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年下の上司 story5〜 August

恋と友情の板挟み(7)


 昼食を挟んだ午前、午後の会議が終る。
 あとは夜の懇親会を残すだけとなっていた。
 都市計画担当者大都市会議。
 明日の視察は、南原と中津川が同行する予定だから、果歩の役目は、これで全て終りだった。
 ――疲れた……。
 会議を終えた各都市の担当者たちは、ぞろぞろと与えられた部屋に移動していく。南原、藤堂らは、その案内役として同行している。
 全員を見送ってから、果歩は一人、閉会後の会場の片付けをはじめた。
 コーヒーカップや灰皿などは、ホテルスタッフが片付けてくれるが、資料やネームプレートなど、こちらで持ち込んだものは早急に撤収しなければならない。
「的場君」
 ふいに、特徴のある柔らかな声が、背後でした。
 ふりかえった果歩の視界に、小柄で、少しばかりいたずらめいた目をした老人――都市計画局のトップ、那賀康弘の姿が映る。
「局長?」
 果歩は、驚いて声をあげた。
 今夜の懇親会にだけ参加予定の那賀は、すでに上階で、本省の接待役を務めていないといけない時間だ。
「あ、あの、国土交通省さんのお部屋なら」
「いやー、いいんだ、いいんだ、そういうのは春日君に任せておけば」
 呑気にそう言うと、那賀は、白髪頭を振りつつ、空いた席のひとつに腰を下ろした。
 いいんだいいんだって、本当にいいんだろうか。
 と、果歩は思うが、それ以上のことは言いようがない。
「それより、大変だったそうだねぇ、今日は」
 大きな椅子にちょこんと腰掛けた那賀は、どこか楽しげな声でそう言った。
 どの話だろう、と、一瞬果歩は警戒したが、今日大変だったといえば、あのことしかない。
「お聞きになっておられるんですか」
「迎えにきてくれた窪塚君から、まぁ、色々聞いちゃった」
 那賀は、余った資料を持ち上げて、ふざけた表情でそれをめくった。
「あの窪塚君が、珍しく他人を誉めていたねぇ。口を開けば嫌味か皮肉しか言わないのに、いやいや驚いた、珍しいこともあるもんだ」
「…………」
 多分、藤堂さんの話だろう。
「あの状況で、冷静な判断ができたのもさることながら、あれだけの資料をわずかな時間で暗記するスキルの高さ、いや、あの窪塚君がべた褒めだったよ」
「……藤堂さんは、記憶力がいいんだと思います」
 果歩に言えたのはそれだけだった。
 4月、コピー室で、複雑なコピーをあっという間に済ませてしまった時もそうだった。今回で改めて判った。藤堂は、一度目にしたものを即座に記憶できる人なのだろう。
 その他の部分では、じれったくなるほど忘れっぽい人なのに。
 藤堂が、コピーの代わりに用いたのは、パソコン画面を、そのままスクリーンに照射する方法だった。
 急な変更に、即座に対応してくれたホテル側に負うところは多かったものの、無論、本省のそれは、プレゼン用に作られた資料ではない。
 しかし、そこを補ったのが、藤堂の記憶力だった。
 本省の説明にあわせ、画面をタイミングよくスクロールさせる。言うのは簡単だが、ただ延々とページが続いているPDF画像、そこから瞬時に出したいページを導くのは至難の業だ。ある程度内容を熟知していないと、できるはずがない。
 しかし、藤堂は、担当補佐官がページ数を言うより早く、目的のページを探し出していたようだった。
「しかし、問題がないわけじゃない。役所間の内部文書を、民間のメールアドレスに転送させたのは、いかにもまずい」
 那賀は言い差して顔をしかめた。
「まぁ、そのあたりの始末は、春日君にでも任せればいいんだがね」
 が、そう言うと、一転して楽しそうにひゃひゃっと笑った。
「しかし、男だねぇ、民間君は。まだ若いのに大したもんだ」
 背後で、わずかな物音がした。
 果歩は振り返ったが、半分開きかけの扉があるだけである。が、確かに今まで、誰かがそこに立っていたような気がした。
 那賀は続ける。
「実の所、春日君はずっと言っておったんだよ。会議の担当を変えろとね」
 春日次長が?
 果歩は驚いて顔をあげていた。
「南原君は、去年も、随分ミスが多かったからねぇ。春日君は、たいがいのことはよく見ているから、南原君の気質も、君がフォローしていたことも知っていたんだろう」
 あの――春日次長が。
 果歩は、別の意味で不安を感じて押し黙る。
 一体、どういう意図で何を見ていたんだろう。
 七年前のセクハラまがいの事件以来、まだ、果歩には、春日という男が信じられないし、どうしても好意がもてないままだ。
「スケジュール表を間違って送っちゃった時だね。担当を大河内主査に変更しろと、春日君が藤堂君に、えらい剣幕で指示したらしいんだ」
「じゃ、藤堂さんが」
 果歩が思わず呟くと、うん、と呑気に那賀は頷く。
 藤堂さん、――反対したんだ。
 そのまま、南原さんを担当に据え置くように言ったんだ、多分。
 果歩は、あらためて、「まぁ、大丈夫でしょう」と笑っていた藤堂の顔を思い出していた。
 そして、今日「僕のミスです」と、即座に春日に頭を下げていたことも。
「……藤堂さん、なんで」
 あれほど嫌われて、バカにされ続けている南原みたいな男のことを。
「なんでだろうねぇ」
 那賀は、含んだように口元で笑った。
「彼は仕事はできるかもしれんが、係の長としてはまるで素人だろう」
「…………」
「彼自身が今回は、上司としての、これが辛抱のしどころだと思ったんじゃないのかねぇ」
 辛抱のしどころ。
 果歩は黙って、那賀を見る。
「部下をたててこその上司だよ。育ててこその上司だ。自分が前に出るんじゃ、係の長とはとても言えない」
「…………」
「失敗は被る、成功は譲る、その信念が透けてみえたような気がしたね。最後の最後で、藤堂君は部下を信じた。上司なら、それでいいんだ」
 長いつきあいになるが、初めて那賀に、そんな真面目な話を聞かされた気がする。
 果歩は、うつむいたまま、自分の頬が赤くなるのを感じていた。
 私は、信じなかった。
 最後まで疑っていた。
 結局、南原の言い分はある意味正しくて、そして藤堂は、追い詰められたぎりぎりの状況で、南原を信じたのだ。
「まぁ、どたばたではあったが、及第点をあげてもいいんじゃないかな、今回は」
 それも春日君が決めることだがねぇ。
 最後に楽しそうに言って、那賀は部屋を出て行った。
 
