつつ挽回しているのは、流奈ばかりだ。
「すみません、どうも球技は苦手でして」
 遠目にも、藤堂がそう言って謝っているのが聞こえてくるようだった。
 ――へんなの。
 果歩は首をひねる。
 先月、俊敏な身のこなしで晃司を殴った人と同じ人物だとは思えない。大学までずっと格闘技? のようなスポーツをやっていたということだし、よもや運動神経が鈍いとは考えられないのだが……。
「的場さん、頼んだ仕出し弁当がついたよ」
 背後から、南原の慌しい声がした。
「ったく、やってられねぇよ。なんでこんなことで、総務全員休日出勤しなくちゃいけねぇんだよ」
 朝から不満げだった南原は、仕出弁当のダンボールを開けつつ、ますます不機嫌に拍車をかけているようだった。
 まぁ、その気持ちは果歩にも分かる。職員のリクレーション行事だから、無論、時間外手当などつかないし、自由参加とはいいつつ、総務は、毎年事務局としてほぼ全員強制参加だからだ。
「局長は?」
 課ごとに弁当を分けながら果歩が聞くと、
「夕方の打ち上げだけ出席、弁当はキャンセルされましたよ」
 係長の藤堂に代わって事務局幹事をやっている大河内主査が、伝票を確認しながらそう答えてくれた。
「それにしても、負けないですねぇ。藤堂さんも的場さんも」
「え、ええ」
 熱戦が繰り広げられていた第2コート。
 藤堂の試合はいつの間にか終了している。流奈の歓声が聞こえたから、多分、勝ったのだろう。
「いっそのこと、藤堂さんと的場さんの2人で出場すればよかったんじゃないですか」
 普段感情をほとんど露わにしない大河内に、淡々と言われるから、それが勘繰りなのか、なんの気なしに言われているのか分からない。
「てゆっか、今の試合に、あいつらが勝ったってことは」
 南原が、お茶のパックを開けながらそう言った。顎でしゃくったその先には、第2コート、試合後の後片付けをしている藤堂と流奈の姿がある。
「午後からの準決勝、的場さんのチームとあたるんじねぇの?」
 その通りだった。
 果歩は曖昧に笑いつつ、弁当を持って立ち上がった。
 晃司の執念めいた勝利への拘りからして、そんなこともあるかな、と、嫌な予感はしなくもなかったけど、一体何の因果だろう。―――よりにもよって、この2組で試合をすることになるなんて。
「すみません、おつかれです」
 駆け足で藤堂が戻ってきたのはその時だった。
 朝から3試合もこなしているのに、で、けっこういっぱいいっぱいのように見えるのに、意外にも、その額には汗ひとつかいていなかった。
「弁当は僕が運びますよ」
 果歩の隣をすり抜け、たくましい腕が、ダンボールごとそれを持ち上げる。
「あっちに配ってきます」
 ――藤堂さん、若いな。
 その背中を見送りながら、果歩は、ふと眩しい気持ちになっていた。
 上下紺のスポーツウェアがさまになっている。大きな背中、がっしりした肩、安定感のある体格が、普段より強調されている。
 何より健康的な肌の輝きが、彼がまだ、20代の半ばだということを、果歩にとっては残酷なほど雄弁に表しているような気がした。
「しかし、藤堂君は、本当に見かけ倒しだったねぇ」
 背後で、苦笑まじりの声がした。
 計画係の中津川補佐である。「課長補佐級は全員出席」との課長命令で名前ばかりのエントリーをした中津川は、そうそうに一回戦で敗退していた。
「都市政策の須藤さんに、助けられてばかりでしたよ。もしかしてああみえて運動オンチだったりしてね」
 くっくっ、と笑いながら、南原がそれに追従する。
 果歩はむっとしたが、その感情をぐっと堪えた。
 藤堂さんが、どれだけできるか――まぁ、果歩も、実際その実力を、バトミントンという分野で見たことはないが、多分、彼は、実力を抑えているのだ。絶対にそうに決まっている。
 それに、前衛の流奈が、必要以上にしゃしゃり出すぎているから。
「あ、的場さぁん」
 その流奈の声である。
 果歩が振り返ると、スコートをひらひらさせ、形良い足が駆け寄ってくるところだった。
「あー、よかった、そこにいたんだ」
 淡いピンクのノースリーブのトップに、ミニのスコート。華奢な流奈の体格に、それは見事にフィットしていて、同性の目から見ても、可愛らしいとしか言いようがなかった。
 流奈は、果歩の前で足をとめると、見あげるような眼差しでにっこりと笑った。
「実は、晃司君。1人でどっか行っちゃったんですよぉ」
「はぁ」
「で、これ、渡しといてもらえません?」
 はい、と前に出された流奈の手には、仕出弁当の包みが乗せられていた。
「え?」
「渡しといてください、晃司君に」
「………なんで、私?」
 果歩はただ、唖然として繰り返した。
 弁当を課ごとに配分するのは確かに総務の仕事だが、都市政策部の晃司に、総務の果歩が、わざわざ弁当を届けてやるいわれはない。
「だって今は、的場さんが晃司君のペアじゃないですか。お昼の世話くらいしてあげてくださいよー」
 流奈は、しらっとした顔でそう言い返す。
「……そりゃ、ペアはペアだけど」
 ペアといっても試合時間にコートで顔をあわせるだけ。果歩にだって、晃司が今、どこにいるのか分からない。
「私、今から、藤堂さんと打ち合わせなんです。あ、お昼一緒に食べましょうって言ってこなきゃ」
 流奈は、短いスコートをひるがえして、ふと気づいたように果歩を振り返った。
「悪いけど、的場さんには負けないですよ、私たち」
 私たち、のたちが、必要以上に強調されている。結局押し付けられた弁当を受け取った果歩は、思わず表情を固めていた。
「だって、少しでも長く藤堂さんと一緒にいたいですもん」
「…………」
「決勝に勝てば、秋の本大会まで、ずーっと藤堂さんと一緒にいられますから。私も藤堂さんも、超はりきってるんです」
 私も、藤堂さんも、ね。
 喉元までこみ上げた反論を飲み込み、果歩は、にっこりと作り笑いを浮かべて流奈を見下ろした。
「そう? でも、前園さんもかなりがんばってるみたいよ」
 理不尽なようだが、次の試合では、晃司に勝ってもらいたい。
 が、流奈は、眉を上げてくすくすと笑った。
「じゃ、いくらがんばっても無駄だって、晃司君に言っといてもらえません?」
「………?」
「だって、私、気づいちゃった」
 流奈は、いたずらめいた目で果歩を見上げた。
「的場さん、実は運動オンチでしょ」
「………………」
「かっこだけは決まってるけど、よく見ると右手と右足が同時に出ちゃってますもん。うちは、藤堂さんが、実力の半分も出してませんしー」
「………………」
「私、こう見えて、テニスで県大会に出たこともあるんですよね、勝手は違うけど、バトミントンくらい楽勝かな」
「………………」
「後半、的場さん狙っていきますから、私」
 ――く……。
 スキップでもするように遠ざかっていく女の背中を見ながら、果歩は拳を握り締めていた。
 くやしい―――!


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