カノは桃色、ノノは青色。 ピンクの服はカノ、青の服はノノ、……お人形はカノで、本はノノ。 カノはきれい、ノノは汚い。 へのへのもへじのノノには、ピンクもお人形も似合わない。 なのにあの瞬間、へのへのもへじは恋に落ちてしまいました。 ぼんやりとコート脇に立っていたもへじちゃんに、あの人が眼鏡を預けてくれた瞬間に。 (ありがとう) きれいな眼で、優しくそう言われた瞬間に。 空っぽだったもへじちゃんの胸は――まるで熱々のミルクを注がれたように、彼のことでいっぱいになってしまったのです。 カノはきれい、ノノは汚い。 ねぇ、神様、教えてください。 どうやったら――私みたいな女が、あの人の目に入るんでしょうか。 ************************* 「はぁ? 男をデートに誘う方法?」 目を丸くしてそう言った妹の口を、果歩は大慌てで手のひらでふさいだ。 「声、大きすぎ」 「………ごめん」 リビング。 背後の和室で新聞を読む父親に気づいたのか、美玲《みれい》は、ちろっと舌を出した。 的場美玲。 果歩の妹。大学2年の遊び盛りである。 華やかな顔立ちの美人で、性格も姉と違って陽気で能天気。気まぐれであっけらかんとしていて、調子がいい。 「つか、そんなもん、デートしよって、そんだけ言えば済むんじゃないの?」 美玲は、心底不思議そうに首をかしげた。 そして、関心をなくしたように、膝の上の雑誌に視線を戻す。 「済まないから聞いてるのよ」 果歩は、咳払いをして、卓上のポテトチップスを指で摘んだ。 「こう……どう、スマートに切り出していいのかわかんないのよ」 「スマートねぇ」 と、雑誌をめくりながら美玲。 果歩は、その返事を待ちつつ、もう一枚チップスを摘む。 「いつも思うけど、お姉ちゃんの食生活ってゆがんでるよね」 「うるさいわね、これだけはやめられないのよ」 例え食事を抜かしてもやめられない――大好物のポテトチップス塩味。 ストレスが溜まるに比例して空ける袋の量も多くなる。むろん、この性癖は、3年つきあった晃司にも明かしてはいない。 「つか、お姉ちゃんの質問、私の想像の範疇外なんだけど」 「じゃ、美玲から彼氏をデートに誘う時は、なんて言ってるのよ」 「デートしよ、一緒に遊ぼ、セック」 再び果歩は、大胆な妹の口を両手で塞いだ。 「………ごめん」 と、再び背後の父親に視線をやりつつ、目をぱちぱちさせて美玲。 「いい、あんたに聞いた私がバカだった」 「どこ行くの?」 「仕事、社会人には夏休みなんてないのよ、暇な大学生と違って」 果歩はそう言い捨てて、サマーカーディガンを持ち上げた。 8月。 世間はどっぷり夏休みである。 自宅のマンションを出た果歩は、炎天下のアスファルトをうんざりしながら歩き出す。 ――休みたいなぁ。 バス停前の信号で、果歩は、はぁっとため息をついた。 ひと夏まるまる休める学生と違い、果歩が取得できる休みはたった5日。 まとめて取ろうと分けて取ろうと自由なのだが、実の所、ひとつだけ制約がある。 同じ係の者と、休みが重ならないようにすること。 つまり――つまりである、果歩は、同じ係の係長であり、恋人?でもある藤堂と、絶対に同じ日に休めないのである。 「すみません。土日は、家の用事が入ってるんです」 数日前、何気なく土日の予定を聞いてみると、藤堂はすまなそうにそう言った。 「あ……自営業でもしてらっしゃるんですか」 勇気をくじかれた果歩は慌てて取り繕ったが、「まぁ、そんなところです」と、再び曖昧に逸らされる。 「平日に、休みが取れたらいいんですが」 その日は忙しくて、会話はそれきりになってしまったが、決して同じ日に休み取れないと分かっているだけに、果歩の落胆は大きかった。 国道。 長い信号は、なかなか青に変わってくれない。 果歩は、額に滲む汗をハンカチで押さえた。 ――もしかして、藤堂さん、私と……きちんと付き合うつもりなんて、ないのかな。 朝の太陽にじりじりと焼かれながら、少しだけ、憂鬱な気分になっている。 7月の半ば、夜の執務室でキスを交わしてから2週間。あれ以来、一向に進展のない関係。 