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年下の上司 story5〜 August

恋と友情の板挟み(2)

 
 南原がしでかした失敗は、午前中には果歩の耳にも入ってきた。
 今月半ばに予定されている、都市計画担当者大都市会議。
 本省と各都市から参加者を迎え、今年は灰谷市が幹事役となって、2日間に渡る会議と視察のセッティングをしなければならない。
 それらの準備は、無論、局総である総務課の仕事だ。
 南原は、こういった全国会議の担当者で、今年は春先からずっと準備をしてきた。
「俺一人でやってんだ」
 果歩がパソコンで、局長の行事予定を作っていると、隣席から苛立ったような、その南原の声が聞こえてきた。
「そりゃ、ミスだってするさ。一体誰のせいだと思ってるんだよ」
 その嫌味が、自分と――そして藤堂に向けられていることは言うまでもない。
 果歩は黙ったまま、パソコンのキーを叩き続ける。
 実の所、今月に入ってから、果歩は何度も「手伝いましょうか」と南原に声をかけている。
 南原の大雑把な性格はよく知っていたし、ここ数日の、あまりに乱雑な卓上には、さすがに不安を感じたからだ。
 全国会議は、国土交通省のキャリア管理職を招くだけに、わずかなミスも許されない。
 外交的な意味でも、会議の準備は万全以上の気配りを必要とする。7年もここにいる果歩は、それをよく知っている。
 が――南原は、おそらく藤堂への反感もあって、この件では意地になっているのだろう。果歩の申し出は、いつも冷ややかにスルーされていた。
「アルバイトはつかない、女子職員にはやらなくてもいい仕事をやらせる」
 計画係の係長、中津川補佐のため息混じりの嫌味がそこに被さった。
 藤堂を毛嫌いする、男尊女卑の急先鋒、50すぎの偏屈男である。
「起こるべくして起こったミスだね。民間係長の監督指導がなっていない、南原君のせいではないよ」
 果歩は反論したかったが、空席の藤堂の立場を思い、そこはぐっと我慢した。
 南原がしでかしたのは、タイムスケジュール表の送付ミスだった。
 変更前のタイムスケジュールを、参加各都市、そして会場のホテル、視察先の施設に誤って送ってしまったらしい。しかも2週間も前に。
 果歩も苦情電話の応対に出た。
「こんなミス、事前にちゃんと確認すればすむことじゃないですか」
 本省に言われた嫌味は、実際その通りだと思った。
 そんな、初歩的なミス、例えアルバイトがいようがいまいが、果歩だってしない。
 去年は果歩が、南原の補佐というスタンスで、雑用の殆どを押し付けられていた。その時も、南原がいくつか――きちんとチェックすれば容易にわかるミスをしていたのを、果歩はよく知っている。
 その時は、果歩が何も言わずに直してやったし、チェックもやり直してやった。南原は、それにさえ気づかなかったのかもしれない。
「あのぅ」
 背後で、どこか間の抜けた声がした。
 神経が尖ったまま、果歩は眉をしかめて振り返る。
「あ……、ごめんなさい、お忙しいのに」
 振り返った果歩は、相手を認めて表情を緩めた。
 住宅計画課の女子職員、百瀬乃々子《ももせののこ》。
 この局で、唯一果歩と目線があう長身の女性である。
 年は、多分、果歩より5つくらい若い24か、5。
 が、どことなく間延びした喋り方は、年齢以上に女を幼くみせている。
「ううん。こっちこそごめんね、なに?」
「あのぅ……」
 極端なちぢれ毛を後ろにひっ詰めている乃々子は、そのせいで余計強調された大きな目を瞬かせて、うつむいた。
 夏なのに、野暮ったい長袖のブラウスが暑苦しい。
 去年、この局に異動してきた百瀬乃々子とは、今年で2年目のつきあいになる。実の所果歩は、少しばかりこの後輩が苦手だった。
