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年下の上司 story5〜 August

恋と友情の板挟み(8)

 
 月曜日。
「おはようございます」
 いっそのこと休みたい気持ちの現われだったのか、寝坊した果歩は、慌てて執務室に滑り込んだ。
 時間がなくて、メイクも髪もひどい有様だ。半端につけたマスカラを、トイレでもう一度直したい。
 執務室では、相変わらず南原が一人、ふんぞりかえって新聞を読んでいる。
 いつも朝早い藤堂は、まだ来ていないようだった。
 急いで朝の支度をしようと思った果歩は、カウンターに、濡れ布巾で拭った跡が残っているのに気がついた。
「………?」
 見れば、キャビネットの上に、お茶の準備もできている。
 ――あれ、じゃあ、藤堂さん、来てるのかな?
 そう思って、首をかしげた時だった。
「的場さん」
 今、一番聞きたくない明るい声が、背中からかけられる。
 振り返らなくても、声だけで分かる。
「……あ、おはよう」
「おはようございます」
 満面の笑顔を浮かべている乃々子は、若草色のニットにホワイトベージュのスカート姿。
「どうですか、これ、昨日お直しができて、取りに行ったんです」
 果歩が一緒に買いにいった夏物の服だ。
 乃々子の、長身でスレンダー体型に、それは見事なほど似合っている。
 まるで、今朝咲いたばかりの花のように。
「すごく、似合ってる」
「本当ですか? うれしい」
 その明るさも、いきなり殻を破ったような美しさも、今の乃々子の、精神の何かが充実している証だろう。
 藤堂と2人で、映画に行ったのが、多分金曜。
 そして、週明けの今日、こんなにも明るくはしゃいでいる乃々子がいる。
 残酷な想像が、また果歩の胸を重く締め付ける。
「金曜は、お休みだったんですね」
「うん、ちょっと早いけど墓参りで」
 もう、この話はしたくない。
 婉曲な拒絶の意味もこめて、果歩は慌しく、椅子の上のバックを持ち上げた。
 が、乃々子は、楽しげな笑顔のまま、そんな果歩の傍に歩み寄る。
「……今、お時間、いいですか」
「え?」
 今?
 驚いて乃々子を振り返った果歩は、女の目が、もう笑っていないのに気がついた。
「少し、的場さんに話があって」
 口元は笑っている、が、果歩を見つめる目は、むしろ寂しそうでもある。
「すぐ終わるんで、ちょっと……いいですか」
「……………」
 金曜のことだろうか。
 それとも、もっと別の何か。
 果歩の心臓が、嫌な風に高鳴り始める。
 もしかして藤堂が、金曜に何かを話したのかもしれない。
 微妙な嘘をついていたことが、ばれたのかもしれない。
 ――どうしよう……。
 それが、幸せな結末でも、その逆であっても、本音を言えば、もう関わりあいになりたくない。
「じゃ、下の休憩室、いいですか」
 が、乃々子は、にっこりと笑って歩き出す。
「…………」
 どうしよう。
 でも、
 ――………自分の口から、言うべきなのかもしれないな。
 わずかにうつむいた果歩は、ようやく、気持ちを切り替えて歩き出した。
 乃々子が話すチャンスをくれたのなら、ずっと嘘をついていたことを、謝らなければならないのかもしれない――。
 