 *************************
             
「的場さん」
 役所に戻ったのは、定時をとうに過ぎている時刻だった。
 半分照明が落ちた都市計画局のフロア。
 自席につくと、とうに帰ったと思った乃々子が給湯室から出てきたので、果歩は普通に驚いていた。
「乃々子ちゃん、今日はお疲れ様」
「的場さんこそ……大変でした」
 表情が暗い、そして、奇妙なほど静かな声。
 何かあったのかな、と果歩は、乃々子の表情を窺いみる。
 今日のアクシデントで、急きょ受付を一人でやることになった乃々子は、確かな自信と信頼を得て、昼過ぎには役所に戻ったはずだった。
 なのに何故、こんな浮かない目をしているのだろう。
 まだ、帰り支度さえしていない乃々子は、昼と同じ、シックなスーツ姿である。
「藤堂さん、今夜は会場のホテルに泊まるって、本当ですか」
「うん、明日の視察の見送りだけして、昼前には戻ってくるわよ」
「……………」
 やはり、どこか沈んだ感じの反応に、果歩は首をかしげながら、手荷物をまとめた。
「なんだか今日は疲れちゃった。もう帰るなら、どこかでご飯でも食べて帰らない?」
「須藤さんが」
「はい?」
 流奈?
 いきなり出てきた意外な言葉。
 果歩が眉を上げると、乃々子は立ったまま、わずかに目だけをそっと伏せた。
「本気かどうか知らないですけど、………今夜、ホテルに泊まりに行くって」
「…………」
「……藤堂さんの部屋に泊まるって、そう私に言うんです」
 ホテルに、泊まる……?
 果歩は唖然として、しばらく開けた口を閉じることさえ忘れていた。
「ホテルって、今日会議やったホテルのこと?」
 はい、と乃々子は頷く。
 藤堂だけでなく、各都市の担当者が泊まっているホテルに。
 流奈が?
 それはちょっと、まずいというか、有り得ない。
「明日は疲れるからお休みするって、私に言うんですけど」
「……………」
「どういう意味なんでしょうか、それ」
 いや、どういう意味って言われても。
 挑発の対象が、どうやら果歩から乃々子に変わったということだけは確かである。
 それにしても――なんて性質の悪い冗談だろう。
 乃々子は、沈んだ表情のまま、眉根を寄せた。
「止めなくていいんですか。藤堂さんの立場が悪くなるんじゃないかって、私、それが心配で」
「大丈夫よ、そんなの、須藤さんだってよく分かってることだから」
 果歩は笑って、ぼん、と乃々子の肩を叩いてやる。
 が、内心では、その実かなり動揺していた。
(――私の本気は怖いですよ)
 あの夜の、流奈の捨てセリフが胸によぎる。
 今夜、ホテルに宿泊して他都市対応にあたるのは藤堂一人だ。
 本省をつれての二次会までは、春日も那賀も同行するだろう。が、その後は本当に一人になる。
 流奈がもし、口実をつけて藤堂の部屋に上がりこんだとしたら、あの優柔不断な人は、ちゃんと断れるのだろうか。
 なんだかもう、今すぐタクシーを拾ってホテルに引き返したい衝動に駆られる。
「………でも、これで私も、わかったことがあって」
 乃々子は、少しうつむいたままで続けた。
「ああいう言い方するってことは、須藤さんと藤堂さん、本当につきあってるわけじゃないんですね」
 果歩は何も言えずに、机の上の書類を片付けるふりをした。
 そう確信を持って言い切っていいかどうか、実の所、微妙な気持ちだ。
「それで、私………」
「え?」
 沈黙。
 薄闇の中、乃々子の大きな目が、じっと果歩を見つめている。
「私、思い切って、藤堂さんに告白することにしました」
 果歩は何も言えずに、ただその目を見つめ返した。
 仲のいい後輩の目、というより、対等な女同士を見るような目を。
 告白。
 果歩は、唇の中で、その言葉を反復する。
 果歩がしてもいないし、されてもいないもの。
「映画を口実に、誘ってみようと思うんです。前、藤堂さんが興味あるって言ってた映画があって」
 乃々子はそう言って、両の頬を手で押さえた。
「……断られたらどうしようって、すごく怖いし、恥ずかしいんですけど」
 顔を紅潮させた乃々子は、まるで高校生のように可愛らしく見えた。
「的場さん、勝負服一緒に選んでくださいね、お願いしますっ」
「…………」
 その信頼を、
「……的場さん?」
「え、あ、うん」
 どうして自分の口から裏切ることができるだろう。
 最初に言えなかったのが、結局、今でも尾を引いているのかもしれない。
 本当の気持ちを隠したまま、乃々子を漠然と応援してしまった。多分、その時は、どこかで楽観していたのだろう。
 乃々子が、こんなに真剣で――そして、こんなに綺麗なるとは、思ってもみなかったから。
「……映画って、君と過ごした夏の日々?」
 妹にもらったチケット。それをどういう形であっても、もう藤堂と使うことはないな、と思いながら果歩は言った。
 藤堂が、乃々子の誘いを受けるにしろ、断るにしろ、果歩からその映画に藤堂を誘うことは、もうできないだろう。
「はい、調べてみたら、レイトショーがあったんです、これなら、平日の夜でも行けますから」
「……そっか」
 偶然ね。
 果歩は、どこか乾いた声で言って、咳払いしてから、バックの中の封筒を取り出した。
「妹からもらったの、その映画のレイトショー2枚。使い道ないから、どうしようかって思ってた」
「………え」
 何故か呆けたような目で、乃々子は顔をあげて果歩を見た。
「これ使って。どうせ行く暇ないし、興味もないし、捨てるところだったから」
 私は――卑怯です、藤堂さん。
 心の中で、果歩は藤堂にそう言っていた。
 私が言えないことを、藤堂さんに言ってほしいと思ってる。
 私じゃなくて、藤堂さんに、乃々子を裏切ってほしいと思ってる。
 私は、そんな卑怯で、最低の女なんです………。
 