もちろん同じ職場だから、毎日顔をあわせている。が、デートをするでもなく、秘密めいた会話をするでもなく――果歩にしてみれば、あんなすごい出来事があったにも関わらず、不思議なくらい、なんら変哲のない日々。 結局、仕事上の問題は山積みのまま、2人の仲だけ平和な状態が続いている。 ついでに言えば、流奈の猛アタックも、夏の太陽のように続いている。 ――なんていうか、じれったい? じれったいにもほどがある? 長すぎる信号。 果歩の憂鬱は、しだいに微妙な怒りに変わっていった。 もしかして藤堂とは、女に関していいかげんな性格の持ち主なのだろうか。それとも、どこかで本気になることを敬遠しているのだろうか。 職場環境が複雑だから、公にできないし、したくないのは分かる。が、せめて、一度くらい、二人きりで職場を離れてのデートに誘ってくれてもいいとも思う。 「お姉」 背後から、ぱん、と背中を叩かれた。 振り返ると、シルバーのジェットヘルを被った美玲が、ミニバイクを支えて笑っている。 「私もバイト、暇な公務員と違って、苦学生だから」 「少しは家に入れなさいよ」 へいへい、とそこだけは煩げに唇を尖らせてから、美玲はポケットから封筒を取り出した。 「愛の真実、君と過ごした夏の日々」 「………?」 「阿弥陀仏大戦争、大菩薩峠の曼荼羅」 「?????」 「今つきあってる彼氏が映画館でバイトしてんの、どっちもこの夏ヒットしてるロードショー」 「そうなの?」 「レイトショーのただ券もらってるから、どっちかあげるよ」 美玲は、果歩の目の前で封筒をちらつかせた。 「ベタだけど、口実にはなるんじゃない?」 もちろん、愛の真実の方を受け取り、果歩は少し明るい気持ちで、青になった信号を渡りはじめた。 まぁ、自分から動かなきゃ始まらない。 確かにベタだけど、ちょっと勇気を出して、誘ってみようかな、今夜……。 ************************* 「すみません。ですから、昨日の夜メールで送らせてもらったのが最終で、はい、席順のファックスも午前中には送りますから」 灰谷市役所本庁舎都市計画局。 の総務課。 始業前の朝――果歩が執務室に入ると、いつも、ぎりぎりまで新聞を読んでいる南原亮輔が、珍しく必死の形相で電話の応対をしていた。 「すみません、本当に申し訳ありません」 ――なんだろ? 不思議に思いながら、バッグを自席に置いた果歩が給湯室に入ろうとすると、 「おはようございます」 ポットを手に持つ、際立って大柄な男が、その中から不意打ちのように現れる。 「あ、お、おはようございます」 果歩は、一瞬赤らみ、そして慌てて居住まいを正した。 藤堂瑛士。 果歩の直属の上司であり、先月まで4度のキスを交わした相手。 今朝、果歩が、憂鬱になったり怒ったりしたのは、まさにこの男のことが原因なのである。 「朝の支度は、僕がやると言ったのに」 藤堂は、眼鏡越しの目で、柔らかく笑んでそう言った。 「的場さんは、もう少し、遅くこられてもいいんですよ」 「ええ、それはわかってるんですけど」 バスの時間が決まっているから、これ以上遅くはこられない。 で、こんな立場になって初めて分かったことなのだが、結構所在ないものなのだ。朝、ただ席に座っているだけというのは。 今まで果歩一人でしていた朝の掃除や湯茶の仕事は、先月以来、藤堂と2人で、分担してやるようになっていた。 朝は、藤堂がお茶の用意をする。 夕方は果歩がそれを片付ける。 ゴミ捨てや再生紙の搬出は藤堂がする。 掃除は果歩が、そして、来客、局長、次長、課長三役へのお茶出しは、基本的に果歩がすることになったのだが――。 「職員へのお茶だしはセルフサービスにして、準備は全員でやりましょう」 と、7月に藤堂が打ち出した提案を守っているのは、いまだ藤堂と果歩の2人だけ。 反藤堂派の中津川補佐を筆頭に、その他の職員は全員無視。果歩より年下の計画係の職員、水原真琴にまで黙殺されているのだから、どうしようもない。 「藤堂さん、ご自分の仕事が忙しくなったら、いつでも言って下さいね」 給湯室。 