 *************************
  
「ふられました」
 開口一番、乃々子はあっさりとそう言った。
 人気のない、朝の休憩コーナー。
 パーティション一枚隔てたホールからは、エレベーターからぞくぞく人が降りてくる気配がする。
 息をつめて、乃々子の言葉を待っていた果歩は、逆に、どう言っていいのか分からなくなっていた。
 ふられた。
 じゃ、ふったんだ、あの優柔不断な藤堂さんが。
 なんだか、想像できないというか、信じられない。
 ややうつむき加減で、両手を腰のあたりで合わせている乃々子は、そのままわずかに微笑した。
「一緒にお食事して、映画観て、それから少し歩きました。すっごく楽しかったし、すっごく幸せだった」
「…………」
「私……恋をして、よかった」
「…………」
「女の子に生まれてよかったです!」
 乃々子……。
 少しだけ両目を潤ませて笑う乃々子が、果歩には眩しいくらいに輝いて見えた。
 綺麗だな。
 今、本当の意味で、この子は綺麗な女性になった。
「私……」
 果歩は、言い差してうつむいた。
 ――なのに……。
「私、乃々子に」
 なのに、それに比べて、私は。
 年上ぶって、えらそうにして、なのに。
「乃々子、私ね」
「藤堂さん、好きな人がいるみたいです。はっきり誰とは言いませんでしたけど」
 乃々子が、果歩を遮るように話を続ける。
「おつきあいしてるって言ってました、その人と」
「………………」
「それ、須藤さんのことじゃないですよね」
 まっすぐな目が果歩を見据えている。
 会議が終わったあの夜と同じ。
 後輩というより、女同士を対等に見るような、食い入るような強い眼差し。
 ――分かった。
 果歩は、ようやく、目が覚めるような思いで理解した。
 乃々子は、知っていたんだ、あの夜から、もう。
 果歩が黙っていると、乃々子はその目をふいに柔和に緩ませた。
「……てゆっか、謝るのは私ですよね。知ってて、的場さんの好意を利用しちゃいましたから」
 あっさりと笑い、乃々子は、両腕を後ろで組む。
「的場さんって、本当にお人よしなんですね。それだけは、須藤さんの言うとおりだったな」
 流奈。――
 やっぱり、そうか。
「……須藤さんが、何か言ったの?」
「まぁ、色々、最初は信じられなかったけど」
 この場合、流奈の余計な口出しに、感謝すべきなのだろうか。
 果歩は黙ったまま、足元を見つめる。
「そんな顔しないでくださいよ、私、結構平気なんですから」
 乃々子は明るい声で言って、まるでスキップでも踏むような足取りで歩き出した。
「解けない魔法を、的場さんにかけてもらったんです。私」
「……………」
「もっと綺麗になって輝きます。そして、絶対に藤堂さんを振り向かせますから、安心なんてしないでくださいね!」
 そのまま乃々子が笑うから、果歩も自然に笑っていた。
 流奈の言い草じゃないけど、確かに馬鹿かもしれない。私。
 だって今、最大のライバルが目の前で笑っている。
 そして、思う。
 魔法なんて、もうとっくに解けてるのよ、乃々子。
 今の光は、魔法じゃなくて、あなた自身が放っているものだから――。
 