「あのぅ、先週出した時間外報告なんですけど」
「うん」
「今日気づいたんですけど、業務内容欄にひとつ誤字があって」
「……あ、そう」
 内心、がくっとなりつつ、果歩は取り繕った笑顔を浮かべた。時間外報告など、数字が全てで、業務内容まで誰もチェックしない。
 が、乃々子は、神妙な顔で、深々と頭を下げる。
「すいません、一応報告しとかないといけないって思いまして」
「うん、こっちも見落としてました、ごめんなさい」
「修正は、私の訂正印でいいですか」
「……あ、うん、そうね」
 どっちでもいい、と言うより、どうでもいい。
 果歩は軽くため息を吐く。
 乃々子はいつもこうである。性格なのか、性分なのか、実に細かい。
 自身のミスだけでなく、総務から配布した文書のわずかな誤字、ささいな矛盾さえ、絶対に見逃してくれない。そういう意味でも、果歩にとっては苦手な相手。
「……的場さん?」
「あ、うん、百瀬さんの印でいいと思うよ」
 きょろっとした目。
 ビーバーみたいな大きな前歯。
「わかりました、ありがとうございます!」
 笑うと、愛嬌のある可愛らしい顔になる。
 ――まぁ、性格は結構、いい子なんだよね。
 細かいのには辟易するけど、頼られているのが判るから、放ってもおけない。
「あの子の眉毛ってさ、よく見れば繋がってんだよな」
 ふいに、冷やかすような声がした。
 隣席の南原亮輔。
 その視線の先には、遠ざかっていく乃々子がいる。
 果歩は、眉をひそめていた。
「服は、ばばぁが着てるみたいなダッセーのだし、今時、あんな原始人みたいな女がいたのかよって感じがしねぇ?」
「言いすぎですよ、南原さん」
 計画係の新人、水原真琴が、笑いながら南原をたしなめている。
「でも、こち亀の、両津勘吉の眉毛だぜ?」
「ひどいなぁ」
 喉元まで出かけた怒りを飲み込み、果歩はバタンとパソコンを閉じた。
「会計行ってきます」
 そのまま、ものも言わずに席を立つ。
 ――本当、あったまくる、南原の野郎。
 果歩と一つ違いなのに、いまだ、女ッ気がない理由も頷ける。
 が、仕事のことだけは放ってもおけなかった。
 今日にでも藤堂に直訴して、もう一回南原のサポートにつこう。
 果歩自身の仕事も山積みになっている。が、それはやりようだ。今朝、藤堂も言っていたように。
 それと同じで……。
 ――見せようだと思うんだけどな。
 エレベーターホールに立ちながら、果歩はふと思ってしまっていた。
 百瀬乃々子。
 南原を擁護する気はさらさらないが、確かに乃々子の容姿、というかスタイルは、いつも微妙だ。
 ナチュラルと言えば聞こえはいいが、未手入れの眉毛に、産毛が密集した鼻の下。
 若さの証といえばそれまでだが、ファンデーションどころか、ルージュさえ引いていない、ぼてっと厚いたらこ唇。
 濃いちぢれ毛は頑なにまとめられ、くるぶしまでのロングスカートは、地味にもほどがある鼠色。
 ――素材は結構可愛いのに。
 くるくるよく動く目と、小動物みたいな前歯。
 もうちょっと――人目を意識したスタイルにすれば、美人とまではいかないが、そこそこ可愛くはなるような気がする。
 果歩は、止まったエレベーターに乗り込んだ。
 正面の鏡に、今の自分が写っている。
「……………」
 週の半ば、肌は少し疲れていた。
 なかなかビューラーが決まらなくて、何度もあげては重ね塗りしたマスカラ睫。朝の支度の大半をつぎ込んだだけに、形は完璧に整っている。
 ――きれいって、努力だよね。
 乃々子に、そういった意識がないようなら、言ったところでしょうがない。
 果歩は気持ちを切り替えて前を向く。
 何故なら女性の外観の美しさとは、影の努力なくしては絶対に継続しないものだからである。
 
