あれこれ思いながら、果歩が、一階下の休憩スペースに入ろうとした時だった。 「本当ですか」 明るい、乃々子の声がした。 「ええ、いつも綺麗な決済文書が回ってくるので、几帳面な方なんだと思っていました」 ――藤堂さん? 間違いない、藤堂の声である。 でも、どこから? 薄暗いロビーの隅々に、果歩は視界をめぐらせる。 壁際、植栽の横の小さなベンチに、一組の男女が並んで腰をかけていた。 際立って大きな男の体格は、薄暗い照明の下でも間違いようがない。 藤堂と、そしてその隣に腰掛けている百瀬乃々子。 ――藤堂さんが、どうして、ここに? 自動販売機の陰、多分、向こうからこちらは見えない。果歩は、どうしていいか分からないまま、ただ、足を止めていた。 「几帳面すぎるって、よく言われるんですけど」 「いいじゃないですか、几帳面で」 藤堂の声が笑っている。 「字も綺麗だし、支出命令書にミスはないし、もっと自信をもっていいと思いますよ」 普通に入っていけばいいのに、何故か果歩は、そこで足を止めたままになってしまっていた。 というより、何故こんな薄暗い場所で、2人は仲よさそうに話をしているのだろうか。 暗くてよく見えないが、双方、紙コップのコーヒーを持っているように見える。 「私……じゃあ……」 乃々子が、顔をあげて何かを言いかけた。 「え?」 「い、いえ、その、なんでも」 何を言いかけたのだろう、慌てて取り繕っている様子が窺える。 藤堂が、わずかに笑う気配がする。 「じゃ、そろそろ戻りますか」 「あ、お金、払わなきゃ」 「いいですよ、コーヒーくらい」 「あの、その、的場さんにも頼まれてて」 そこに自分の名前が出たので、果歩はなおさら動けなくなる。 「じゃ、彼女のも、僕がついでに買いますよ」 が、あっさりと、なんでもないように藤堂。 「お金は私が………え? きゃっ、す、すいません、私お財布忘れました!」 わずかな沈黙の後、藤堂が吹き出した。 「じゃ、こっちからお願いしましょうか」 「……え?」 「今日は僕に、おごらせてください」 優しい声だった。 沈黙。 乃々子の当惑と羞恥と……それから、今、藤堂に持ったであろう好意が、少し離れた場所に立つ果歩にも、痛いほど伝わってくる。 「……色々、ご迷惑かけちゃって」 「いえ、こちらこそ、無理な仕事をお願いしまして」 2人が肩を並べて果歩の方に歩み寄ってくる。 果歩はとっさに、柱の影に身を寄せていた。 「あ、すみません。私、その、汗っかきで」 「え?」 「ク、クーラーが切れると暑いですね」 「外は少し涼しかったですよ」 2人の会話が遠ざかっていく。 果歩は黙って、その足音を聞いていた。 分かっている。 別に嫉妬するような場面でもないし、隠れる必要もない会話。 それでも果歩は、2人を会話を聞きながら、わずかに傷ついた自分を感じていた。 改めて、わかってしまったことがある。 ――藤堂さんは優しい。 多分、誰にでも、同等に。 執務室を出て、1人自販機の前に立った乃々子は、おそらく落ち込んでいたに違いない。そこに藤堂が偶然通りかかったか、居合わせた。 シチュエーションなら、簡単に想像できる。 が、その想像が、今、果歩を微妙に傷つけていた。 ――彼は、誰にでも優しいから。 だから、勘違いしない方がいい。 特別なことだと思わない方がいい。 それは、乃々子の背中に言ったようでもあり、自分に言ったようでもあった。 果歩は、改めて、この春藤堂に助けられた、コピー室や給湯室での出来事を思い出していた。 彼は誰にでも優しい。 もしかして果歩も、その「誰にでも」の一人だったのかもしれない。 ************************* 「あ、その映画、私も観たいと思ってたんです」 「デリュッセン監督の久々の新作ですからね。行かれたら、ぜひ、感想を聞かせてください」 「藤堂さんは、行かないんですか」 「なかなか時間がとれなくて」 藤堂さんって――。 5時過ぎの執務室。 果歩は、微妙に複雑な気持ちで、協議机で向かい合う2人の会話に聞き耳をたてていた。 乃々子と、藤堂。 会議資料の製本作業の合間に、2人は楽しげに言葉を交わしている。 ――藤堂さんって、女の子と、こんなに普通に喋れる人だったんだ。 藤堂と乃々子の2人を、階下のベンチで見たその翌日である。 忙しい、というより殆どやる気のない南原に代わって、今夜は藤堂が、百瀬乃々子に会議当日の流れを説明しているようだった。 「え、じゃあ、もしかしなくても、私たちって同じ大学ですか」 「そうですね、ただ僕は経済学部なので」 「私は法学部です。