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年下の上司 story5〜 August

恋と友情の板挟み(6)

 
 会議当日。
 留守番要員の中津川補佐と大河内主査を残し、総務課全員が都市計画担当者大都市会議のために、郊外の埋立地にあるホテル『プリンス灰谷』に集合した。
 出席者の受付は10時からである。
 会議は10時半開始。
 午前9時には会場入りした総務課のメンバーは、南原の指示の元、全員がそれぞれの役割場所についた。
 果歩と乃々子が、メインロビーで受付担当。
 志摩課長と那賀局長は、10時に到着予定の国土交通省の出迎えと接待役。
 水原真琴が会場への案内役で、同じく計画係の谷本主幹と新家主査が進行係補佐。
 進行はメイン担当である南原で、会議に出席するのは春日次長と、そして住宅計画課長だった。
「資料、どこ置けばいい?」
 果歩が受付のテーブルセッティングをしていると、ダンボール3箱分の会議資料が、台車に乗って運ばれてきた。
 台車を押しているのは、会場への荷物運搬と運転手役を手伝ってくれている、都市デザイン室の窪塚主査である。
 アフロヘアーにスーツがまるで似合っていない、ロサンゼルス帰りのインテリ男。さすがに今日は、スニーカーではなく革靴を履いている。
「今回の資料って、すごい量だね」
「作るの大変だったんです」
 ダンボールを開いて中身を確認しながら、果歩は忙しなく答えた。
 あらかじめ決められた議題に、全国の担当者から寄せられた回答、資料を一冊の冊子に製本したものである。
 昔は印刷に出していたが、財政難の今の時代、それは職員の手作りだ。
 最後の最後になって東京都から差し替えがあったため、相当な時間をかけて作られた100ページを超える分厚い資料。
「これ、会場に運んでもらえますか。谷本主幹、新家主査、配布お願いします」
 南原は、ホテルスタッフとの最終打ち合わせの最中だ。
 南原がいない間は、メインロビーのチーフ役は自然と果歩に回ってくる。
 なにしろ果歩は、この課で7年、同じことを繰り返してきたベテランなのである。
「百瀬さん、名札のずれ確認して、ずれてたら綺麗に直して」
「は、はい」
「水原君、そこじゃエレベーターの位置から見えないでしょ、もう少し前に出て」
「悪い、的場さん、本省の控え室用に、今日の資料が一式いるって言われたんだけど」
 で、そういう折に限って、別の仕事が舞い込んでくる。
 ――もうっ、それは南原さんに、しつこいほど言ったのに。
 果歩は、苛立ちながら、荷物を納めてある総務課職員用の控え室に入った。
「あのぅ」
 気がつくと、果歩の後をついてきたのか、背後に乃々子。
 ひどく不安そうな目で、果歩をじっと見上げている。
 今日の乃々子は、新調したブラックのパンツスーツに身を包み、髪をひとつに束ねていた。
 まるで新入社員のような初々しさと清楚な美貌、一時、果歩は、仕事も忘れて見惚れている。
 そう――美貌、といってよかった。
 本当に乃々子は、この数日で、まるで別人のように綺麗になった。
 時々「あ、これ外してる」という失敗をするものの、今は、メイクもファッションも、乃々子の年相応のものに落ち着いている。
 それより何より、乃々子の内面から、見えない何かが溢れるように光を放って輝いている。
 それは、努力というより、恋の力なのかもしれないけど――。
「大丈夫よ」
 果歩は、ぴりぴりしている自分の表情が、乃々子を不安にさせているのだと気がついた。
「私……的場さんが、何してるのかさえ、わからなくて」
 落ち着かない様子で乃々子が呟く。
 果歩は自分も深呼吸してから、本省用の資料をダンボールから取り出した。
「あのね、乃々子」
「はい」
「何をするべきだとか、しなきゃいけないとか、そういう筋書きなんてどこにもないの。ただ、お客様に、気持ちよく会場入りしてもらおうと思えばいいだけなの」
 市長秘書時代、先輩秘書から教えられたこと。
 それを口にしながら、果歩は、自分が誰かにそんな話をするなんて初めてだな、と思っていた。
「乃々子は手伝いでここに来てるんだから」
「は、はい」
「手伝うってことはね、相手にとって、仕事がしやすい環境を作ってあげることなの。何かを言われたから動くんじゃなくて、その相手が何をしてほしいか、読みながら動けばいいの」
「……はい」
「乃々子は、基本的にそれができてるから大丈夫。もっと自信をもって、自分の判断で動けばいいから」
 最後は、優しく言ったつもりだった。
 はい、と乃々子が力強く頷く。
 その明るさを取り戻した表情に、果歩がほっとしかけた時だった。
「これは一体、どういうことだ!」
 