 *************************
  
「今、帰りですか」
 人気のない閉庁後のロビー。
 一階でエレベーターを降りた果歩は、目の前に立つ人を見て、少し驚いて瞬きを繰り返した。
 今、帰りですかも何も、その人とは、つい先ほど執務室で「お先に失礼します」「お疲れ様でした」と挨拶を交わしたばかりである。
「……あの」
「……はい」
 なんだろう。
 多分、階段で降りてきたのだろう。
 所在無く立つ藤堂は、どう見ても帰宅する風ではない。
「いや、夜食を買いに、外に出るので」
「あ、そうですか」
 と、なんとなく他人行儀の会話を交わし、後は、暗黙の了解で肩を並べて戸外に出た。
 風が涼しい。
 夏の盛りはまだ続いているが、夕方はそれでも、幾分かは涼しくなっている。
 季節の流れの早さに、果歩は少しだけ寂しくなる。
 夏が終われば秋だ。そして冬、この一年が終われば、果歩は多分本庁舎を去る。
「すみません。今のは、わざとらしかったですね」
 人通りを離れた途端、藤堂が咳払いをして、そう言った。
「どうも、こう、執務室だと話しかけるタイミングが」
「……いえ、そんな」
 淡い夕暮れの中、一緒に歩く果歩は、ただ戸惑って視線を下げた。
 わざとらしいのはよく分かったが、それは何か話があるからなのだろうし、今の果歩にはそれが怖い。
 藤堂は、再び黙る。
 夜食を買いに出たはずなのに、コンビニは2軒も素通りしている。
 ――何の、話があるのかな……。
 もしかしなくても、それ、乃々子のことなのかな。
「……会議、お疲れ様でした」
 とりあえず、藤堂が何も言わないので、果歩は、自分から口を開いた。
「いえ、的場さんこそ、お疲れでした」
 なんだかほっとした風に、藤堂の横顔がそれに答える。
 なんなの?
 と、果歩は少し分からなくなる。自分から誘っておいて、会話の糸口を私に任せるってどうなんだろう。
「資料差し替えのトラブル処理、お見事でした。以前お聞きした訓練って、そういうことですか」
「いや、会議のことは、訓練も何も、もうやけくそみたいなもので」
 驚いたように藤堂は片手を振る。
「思いつきで決めたものの、ホテルに機材がなければアウトでした。まぁ、その時は、腹を括って開き直ろうと思っていたんですが」
「はぁ……」
 え、なんだか、結構、場当たり的……みたいな?
「前の会社では、どうやって対処されたんですか?」
 果歩は、以前から気になっていたことを聞いてみた。
 あのやり方は役所にはできないと、そう言い切った藤堂が、民間時代、どうやって大量のコピーを一度に焼いたのか。
「その時も、正直言えば、もう、自棄で」
「……はぁ」
 なんだかこう、意外ではある。何も考えてないようで、実はかなり考えている――ように見えて、本当に結構大雑把な人?
「大学時代の友人が、リース会社を興していたので、そのつてで、コピー機を5台、急きょ会場に搬入してもらったんです」
「えっ、コピー機を、ですか」
「一番近い業者からトラックで搬入させ、1階のロビーを封鎖して、それで一気に焼きました」
「……………」
 確かにそれは、ちょっと、役所では有り得ない。
「運送料とリース料、まぁ、……予算に融通が利かない公務員にはできない手法です」
「議会でつるし上げくらっちゃいますよ」
「そうですね」
 藤堂がようやく笑う。
 果歩も、自然に笑っていた。
 ――これって、なんかデートみたいだな。
 隣を歩く藤堂の動機が不安ではあるれど、もう少し――このまま、2人で歩いていたい。
 そのまましばらく黙っていた藤堂が、何度か、少しわざとらしい咳払いを繰り返した。
「的場さん」
「はい」
 少し緊張して果歩は頷く。
「今回は、ご心配を……」
「え?」
 乃々子の話だと覚悟を決めた果歩は、藤堂の切り口に逆に戸惑う。
「いや、なんていうか」
「…………?」
 藤堂は、妙に困惑した目のまま、視線をそらした。
「心配をかけてしまったのなら、すみませんでした」
「……………」
「かけていないのなら、今の言葉は忘れてください」
「……………」
 しばらくその横顔を見あげていた果歩は、自分の肩から、ゆっくりと力が抜けていくのを感じていた。
 そんな――
 そんなことを、言うために。
 役所を出てから、かれこれどれだけ歩いたろう。すでにオフィス街を遠く離れ、賑やいだ商店街が、2人の前には広がっている。
 そんな藤堂の不器用さが、今、本当に愛しくなる。
「ええ、かなり、心配させていただきました」
「す、すみません」
「でも、私も悪かったですから」
 謝らなくてはいけないのは、藤堂にではなく、乃々子にだろうけど。
 その……、と藤堂は再び頭に手をあてた。
「言い訳ではないんですが」
「言い訳でもいいです、怒らずに聞きますから」
 笑いながら言うと、ますます藤堂は、弱ったように視線を下げる。
「百瀬さんのことは、住宅計画の課長から、じきじきに頼まれたことなんです」