 *************************
  
『オッケーでした!』
 殆ど泣き声に近い電話が、果歩の携帯にかかってきたのは、翌日の夜だった。
 乃々子から。
 帰宅途中、果歩が、バス停でバスを待っている時だった。
『もう、私、夢みたい、嬉しくて……』
「……いつ、行くの」
 携帯の向こうで泣き出した乃々子に、果歩が聞けたのはそれだけだった。
 今日の夕方、視察の同行から戻った藤堂は、その足で財政局とのヒアリングに行ってしまった。
 果歩が執務室を出たのが8時だったから、多分、入れ違いで戻ってきたのだろう。
 乃々子は、藤堂が戻るまで、ずっと待っていたに違いない。
『明日の夜です。夕方、待ち……して……なんですけど』
 明日……。
 果歩は明日が夏休みで、今日の夜から、家族で田舎に墓参りに行くことになっている。
 ほとんど何も考えられなくなった頭で、救いといえば、救いかな、と果歩はぼんやり思っていた。明日なら、嫌な現場を見なくてすむし、藤堂の言い訳も聞かなくてすむ。
 そもそも、言い訳されるかどうかも判らないけど。
『……し、もう……夢みた……で、うれしくて、信じら……くて』
 泣き声まじりの声は、ところどころ途切れて、上手く聞き取れない。
 それは、果歩自身も、かなり動揺しているからなのかもしれない。
『それから、……ットのことなんですけど』
 電波の通りがよくなったのか、ふいに、乃々子の声が鮮明になった。
『チケットのこと、藤堂さんに話しちゃったんです、……よかったですか』
「え?」
 チケット――話す?
 嫌な予感がして、果歩は、固まったまま携帯を握り締める。
『チケットは、的場さんに頂いたものなんですって。ちゃんとお礼が言いたいタイプだと思うから、藤堂さんも』
「……………」
『的場さん?』
「あ、ううん」
 ――これ、罰かな。
 そう思いながら、果歩は、適当に言いつくろって電話を切った。
 多分、罰だろう。
 自分だけ傷つかずに、藤堂と乃々子を傷つけようとした報いかもしれない。
 藤堂はどう思ったろう。
 どうして、忙しいはずのあの人が、乃々子の誘いを受けたんだろう。
 考えると、怖くて、そして涙が出そうになる。
 それでなくても、今日1日、夏休みを取った流奈のことを考えて、気が気ではなかったのに。
 ――私……そんなことさえ、彼に確かめることができないんだ。
 やっぱり、他人のままなんだ、私と……藤堂さん。
 果歩は、携帯をポケットに滑らせ、そのまま、天に向かって嘆息した。

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