 *************************
 
 春日要一郎。
 都市計画局次長である。
 都市計画局のナンバー2だが、実質的なボスとも言っていい。
 エリート中のエリートで、来年度、局長になるのは間違いないと囁かれている。
 短気で神経質、ただでさえ気難しい春日が、今、枯れ木のような顔を灰色にして、果歩たちの前に立っていた。
 その手には、今日の会議用資料が握られている。
「どういうことかと聞いている!」
 立ちすくむ果歩の前に、ばさっと、その分厚い冊子が投げられた。
「あの……」
 春日の背後には、後を追ってきたのか、都市デザイン室の窪塚主査、そして何人かの総務課職員の姿が見える。その全員が、強張った顔をしたまま立ちすくんでいる。
 春日の癇癪の激しさは、ほとんど恐怖を持って知られている。しかも、今日のそれは尋常ではない。
「すみません、資料に何かあったんでしょうか」
 果歩が、勇気を振り絞れたのは、背後の乃々子をこれ以上おびえさせたくないからだった。
「差し替えだ、メールで連絡があったろう」
「それなら、対応できています」
「だったら、自分の目で確かめてみろ!」
 果歩の反論が勘にさわったのか、ばん、と壁を手で叩かれる。
「…………」
 果歩は、心臓が嫌な風に高鳴るのを感じながら、投げられた資料を手にとってみた。
 昨夜、乃々子と水原の2人に最終チェックを任せた。
 乃々子のチェックは完璧だ。多分、大丈夫、問題ない。でも万一、漏れがあったとしたら――。
 ここから役所までは、車で移動しても30分以上はかかる。
 開場まで30分を切ったこのホテルで、一冊100ページ、70部以上の資料の作り直しはもうできない。
「そこじゃない」
 しかし、果歩が開いたページは、春日の手で乱暴にめくられた。
「本省の見解部分だ、一昨日、電話とメールで連絡したといっていた。これは、前の資料のままじゃないか!」
「……………」
 本省?
 果歩は、呆然として顔をあげた。
 手直しがあったのは東京都のものだ。本省、国土交通省のことまで聞いていない。
 電話?
 メール?
 果歩は、周囲の職員の顔を見回す。が、誰も驚いた目で首を振る。聞いていないと、全員の目が言っている。
 肝心の南原がここにはいない。藤堂もいない。
 水原に、南原を呼びに行かそうとした果歩は、エレベーターホールの前で固まっている水原真琴が、ひどく蒼白な顔をしているのに気がついた。
 ――もしかして。
 そう思った時だった。
「申し訳ありません、僕のミスです」
 沈黙をかき分け、息せきって駆け込んできた人が、開口一番そう言った。
「僕の確認忘れでした、大変申し訳ありません!」
「ミスですむ問題か、謝ってすむ問題か!!」
 春日の大喝が、室内に響き渡る。
 その前に立っている藤堂は、ただ、直立不動で頭を下げたままだった。
 ――違う、藤堂さんのミスじゃない。
 果歩は咄嗟にそう言いたかった。春日の背後から、ようやく騒ぎを聞きつけたのか、慌てた顔の南原が走ってくるのが見える。
「……確かにこれは、君のミスだな、藤堂君」
 怒りを通り越した春日の声は、すでに冷え切っていた。
「資料はかなりの量で、複数枚の差し替えがあるそうだ、どうする、あと時間は30分もないぞ」
「……なんとかします」
「なんとかしたまえ、でなければ、君の責任問題だ」
 肩をそびやかした春日が、一瞬、ちらりと、立ちすくんでいる南原を見る。
 が、それは一瞬で、春日はすぐに、元来た方向に歩み去っていった。
 