うそー、全然知らなかったです」 果歩は、少し苛々して、パソコンを閉じた。 藤堂と乃々子、2人はどうやら同じ大学卒らしい。果歩には敷居の高すぎる超高学歴同士。 会議の説明というより、殆ど昔話で盛り上がっている。 「なんだか、いつになく楽しそうですねぇ、藤堂さん」 と、大河内主査が意外そうに首をかしげているが、首をかしげたいのは果歩もまた同じだった。 ――どうしちゃったんだろ、藤堂さん。 いつも「ええ」とか「まぁ」とか言っている普段の藤堂とは別人のような快活さだ。 すでに隣席の南原など、微妙ににやにやしながら2人の様子を窺っている。 「藤堂もさ、やっと自分のレベルにあった女みつけたって感じじゃねぇの?」 「ちょっと好みがマニアすぎますよー」 と、周囲に聞こえないように、計画係の水原真琴と囁きあっている。 確かに、昨日もそうだったが、いつも女性に対して一歩も二歩も引いている藤堂が、ひどくリラックスした様子で乃々子と話しているのが、果歩にも不思議でならなかった。 性格が合うのか、はたまたうまが合うとでも言うのだろうか。 これなら、まだ流奈の一方的なアタックの方が、見ていて安心できるくらいだ。 「映画って、いつまでだったかなぁ」 と、天然なのか、誘っているのか微妙な口調で乃々子。 「今月いっぱいくらいじゃなかったですか」 気づいていないのか無神経なのか、にっこり笑って藤堂。 「邦題が、"君と過ごした夏の日々"ってタイトルですよね」 ――映画。 果歩は、はっとして顔をあげる。 映画って、妹にもらったチケット、あの映画のことだ。 果歩はようやく、渡す機会がないままのチケットのことを思い出していた。 「藤堂さん、本当に行かれないんですか?」 「ええ、残念ながら夏はずっと忙しいので、DVDが出たら観てみようと思っています」 あっさり答える藤堂の声を聞きながら、果歩は、もらったチケットを渡そうと貯めていた勇気が、もろくも崩れていくのを感じていた。 もしかすると、勇気を振り絞って誘ったところで、同じセリフで断られるかもしれない。 私だけは違うって、そう思いたいけれど。 果歩は迷うように、視線を下げる。 ――もしかして、藤堂さんにとっては、 私も、流奈も、百瀬さんも……同レベル? 目を閉じて、軽く嘆息する。 掴んだようで掴めない彼の気持ち。 ふいに現れた予想外の伏兵に、そのまま彼を持っていかれてしまうような――今は、そんな弱い気持ちになりかけていた。 ************************* 「当日は、私が受付に立つから、百瀬さんは後ろで名簿のチェックと会計をお願いね」 「はい」 果歩の説明を聞きながら、素直な顔で乃々子は頷く。 午後の執務室。 打ち合わせのため、今日も総務課に来ている百瀬乃々子。 果歩の前に椅子を引き寄せて、膝の上で資料をめくっている女の横顔に、午後の日差しが揺らめいていた。 果歩はそっと、上目づかいにその顔を窺い見る。 ――いい子、なんだよね……。 あれから一週間。 ちょくちょく課に顔を出すようになった乃々子は、南原以外のメンバーとは、すっかり馴染んでしまったようだった。 「ちょっと細かい子だけど、なんかこう、憎めないよな」 「やっぱ、若い子は素直でいいねー」 とは、さすがに果歩の前では誰も言わないものの、課内からは、暗にそういう空気さえ伝わってくる。 果歩にしても、今は、別の意味で、乃々子を見る目が変わりつつあった。 ――結構、仕事ができる子なんだ。 というより、頭がいいんだろう、かなり。 性格が細かいだけあって、仕事の仕上がりは完璧以上。 まるで重箱の隅をつつくように、誰もが見落しているミスを見つけてくれる。そして、一度教えたことは、絶対に忘れない。 三役や来客への気の使い方も、控え目ながらちゃんと出来ていて、さりげなく、果歩の仕事を手伝ってくれることもある。 ただ、最大の欠点があって――。 「あのぅ、ここで10分間、空白の時間がありますけど」 「え? どこ」 乃々子が指差した箇所を、果歩は慌てて覗き込んだ。 「その間、私何をしていればいいんでしょうか」 「………………」 受付担当者の進行表。 次と次の予定の繋ぎに、たまたま空けてある十分間。 「あの……百瀬さん」 「はい」 と、神妙な目をして乃々子。 この融通のなさと、何ひとつ自分で判断できない病的なまでの自信のなさ。 これが乃々子の、最大にして致命的な欠点だ。 「…………」 果歩は嘆息し、こめかみに指を当てた。 どう言ってあげればいいんだろう。 