 *************************
              
「南原さん」
 藤堂の声。
 午後の執務室。
 席に座ったままの南原は、背後に立つ直属の上司に呼ばれても、振り返りもしなかった。
 立ったままで、藤堂が続ける。
「会議の前日と当日の手伝いですけど、今年は住宅計画課にお願いすることになりましたから」
「はぁ」
「段取りもあると思いますので、打ち合わせを、今日にでもやってください」
 指示されたのが面白くないのか、今度は「はぁ」とも言わず、憮然として黙る南原。
「それから、会場の受付は、例年どおり、的場さんに任せましょう」
「…………」
「そういうことで、よろしくお願いします」
「…………」
 何を言っても、上の空の生返事。もしくは無視。
 ずっと2人の会話に聞き耳をたてていた果歩は、はぁっと重いため息を吐いた。
 今日だけではない。最近の南原は、藤堂に対してずっとこうだ。誰がみたっておかしいし、放っておくべきではない。
 が、果歩以外では唯一の係員である大河内主査は、今回もどこ吹く風。係内の険悪なムードに顔さえ上げようとしない。
 果歩は、自席に戻る藤堂を横目で追った。
 これまた、藤堂も藤堂で、南原の態度に怒るどころか気にする素振りさえみせない。
 ――藤堂さんは、これでいいと思ってるんだろうか。
 係内の意思疎通のなさが悪循環になって、多分、今回のミスに繋がった。
 それは間違いなく南原本人ではなく、むしろ藤堂のマイナス評価につながってくるだろう。
 静観している志摩課長と、春日次長の真意は分からないが、南原のミスは、おそらく想像以上の重さで藤堂に被さってくるに違いない。
 ――藤堂さんは……、確かに、仕事はできる人だけど。
 果歩は、軽く唇を噛んで、今朝の藤堂の笑顔を思い出していた。
(まぁ大丈夫でしょう)
 と、給湯室で笑っていた藤堂には、事態の深刻さが読めていないのかもしれない。
 役所人としても、係長としても全くの新任で、しかも係内では一番年下。
 そんな彼に、そもそもリーダーシップを求めること自体無理なのかもしれない。
「あ、10時か」
 ふいに、その藤堂が呟いた。
 そのまま立ち上がり、慌てた態で給湯室に走っていく。それを横目で見送った南原が、肩をすくめて冷笑する。
 果歩は、少しためらってから、藤堂の後を追って給湯室に入った。
「藤堂さん」
「はい」
 と、冷蔵庫を開けながら藤堂の背中が答える。
「あの……局長のミルクのことですけど」
「最近、温度調整にも慣れてきたのかな」
 立ち上がった藤堂は、にっこり笑ってそう言った。
「昨日も、局長に誉められました」
「そ、そうですか」
 三役のお茶だしは果歩の仕事だ。
 が、どういう了見か、ミルク出しだけは、「僕がやります」と、藤堂が頑なに譲らないのである。どうしても自分がやると言い張るのである。
 ――困ったなぁ……。
 実の所、こればかりは、むしろ迷惑な果歩だった。
 もともと果歩が、春日次長をはじめ、局全体の反感と冷笑を買いつつ続けていたミルク作り。
 で、今、その役目を引き継いだ藤堂を、局全体が、興味と冷笑を持って見守っている。
 一体いつまで続くのだろう、と。
 的場さんの立場がないよね、と。
 多分、それよりないのが、那賀局長の立場で、
「男性の入れたミルクも乙なものだねぇ」
 と笑ってはいるものの、その微妙な表情で、内心おもしろくないと思っているのがよく分かる。
「ていうより、藤堂さん、そんなことしてる暇なんてないですよ」
 果歩は、藤堂の手からミルクのパックを奪いながらそう言った。
「南原さんのこと、なんとかしないと」
「大丈夫ですよ」
 が、あっさりと、藤堂は、果歩の手からそのミルクパックを奪い返した。
「午前の課長会議で、住宅管理課から一人応援を頼めることになりましたし、南原さんの仕事は、彼女にフォローしてもらいましょう」
「…………」
 彼女?
「住宅管理課の百瀬さんです。住宅管理は今年の議題提案課でもあるので、進行についても打ち合わせをしないといけないですからね」
 彼女――。
 百瀬乃々子。
 今朝、時間外計算の些細なミスを報告にきた後輩。
 ――あの子が、南原さんのフォロー?
 果歩的には、微妙だった。
 百瀬乃々子も乃々子で、南原以上に性格的な欠点があるような気がする。
 それに、言っては悪いが、職歴的に、会議のセッティングや接遇のノウハウを知っているとも思えない。
 むしろ、南原の足を引っ張るだけになるのではないだろうか。
「あの、南原さんのフォローなら、私がやりますけど」
「まぁ、とにかく、今回は南原さんに任せましょう」
「……………」
「的場さんは、ご自分の仕事をしてください」
 柔らかいが、はっきりとした拒否。
「うん、このくらいの温度かな」
 果歩の明らかな不満顔を、藤堂は天然の笑顔でスルーする。
 ――本当に、大丈夫なの……?
 手馴れた仕草でミルクをカップに注ぐ藤堂を、果歩はただ、黙って見るしかなかった。
  