 *************************
  
 全員が、まだ春日ショックから冷めやらず、呆然としている。
 ――てゆっか、どうすればいいの、これから。
 呆然としているのは、果歩もまた同じだった。
 何がどう差し替えになったか分からない文書。しかももう、間違って作られた資料は全て、会場に並べられている。
 相手は天下の本省、この会議の実質VIP来賓でもある国土交通省。
 すみません、もう一回送ってください、と、気軽に言えるような相手ではない。
「今から……役所に戻っても、30分じゃ戻れないでしょ」
 最初に口を開いたのは、この中でただ一人平然としていた窪塚主査だった。
「どうする、藤堂君。ここは叱られるのを覚悟でもう1回本省から送ってもらうでもしないと、どうにもならないんじゃないの?」
「……そうですね……」
 少し思案してから顔をあげた藤堂の顔もまた、窪塚同様、普段と全く変わってはいなかった。
「いや、なんとかなるでしょう」
 そして藤堂は、普段通りの笑顔で、立ち尽くす全員を見回した。
「そろそろ他都市のお客様が入ります。みなさんは、打ち合わせどおりにお願いします」
 落ち着いた表情と言葉に、ようやく凍りついていた空気が緩む。
 動揺していた果歩も、少しだけ気持ちが静まっていくのを感じていた。
 藤堂は、そのまま、背後の南原を振り返る。
「南原さん、大変申し訳ないのですが」
「……なんだよ」
 声をかけられた南原は、硬い顔に、すでに敵意をむき出しにしていた。
「俺一人のせいなのかよ、違うだろ? バイトがつかないから一人で何もかもやってんだ。こうなったのは誰のせいだと思ってんだよ」
 苛立った声だけが、どこかむなしくホールに響く。
 いつも南原に追従する水原や、計画係の谷本、新家もさすがに言葉を失っている。
「いえ、だからそれは、僕のせいなんです」
 藤堂の声だけが、場違いに静かだった。
「しかし、今それを気にしていても仕方ないので、お叱りは後で受けさせてください。他都市の担当者とのメールのやりとりは、南原さんの個人メールでしたか」
「………知らねぇよ」
「思い出していだたけませんか」
「メールなら毎日朝晩チェックしてるよ、そんなもん、一度だって見てねぇよ」
「申し訳ありませんが、南原さんのパスワードを、今からすぐに大河内主査に連絡してあげてもらえますか」
「俺のミスだってのか、俺がメールを見忘れたとでも言いたいのか!」
 南原は、ますます顔を赤くする。
 果歩でも分かる。今は、そんなことにこだわっている場合じゃない。
 が、南原は、自身のプライドを保つことに必死のようだった。
「そんな重要なメール、俺は絶対に見忘れていない!」
「南原君、いい加減にしようよ」
 たまりかねたように口を挟んだのは、意外にも、一番揉め事に口を出しそうもない窪塚主査だった。
「こんな問答をしている間に、時間はちゃくちゃくと過ぎてんだしさ」
「だから俺じゃないんだよ」
「誰だってミスはあるんだ。そんなことに拘ったって、はじまんないっしょ」
「だから、俺は絶対見忘れてないんだよ!」
 南原は、それでも激しく言い張った。
「聞くんなら、本省に頭さげて、もう一回聞けばいいだろ。そっちの手違いでメールが届いてないんで、もう一度送ってくださいって頼めばいいじゃないか!」
 そして南原は、充血した目で藤堂をにらみつけた。
「それ、あんたの仕事だろ、係長」
 藤堂が、わずかに唇を引き結んで南原を見つめる。
 その唇が、何かを言いかけたような気が果歩にはしたし、それは開いてしまえば、間違いなく怒りにも似た感情のような気がした。
「……そうですね」
 が、わずかな緊張の後、口を開いた藤堂の目は、不思議なくらい穏やかだった。
「確かに僕が間違っていました。当然のように南原さんを疑ってしまっていた。申し訳ありませんでした」
 傍らで、窪塚が軽く舌打ちをする。
 果歩も同じ気持ちだった。
 ――絶対に、南原さんのミスだ。
 基本的に大雑把な南原は、この程度のポカならいくらでもしている。それは、多分、ここにいる誰もが知っている。
 藤堂が、頭を下げてまで謝罪する必要はない。
「じゃ、すぐに本省の控え室に行ってきます。的場さん、申し訳ないんですが、ホテルのスタッフに」
 顔をあげた藤堂が、そう言いかけた時だった。
「あの、」
 思いつめた口調で口を挟んだのは、それまで、ずっと青ざめていた水原真琴だった。
 果歩はようやく、彼の存在を忘れていたことに気づく。
「そ、それ、僕が」
 水原は、震える声で続けた。
「僕が、電話もメールも受けたんです。な、南原さんが、お出かけの時に」
 ロビーが、しん、と静まりかえる。
「い、急ぎだっていうから、とりあえず僕のメールに送ってもらって。それ、すぐに南原さんに転送したん……ですけど」
 南原の表情が、目に見えて赤くなった。
 逆に青ざめる水原の顔色から、この件に関して、口頭での伝達が失念されていたことが窺い知れた。
「馬鹿野郎!!」
「す、っす、すみませんっっ」
「てめぇからの私信なんて、開くかよ、このくそ忙しいのに!」
「水原君、助かりました、よく覚えていてくれた」
 が、藤堂は、落ち着いた様子で、激怒する南原の傍をすり抜けた。
「南原さん、そのメールをホテルのメールアドレスあてに転送してもらいましょう。アドレスは僕の方から調べて連絡するので、南原さんは、事情とパスワードを大河内主査に連絡してあげてください」
 そのままエレベーターホールに向かう藤堂は、しかし、ふと足を止めた。
「窪塚主査と的場さんに、僕の手伝いをお願いしてもいいですか」
 果歩は、咄嗟に背後を振り返った。無論、そうしたい。が、そうなるとロビーの受付は――。
 果歩の背後に立つ乃々子は、真っ直ぐに藤堂の顔を見ている。
「受付は百瀬さんにお願いします。大丈夫ですね」
 どこか力強い藤堂の言葉。
「大丈夫です」
 乃々子は、いつになくきっぱりとした顔で頷いた。