果歩は、カップを積み上げている藤堂を見て、軽く嘆息しながらそう言った。 雑務の分担は、結局は、藤堂一人の負担を増やしただけになっている。それが果歩には申し訳ない。 「忙しいと言えば、仕事はいつだって忙しいです」 藤堂の横顔は淡々としていた。 「ただそれは、やりようですから」 180センチを越える大きな身体は、狭い給湯室ではひどく窮屈そうに見える。 が、見かけを裏切ってなかなか器用で俊敏な藤堂は、手際よく果歩の背後をすり抜けては、必要なものをトレーに載せている。 「やりよう、ですか」 「はい」 滑らかで綺麗な肌には、剃刀負けの痕さえない。20代半ばの若々しい横顔に、果歩は眩しくなって目をそらしていた。 「仕事の量なら、やりくり次第でなんとでもなります。増えれば、増えるなりの仕事の仕方をすればいいし、全体の作業を見直して、新しい時間を作ればいいだけですし」 「………簡単におっしゃいますけど」 「? 簡単ですよ」 振り返った藤堂は、殆ど無邪気と言っていい笑顔だった。 「気持ちひとつですから」 気持ちひとつ。 「…………」 まぁ――そうかもな。 果歩は少し考えてから、藤堂の言葉に頷いた。 ひとつの仕事を過剰に感じるかどうかは、所詮、人の気持次第だからだ。 コップ一杯の水を「これだけ」と思う人もいれば、「こんなに」と思う人がいるように。 ただ、やはり果歩は、それは藤堂が特別だからだと、そんな気持ちが捨てきれないままでいた。 「その気持ちが……なかなか切り替えられない人の方が、多いんじゃないかな、とは思いますけど」 ――それは、私のことなんだけど。 新しい仕事への恐れ。 失敗への不安。 今が目いっぱいで、これ以上は絶対できないという固定観念。 理由は、多分、色々だろうけど。 果歩だけでなく、南原にしても「これ以上何やれっていうんだよ」が口癖だし、大河内主査に至っては、業務分担以外の仕事は絶対にしない。 庶務係では、藤堂くらいだ。誰の仕事にも同じレベルで深く関わっているのは。 「それは、……人にもよるのかもしれないですが、訓練次第だとは思いますよ」 藤堂は、そう言いながら、布巾をカップの上に被せた。 「訓練ですか?」 はい、と、かなり目線が上の男は頷く。 「どんな無理な仕事を任されても、絶対に出来ないと言うな。僕は最初の会社で、それを徹底的に叩き込まれたんです」 「最初の会社、ですか」 「ええ、まぁ、務めていたのはわずかな間ですが」 果歩は、多少の驚きを持って、話し続けてくれる藤堂を見上げた。 藤堂の口から、自らの過去の話が出たのは、これが初めてのような気がする。 「一言でも出来ないと言えば、会社からリタイヤするしかなかったですしね。確かに最初は、……上司のしごきだとも思いましたが」 「……………」 「気がつけば、どんな大量の仕事を請けても、苦にならない体質になっていました。いい上司に巡り会えたと、今では感謝しています」 藤堂がかつて所属していた会社。 無論、履歴から果歩はそれを知っている。 都英建設。日本でも最大手の建設会社だ。 藤堂は、大学卒業後、2年のインターバルを置いて都英に就職、そして2年で退職している。在職時の、所属部署は記載されていない。 いずれにしても、果歩にしてみれば、もっと聞きだしたい藤堂の過去話だった。 「あの、例えば、前の会社では、どんなことがあったんですか」 「え?」 「その、訓練みたいな、お仕事って」 果歩がそこに食いついてきたのが驚きだったのか、藤堂は、少し意外そうな表情になる。 が、すぐに男は真面目な目になると、そうですね、と、思案気な横顔を見せた。 「一番途方にくれたのが、入社2日目のことで」 「はい」 「朝9時に、いきなり、10時の会議で使う資料3千部を用意しろと言われました」 「えっ、3千部ですか」 役所の会議ではまず有り得ない数字に、果歩は驚いて声をあげた。 「株主用の配布資料に、公開前の株式情報が入っていたんです。全部破棄した上で差し替えでした。当分は、コピー機の音が耳から離れなかった記憶があります」 「…………」 てゆっか、それ、一体、どうやって処理したんだろう。 