学歴と、これからの出世のスピードから言えば、間違いなく自分より上を行く女に対して。 今日は朝から小雨のせいか、いつにまして乃々子の癖毛は爆発気味に盛り上がっていた。 繋がり気味の眉毛は、最近下手くそながら剃ってあって、お世辞にも似合うとは言えないオレンジ色が、唇を妙に明るく染めている。 あまり効果はないものの、微妙に女らしくなった気がする。 まぁ――それは、どうでもいいんだけど。 果歩は、軽く咳払いして居住まいを正した。 「対人のスケジュールって、全てが、分刻みで正確に進むわけじゃないから」 「はい」 素直に頷く乃々子。 「交通機関の都合で遅くこられる方もいらっしゃるし、現場で臨機応変に対応しないといけない所って、どうしてもあるのよね」 「……はい」 「これは、アクシデントに備えた予備の時間だと思って」 乃々子は黙る。 頷くものの、少し不安気な頷き方。 果歩は、できるだけ柔らかい口調で続けた。 「当日は、色んなことがあると思うけど、それは基本的に私が対応するから、大丈夫よ」 「色んなことって……」 「そこは、当日になってみないと分からないことだから」 「…………」 再び黙る乃々子。 果歩は、微かに嘆息して、自身のスケジュール表を手元で閉じた。 ――百瀬さんは、典型的なマニュアル人間なんだな。 マニュアル化されたテキストがないと、何ひとつ出来ない。仕事に融通の利かないタイプ。 乃々子が今まで配属された部署が、決して学歴に見合ったものではないことを見ても、彼女に対する周囲の評価が頷ける。 「なんにしても」 だったらこの会議が、彼女にとっていいきっかけになったらいいんだけど。 そう思いながら、果歩は微笑した。 「百瀬さんには、私のフォローをお願いしますね。当日になったら分かると思うけど、本当に予定なんか意味がないほど、現場は忙しいし、ばたばたなのよ」 「的場さんって、すごいですね」 しばらく無言でスケジュール表を見ていた乃々子は、心底感嘆したように呟いた。 潤んだ大きな瞳が、じっと果歩を見上げている。 「え?……すごいって?」 と、意味が判らず、戸惑う果歩。 「こんな大きな仕事を、一人で任せられるなんてすごいです。私なんて、本当に全然だから」 「………」 「ほんっとすごい、尊敬です」 大きな仕事。 尊敬? それには、果歩が多少唖然としてしまっていた。 会議を準備するならともかく、たかだか受付の段取りを任せられている程度で――。 しかし、すぐに果歩は、乃々子の経歴を思い出す。 会計室と今所属している住宅計画課。 会計室は経理のチェックをするだけだし、今の住宅計画課では、乃々子は庶務一般と男性職員の手伝いのような仕事しかさせてもらえていない。 それは果歩も同じだが、庶務の事務量が莫大に多い果歩に比べると、確かに乃々子は、いつも暇をもてあますような、つまらなそうな目をしていた。 「住計じゃ、私なんて、なんのためにいるのか判らないんです」 乃々子は、大きな目を寂しそうに瞬かせて、そう言った。 住計とは、住宅計画課の役所内での略称である。 「そんなことないと思うけど……」 「本当です。係長が言ってました。去年の人事異動で、うちは男性職員の配属を希望してたんだって、私、赤毛のアンなんです」 「え?」 「みんなが男の子を待ってたら、さえないくせ毛の女の子が来たんです、それが私」 「……………」 可愛らしい言い方だったが、その例えが嘘でないと知っている果歩は、笑うに笑えなかった。 乃々子のいる住宅計画課とは、市営住宅を建設、管理している職場である。 技師が多く、昔から男所帯で、女性が任される仕事は殆どないと聞いている。 乃々子の前は、退職寸前の老婦人が庶務だけをやっていた。その程度なら、乃々子にすれば片手間ですらない仕事だろう。 そして昨年、その老婦人の退職を機に、住計が女性に換えて男性職員の補充を希望していたのを、果歩はよく知っている。 「うちの局は、男性がメインの職場だものね」 果歩にはそれしか言えなかった。 色んな立場で、色んな仕事をしている人がいるんだ。 書類をそろえながら、果歩はふと、そんなことを思ってしまっていた。 ――私……自分のことばっかだったな。 7年間同じ課で、女性は果歩一人だった。だから、後輩の女の子の立場や気持ちなんて、考えたことさえなかった。 ――気づけば、一番のお局か。 この局の女性では最年長、もしかしなくても、もっと広い視野で、他の女性職員のことを、考えた方がいいのかもしれない。 自分がこの局で、今まで感じてきた様々な葛藤は、間違いなくここにいる乃々子の葛藤でもあるはずだから。 