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「メール、届きました」
 ホテルのスタッフルーム。
 大河内からのメールは、ものの5分で、ホテルの代表メール宛に届いた。
 あれだけ激昂していた南原だったが、それでもすぐに大河内に連絡を入れてくれたらしい。果歩は、わずかにほっとする。
「ありがとう。しばらく、このパソコンをお借りしてもいいですか」
「構いません、お客様用にご用意しているパソコンですので」
 スタッフに目礼し、藤堂は、パソコンデスクに腰掛けた。
「……結構な量だねぇ」
 それを覗き込み、難しい顔で窪塚。
 眉を寄せたのは、果歩もまた同じだった。
 PDF文書、ページの量はかなりある。おそらく、50ページは超えている。
「つか、霞ヶ関の傲慢だね。こんな面倒な差し替え、前々日に送るかね、普通」
「まぁ、送られたものは仕方ないです」
 新たに制定された法令の一覧と、その解説集。
 おそらく本省でも、ぎりぎりになって作られたに違いない。
「しかし、どうする。これを70部、どうやって印刷して、どうやって差し替えるんだ」
 果歩は思わず時計を見る。開場まであと10分。
 すでに来客の半分は入っているだろう。差し替えは実質不可能だ。
「この部分だけ、まるごと焼き直して、追加で配布します」
「しかし、70だぞ」
 トータル数、4千枚以上。
 フロントには、サービス用のコピー機があるが、60枚に及ぶ資料を70部、一度に処理できそうもない。
 しかも、ソータ機能は10部しかなく、コピー後の編集を考えても、時間的に不可能だ。
「ホテルに、他にコピー機はないのか」
「聞きましたが、顧客情報等のセキュリティの問題があり、すぐには貸してもらえないそうです。コピー用紙とホッチキスだけお借りしました」
 パソコンから目を離さないままで、藤堂。
 見守る果歩と窪塚の背後に、ホテルスタッフが、大量のコピー用紙を台車に載せて近づいてくる。
「あの、藤堂さん、以前、2千部の資料を一時間でコピーされた時って」
「同じやり方は、役所ではできないと思います」
 果歩の問いに、藤堂は顔もあげないままでそう答えた。
「……こういう時、公務員は不便だな」
 独り言のような呟きが聞こえた。「たった、4千かそこらのコピーなのに」
 無表情で呟く藤堂は、それでもパソコン画面から顔をあげない。出力は全て終ったし、わざわざ読み返しているような場合でもないのに、殆ど流れるような速さで画面をスクロールさせ続けている。
 そして、おもむろに口を開く。
「的場さんと、窪塚主査は、ここにあるコピー機で30部、両面焼きでお願いできますか」
「残りはどうする」
「どうしようもないです」
「どうしようもないって……」
 耳を疑い、果歩は思わず、窪塚と顔を見合わせた。
 ――藤堂さん、一体どうしちゃったんだろう。
 藤堂はいまだ、一心不乱とも言える熱心さで、画面の文字を目で追い続けている。
「藤堂さん」
 果歩はたまらず、声をかけていた。
 今は、送られた資料を読み返している場合じゃなくて――。
「全員分のコピーは諦めるしかないので」
 しかし、藤堂の声は普段通りだった。
「まぁ、端から叱られるのは覚悟の上です。すみません、急いでコピーをお願いできますか」


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