コピー機の処理速度的に、不可能な気がするけど。 「それが……訓練なんですか」 「今思えば、そうですね」 藤堂は、淡々と頷いた。 「量をこなすことで、こなす術を体得できます。大量の仕事を任せられるということは、スキルアップのチャンスですから。1日かかったものが、次に同じことをすれば半日になる。やがて一時間になる。それは、理屈や勉強では得られない、社会で生きていくためのノウハウのようなものかもしれません」 「藤堂さんは、すごいと思います」 果歩は、自然にそう言っていた。 実際今、藤堂が抱える仕事の量は、庶務係の誰よりも多い。 局次長の実質秘書であり、局内の取りまとめ役でもある。 運転手から苦情処理、議会対応まで一手にこなし、さらには局の決裁文書の全てに目を通している。 そして――信じられないと、果歩はいつも思うのだが、今では、局内全ての、かなり膨大な種類の職務を、藤堂は殆ど掌握しているようなのだ。 今となっては、志摩課長でさえ、課長補佐の中津川をすっとばし、他課の仕事内容を藤堂に確認しているほどである。 「最初は、決裁が遅くて」 笑いながら果歩が言うと、 「いや、それは、大変失礼しました」 藤堂が、少し慌てた態で赤くなる。 「いえ、今は、逆にすごく早いので、本当に驚いてます」 果歩も慌てて言い添えた。 その件では、最早誰も文句が言えない。厳しすぎるとの泣きごとは聞こえてくるが、それは今までがザルのようなひどい決裁だったからだ。 「僕は、……以前、少し、特殊な仕事の仕方をしていたものですから」 藤堂は、わずかに迷うような目で、カップを出し終えた戸棚を閉めた。 「大所帯の中で、こういった仕事をやった経験がありません。最初から、一緒にすればよかった、的場さんには大変申し訳なかったと思っています」 こういった仕事? しばらく考えて、それが、いわゆるお茶だしや掃除のことだと気がついた果歩は、むしろ慌てて手を振っていた。 「いいですよ、やる必要なんてそもそもないんです、藤堂さんは役付きじゃないですか」 「でも、年は一番下ですから」 「でも係長です」 「でも、年下ですから」 最後は、笑いの交じった口調だった。 果歩は、少しむっとする。 「ちょっと……」 「え?」 「微妙に傷つきます」 「え?」 「あまり年下って強調されると」 「え、いや、そんなつもりは」 無論、言葉に出したのは冗談だった。 が、見あげると、正面から目があって、藤堂がわずかに赤らんでいる。 その、どこか少年のような表情に、果歩も思わずときめいてしまっていた。 い、言おうかな。今。 今なら、こう、何気なく言える気も。 「あ……あの」 が、 「すみません、申し訳ありませんでした!」 ふいに聞こえた南原の大声が、果歩の勇気をかき消した。 「この度は、大変申し訳ございませんでした。ええ、すみません、どうぞよろしくお願いします」 そして、いったん電話を切って、またどこかへ掛けなおしている。 ――どうしたんだろ、南原さん。 仕事で何かトラブルがあったんだろう。 多分、昨日、果歩が帰宅した後で。 「……何かありました?」 執務室の南原の様子を窺いながら、藤堂に聞くと、 「ええ、でも大丈夫でしょう」 藤堂はなんでもないように言って、軽く目で笑ってくれた。 その涼しげな目許に、果歩は、南原のことも忘れ、再びときめいてしまっている。 「じゃあ、お先に」 しかし藤堂は、そんな果歩の気も知らず、すたすたと執務室に戻っていった。 「………あ」 い、言えなかった。 すごいチャンスだったのに。というか、あのキス以来、こんなに長く2人で話せたのは初めてだったのに。 ていうか。 やはり果歩には、藤堂の態度は謎だった。 ――どうしてそんなに余裕かな? 思うに、最後のキス以来、藤堂には妙な余裕がある。 果歩にしてみれば、何一つ進展しない関係が苛立たしくもじれったくもあるのに、どうやら年下の上司は、あのキスで、妙に落ち着いてしまったようなのである。 |
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