「……あ」 と、それまで生真面目な顔で書面を見ていた乃々子が、ふいにそわそわした風に顔を上げた。 果歩にも、その理由はすぐに判った。 「じゃ、藤堂君、セッティングは任せたよ」 「わかりました」 次長室にこもっていた藤堂が、分厚いファイルを片手に出てきた所だった。 自席につく間際、果歩の隣にいる乃々子に気づいたのか、藤堂はわずかに微笑する。 「いつもすみません」 「あ、いえ、いえ」 と、気の毒なほど赤くなって乃々子。 これでは、好きです、と顔に書いてあるようなものだ。 が、藤堂はそれにはまるで気がつかないのか、特に表情を変えることなく自席についた。そして、ふと顔を上げる。 「的場さん、申し訳ないんですが、今から次長室にコーヒーを7つ、お願いできますか」 「手伝います、私」 果歩が頷くより早く、乃々子がそう言って立ち上がった。 「あら、いいのよ」 「今暇だから、私」 果歩は、藤堂の席をちらっと見たが、藤堂は特に気にするでもなく、パソコンに視線を向けている。 ――いいのかな、本当に。 会議の手伝いという名目で、乃々子は最近、ずっと総務に入り浸りになっている。 よく、住宅計画課から苦情が寄せられないものだと、気難しい住宅計画課長の気質を知っているだけに、果歩には少々不思議なのである。 それでも忙しい折の手助けは嬉しい。2人して肩を並べて、給湯室に入ろうとした時だった。 「つか、絶対あれだろ、恋心ってやつじゃねぇ?」 「ぶぶっ、なんか笑えますねぇ、でもお似合いじゃないですか」 給湯室の中から声。 「藤堂みたいなでくの坊には、あれくらいのブスがお似合いだよ」 「ひどいなぁ、南原さんは」 南原と、それから計画係の水原真琴の声。 会話の内容を察した果歩は、咄嗟に背後の乃々子を庇おうとしたが、遅かった。 「それにしても、最近ますます微妙ですよね、百瀬さん」 「あの直線眉毛に、口紅だろ? かなりキモいよな、誰か止めてやれよって感じ」 2人は、給湯室で、コーヒーを飲んでいるようだった。 声と共に、香ばしい匂いが漂ってくる。 「あんなのが、うちの受付に立ってみろよ、全国に灰谷市の恥さらすようなもんだぜ、マジで」 笑い声と共に、2人が出てきた。 「あ、」 と、声を立てたのは水原で、南原は、無言で眉だけを上げた。 「……………」 「……………」 なんとも言えない、気まずい沈黙。 ――給湯室の陰口は、女の専売特許だと思ってたけど。 まぁ、2人とも、男の風上にも置けないくらい、どうしようもない奴らだけど。 果歩は、何食わぬ顔で、軽く目礼してから給湯室に入った。経験から言えば、こういう場合、聞かなかったふりに限る。 「百瀬さん、悪いけどカップ出してもらえる?」 迷いながらも、背後の乃々子に、ごく普通に声をかけた。 「はい」 が、乃々子の返事は、意外なほど普通だった。 振り返った果歩に、乃々子は、普段通りの顔で微笑みかけた。 「おっきなトレー、どこにしまってありましたっけ」 「え……、ああ、それは」 その笑顔に、逆に、果歩が戸惑ってしまっていた。 「それにしても、次長さんって、なんでこんなにコーヒーが好きなんですかねぇ」 「好きで飲んでるんじゃないのよ、お客様だけに出すわけにはいかないから」 「もったいないから、薄めましょうか」 笑いながら、乃々子。 案外、強いのかな。 それとも、単に鈍いだけ……とか。 果歩だったら、耐えられなかったかもしれない。あんな陰口を、同性の前で言われたら。 「じゃ、後は私がもってくから」 「はい、じゃ、的場さんの席で、さっきの続き読んでおきますね」 すたすたと給湯室を出ていく乃々子。 今、総務には、南原も水原もいる。さすがに果歩は、舌を巻いていた。 ――認識改めなきゃ、強いんだ、百瀬さんは。 コーヒーを出し終えて、果歩が席に戻ると、乃々子は、すでに元通りの椅子に腰掛けていた。 「すみません、もう一度、ここを確認したいんですけど」 「うん、どこ?」 書面をのぞきこもうとした果歩は、乃々子の印象が、先ほどとは少し違っているのに気がついた。 「…………?」 なんだろう、どこが……。 ――あ。 唇に、色がない。 「的場さん?」 「あ、ううん、えっと、それはね」 説明する果歩に、「うんうん、判りました、納得ですー」と、屈託のない表情で頷いている乃々子。 その目が、わずかに充血している。 果歩は、鈍い自分に、舌打ちしたいような気持ちになった。 |
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