「え?」
「年も近いし、大学も同じだから、少し話して……なんていうのかな」
 言いにくそうに、藤堂。
「彼女の殻を破る手助け、みたいなものでしょうか。まぁ、僕にそんな真似ができるかどうか、非常に疑問だったのですが」
「……はぁ」
 いや、もう完璧でした。
 と、いっそ嫌味でも言いたいが、そこはぐっと我慢する。
「住計の課長は、自分の娘みたいに百瀬さんが可愛いみたいで」
「……そうですね」
 その感覚は、なんとなく頷ける。
 同性の目から見ても、乃々子は、本当に可愛らしい女の子だから。
 が、住計課長の動機には、果歩からすれば、ちょっとした仲人感覚も透けてみえる。それは、生真面目な藤堂にはわからなかったのかもしれないが。
「的場さんは今年で異動でしょう。おそらくですが」
 藤堂の声が、一瞬風で流れて聞こえた。
「百瀬さんは、もしかすると、的場さんの後に総務に呼ばれるかもしれません。少なくとも、住計課長は、そのつもりで来年の人事希望を出すようでした」
「…………」
 そうなんだ。
 そっか、そういう意図もあって――今回、乃々子は、総務の手伝いに呼ばれていたんだ。
 乃々子なら、大丈夫。
 そんな安心と共に、7年も過ごした場所を他の誰かに取って代わられるという、理不尽な寂しさも感じている。
 果歩は何も言えないまま、黙って自分の足元を見た。
「百瀬さんは、引っ込み思案というか、……ご自分に自信がないのかな、それが惜しいと言うお話で」
 藤堂は、ようやく落ち着きを取り戻した目で果歩を見下ろした。
「課長は、むしろ的場さんに、百瀬さんの指導を任せたかったようです。僕もいい話だと思いました」
 ――私に……。
「年が近い同性と仕事をするのは、時に、いいプレッシャーになりますから」
 果歩はあらためて、この数日の、楽しかった出来事を思い出していた。
 もう何年も、果歩は女性一人だけの職場で、ずっと同じ仕事をし続けてきた。
 慣れっこになっていたから、なんとも思わなかったが、人に頼られ、そして教えるというのは、確かにいい経験であり、プレッシャーだ。
 今回、乃々子と一緒に仕事をして、それが初めて分かったような気がする。
「乃々子なら、私の後でも大丈夫だと思います」
 果歩が力強く言うと、藤堂も頷いて微笑した。
「うん、的場さんの影響かな。中身もそうですが、外見もすごく綺麗になりましたね、彼女は」
 ん?
「……………それ、本当に私の影響でしょうか」
 あまりに藤堂が悪びれないので、果歩は、多少の嫌味をこめて言ってみた。
 そんな甘いセリフ、さらっと、私に言うこの人の神経が信じられない――と、思いつつ。
「え? いえ、それは」
 藤堂は、さすがにその嫌味の意図に気づいたのか、再び、困惑して、口ごもる。
「あの、……的場さん」
「何か」
 少し冷たく答えていた。
 藤堂が詰まって、言葉をなくしている。
 ちょっと意地悪かな、と思ったけど、あえてフォローはやめておいた。
 この人は、きっと、天性の女たらしに違いない。
 それをもう、果歩は内心確信している。多少は反省すべきだ、絶対に。
「……今度、映画に」
「…………?」
「行きませんか」
 え?
 え?
 どうして急に、この展開?
 さすがにポーカーフェイスは保てずに、果歩は驚いて藤堂を見あげた。
「あのチケットは、……百瀬さんの勘違いじゃなかったら、ですが」
「あ、」
 映画のペアチケット。
 今度戸惑ってうつむいたのは、藤堂ではなく、果歩の方だった。
 嘘、じゃあ、乃々子が、何か言ったんだろうか。
 藤堂は、やはり果歩同様に気まずいのか、ごほん、と、わずかに咳払いをする。
「僕は、あの映画が、そんなに女性に人気だとは知らなくて」
 ん?
 いや、映画なんて内容はなんでもいいというか、どうでもよくて。
「的場さんがそんなに行きたいとは……びっくりしました」
 ――え?
 ていうより、藤堂さん的には、そこにこだわってる? もしかして。
 そういう意味の誘いなら――果歩は少し、ふくれてみる。
「だって、もう、観られたんでしょ?」
「まぁ……正直に言うと、そんなに興味があったわけでもないんですが」
「だったら、いいじゃないですか」
「まぁ、そうなんですが」
 多分果歩の態度に、ますます困惑して、黙る藤堂。
「……………」
「……………」
「困ったな」
 と、本当に口に出して困っている。
 果歩は思わず吹き出していた。
 まぁ――そろそろ、許してやるか。今回、悪いのはお互い様だし。
「じゃ、別の映画にしましょうか」
 ふと思いついて、果歩は言った。
「え?」
 これも、いわゆる一つのおしおき。
 そう思いながら、果歩は笑う。
「実は、もう1組チケットがあるんです、すごく面白そうな映画なんですけど」

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