 *************************
  
「あのぅ」
 これで何度目だろう。
 果歩もパソコンから顔を上げたし、何事にも無関心な大河内主査も顔をあげた。
「ここなんですけど、最後の数字、一桁間違ってると思うんですけど」
 午後七時の執務室。
 総務課の庶務係は、今夜、全員が残業していた。
 その中に、いつもとは違う面子が一人混じっている。
 百瀬乃々子。
 住宅管理課から、都市計画会議の打ち合わせのために来た彼女が、今、臨時職員の席に座っている。
 いつもと同じ、野暮ったい白のブラウスに、灰色のロングスカート。ぎゅうぎゅうにひっつめた縮れっ毛。
 それは、南原に手渡された会議資料を読む乃々子の口から出た、今日何度か目の「あのぅ」だった。
「じゃ、適当に直しといて」
 パソコンから顔もあげない南原の、相当苛立った声がした。
「適当……ですか?」
「……………」
 答えない南原の指が、忙しくパソコンのキーだけを叩いている。
「あのぅ」
 乃々子が、戸惑ったように言いよどむ。
 鼻の頭に油が浮いて、それが照明でてらてらと光っていた。
「………適当にって、言われましても」
 その刹那、我慢も臨界点に達したのか、南原はがばっと顔をあげた。
「うるせぇな、適当にったら、適当なんだよ!」
「南原さん!」
 果歩は咄嗟に口を挟んでいた。
「………っ」
 舌打ちをして、髪を手でかきむしりながら南原がそっぽを向く。
「つか、うるせぇんだよ、いちいちいちいち」
 囁くような声だったが、その嫌味は、対面席の乃々子にも、当然届いているはずだ。
 一瞬びっくりしたような目をした女は、次の瞬間にはうつむいて、周囲がしん、と静まり返る。
 しかし、乃々子は、意外な強さを見せて、普段通りの顔で立ち上がった。
「あのぅ、すいませんでした」
 南原は、聞こえないふりを決め込んで、パソコンを叩き始める。
 たぶん、バツも悪いのだろう。
「私、自販機でコーヒーでも買ってきますけど、もし、よろしかったら」
 ちょっと、気まずい空気の中、誰もそれに返事をしない。
「じゃ、私、コーヒーのブラック頼んでいいかな」
 果歩は、咄嗟に言っていた。
「あ、はい」
 と、救われたように乃々子。
 困惑した子犬みたいな表情が可愛らしかった。
 乃々子の姿が暗いエレベーターホールに消えたのを確認して、果歩は南原に向き直った。
 こういう役目は、本来なら、藤堂か大河内にやってほしいのだが……。
「南原さん」
「うるせぇな、悪かったよ」
「………忙しいのは判るけど、お手伝いを頼んでる立場だから」
「わかってるっつってるだろ」
「傷つきやすそうなタイプの子だから」
「どこが」
 と、それには南原が冷笑する。
「何言っても響かない、トドみてぇな面してるじゃないか」
 ぶっと、果歩の背後で、水原真琴が吹き出す気配がする。
「……………」
 最低。
 話しかける気力さえなくし、果歩もまた、無言で席をたっていた。
 ――ああ……なんだか、ますます、雰囲気悪くなってるような。
 階段を降りながら、果歩は重いため息をつく。
 間違いない、乃々子と南原は、絶対にあわない。
 肝心の藤堂は、五時からずっと、人事課とのヒアリングに春日次長と出席している。
 ――やっぱり、いっそのこと、私が手伝った方がいいんじゃないかしら。
 まだ遅くはない。藤堂にじきじきに、それをもう一度お願いしてみよう。


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