月曜日。 「おはようございます」 いっそのこと休みたい気持ちの現われだったのか、寝坊した果歩は、慌てて執務室に滑り込んだ。 時間がなくて、メイクも髪もひどい有様だ。半端につけたマスカラを、トイレでもう一度直したい。 執務室では、相変わらず南原が一人、ふんぞりかえって新聞を読んでいる。 いつも朝早い藤堂は、まだ来ていないようだった。 急いで朝の支度をしようと思った果歩は、カウンターに、濡れ布巾で拭った跡が残っているのに気がついた。 「………?」 見れば、キャビネットの上に、お茶の準備もできている。 ――あれ、じゃあ、藤堂さん、来てるのかな? そう思って、首をかしげた時だった。 「的場さん」 今、一番聞きたくない明るい声が、背中からかけられる。 振り返らなくても、声だけで分かる。 「……あ、おはよう」 「おはようございます」 満面の笑顔を浮かべている乃々子は、若草色のニットにホワイトベージュのスカート姿。 「どうですか、これ、昨日お直しができて、取りに行ったんです」 果歩が一緒に買いにいった夏物の服だ。 乃々子の、長身でスレンダー体型に、それは見事なほど似合っている。 まるで、今朝咲いたばかりの花のように。 「すごく、似合ってる」 「本当ですか? うれしい」 その明るさも、いきなり殻を破ったような美しさも、今の乃々子の、精神の何かが充実している証だろう。 藤堂と2人で、映画に行ったのが、多分金曜。 そして、週明けの今日、こんなにも明るくはしゃいでいる乃々子がいる。 残酷な想像が、また果歩の胸を重く締め付ける。 「金曜は、お休みだったんですね」 「うん、ちょっと早いけど墓参りで」 もう、この話はしたくない。 婉曲な拒絶の意味もこめて、果歩は慌しく、椅子の上のバックを持ち上げた。 が、乃々子は、楽しげな笑顔のまま、そんな果歩の傍に歩み寄る。 「……今、お時間、いいですか」 「え?」 今? 驚いて乃々子を振り返った果歩は、女の目が、もう笑っていないのに気がついた。 「少し、的場さんに話があって」 口元は笑っている、が、果歩を見つめる目は、むしろ寂しそうでもある。 「すぐ終わるんで、ちょっと……いいですか」 「……………」 金曜のことだろうか。 それとも、もっと別の何か。 果歩の心臓が、嫌な風に高鳴り始める。 もしかして藤堂が、金曜に何かを話したのかもしれない。 微妙な嘘をついていたことが、ばれたのかもしれない。 ――どうしよう……。 それが、幸せな結末でも、その逆であっても、本音を言えば、もう関わりあいになりたくない。 「じゃ、下の休憩室、いいですか」 が、乃々子は、にっこりと笑って歩き出す。 「…………」 どうしよう。 でも、 ――………自分の口から、言うべきなのかもしれないな。 わずかにうつむいた果歩は、ようやく、気持ちを切り替えて歩き出した。 乃々子が話すチャンスをくれたのなら、ずっと嘘をついていたことを、謝らなければならないのかもしれない――。 ************************* 「ふられました」 開口一番、乃々子はあっさりとそう言った。 人気のない、朝の休憩コーナー。 パーティション一枚隔てたホールからは、エレベーターからぞくぞく人が降りてくる気配がする。 息をつめて、乃々子の言葉を待っていた果歩は、逆に、どう言っていいのか分からなくなっていた。 ふられた。 じゃ、ふったんだ、あの優柔不断な藤堂さんが。 なんだか、想像できないというか、信じられない。 ややうつむき加減で、両手を腰のあたりで合わせている乃々子は、そのままわずかに微笑した。 「一緒にお食事して、映画観て、それから少し歩きました。すっごく楽しかったし、すっごく幸せだった」 「…………」 「私……恋をして、よかった」 「…………」 「女の子に生まれてよかったです!」 乃々子……。 少しだけ両目を潤ませて笑う乃々子が、果歩には眩しいくらいに輝いて見えた。 綺麗だな。 今、本当の意味で、この子は綺麗な女性になった。 「私……」 果歩は、言い差してうつむいた。 ――なのに……。 「私、乃々子に」 なのに、それに比べて、私は。 年上ぶって、えらそうにして、なのに。 「乃々子、私ね」 「藤堂さん、好きな人がいるみたいです。はっきり誰とは言いませんでしたけど」 乃々子が、果歩を遮るように話を続ける。 「おつきあいしてるって言ってました、その人と」 「………………」 「それ、須藤さんのことじゃないですよね」 まっすぐな目が果歩を見据えている。 会議が終わったあの夜と同じ。 後輩というより、女同士を対等に見るような、食い入るような強い眼差し。 ――分かった。 果歩は、ようやく、目が覚めるような思いで理解した。 乃々子は、知っていたんだ、あの夜から、もう。 果歩が黙っていると、乃々子はその目をふいに柔和に緩ませた。 「……てゆっか、謝るのは私ですよね。知ってて、的場さんの好意を利用しちゃいましたから」 あっさりと笑い、乃々子は、両腕を後ろで組む。 「的場さんって、本当にお人よしなんですね。それだけは、須藤さんの言うとおりだったな」 流奈。―― やっぱり、そうか。 「……須藤さんが、何か言ったの?」 「まぁ、色々、最初は信じられなかったけど」 この場合、流奈の余計な口出しに、感謝すべきなのだろうか。 果歩は黙ったまま、足元を見つめる。 「そんな顔しないでくださいよ、私、結構平気なんですから」 乃々子は明るい声で言って、まるでスキップでも踏むような足取りで歩き出した。 「解けない魔法を、的場さんにかけてもらったんです。私」 「……………」 「もっと綺麗になって輝きます。そして、絶対に藤堂さんを振り向かせますから、安心なんてしないでくださいね!」 そのまま乃々子が笑うから、果歩も自然に笑っていた。 流奈の言い草じゃないけど、確かに馬鹿かもしれない。私。 だって今、最大のライバルが目の前で笑っている。 そして、思う。 魔法なんて、もうとっくに解けてるのよ、乃々子。 今の光は、魔法じゃなくて、あなた自身が放っているものだから――。 ************************* 「今、帰りですか」 人気のない閉庁後のロビー。 一階でエレベーターを降りた果歩は、目の前に立つ人を見て、少し驚いて瞬きを繰り返した。 今、帰りですかも何も、その人とは、つい先ほど執務室で「お先に失礼します」「お疲れ様でした」と挨拶を交わしたばかりである。 「……あの」 「……はい」 なんだろう。 多分、階段で降りてきたのだろう。 所在無く立つ藤堂は、どう見ても帰宅する風ではない。 「いや、夜食を買いに、外に出るので」 「あ、そうですか」 と、なんとなく他人行儀の会話を交わし、後は、暗黙の了解で肩を並べて戸外に出た。 風が涼しい。 夏の盛りはまだ続いているが、夕方はそれでも、幾分かは涼しくなっている。 季節の流れの早さに、果歩は少しだけ寂しくなる。 夏が終われば秋だ。そして冬、この一年が終われば、果歩は多分本庁舎を去る。 「すみません。今のは、わざとらしかったですね」 人通りを離れた途端、藤堂が咳払いをして、そう言った。 「どうも、こう、執務室だと話しかけるタイミングが」 「……いえ、そんな」 淡い夕暮れの中、一緒に歩く果歩は、ただ戸惑って視線を下げた。 わざとらしいのはよく分かったが、それは何か話があるからなのだろうし、今の果歩にはそれが怖い。 藤堂は、再び黙る。 夜食を買いに出たはずなのに、コンビニは2軒も素通りしている。 ――何の、話があるのかな……。 もしかしなくても、それ、乃々子のことなのかな。 「……会議、お疲れ様でした」 とりあえず、藤堂が何も言わないので、果歩は、自分から口を開いた。 「いえ、的場さんこそ、お疲れでした」 なんだかほっとした風に、藤堂の横顔がそれに答える。 なんなの? と、果歩は少し分からなくなる。自分から誘っておいて、会話の糸口を私に任せるってどうなんだろう。 「資料差し替えのトラブル処理、お見事でした。以前お聞きした訓練って、そういうことですか」 「いや、会議のことは、訓練も何も、もうやけくそみたいなもので」 驚いたように藤堂は片手を振る。 「思いつきで決めたものの、ホテルに機材がなければアウトでした。まぁ、その時は、腹を括って開き直ろうと思っていたんですが」 「はぁ……」 え、なんだか、結構、場当たり的……みたいな? 「前の会社では、どうやって対処されたんですか?」 果歩は、以前から気になっていたことを聞いてみた。 あのやり方は役所にはできないと、そう言い切った藤堂が、民間時代、どうやって大量のコピーを一度に焼いたのか。 「その時も、正直言えば、もう、自棄で」 「……はぁ」 なんだかこう、意外ではある。何も考えてないようで、実はかなり考えている――ように見えて、本当に結構大雑把な人? 「大学時代の友人が、リース会社を興していたので、そのつてで、コピー機を5台、急きょ会場に搬入してもらったんです」 「えっ、コピー機を、ですか」 「一番近い業者からトラックで搬入させ、1階のロビーを封鎖して、それで一気に焼きました」 「……………」 確かにそれは、ちょっと、役所では有り得ない。 「運送料とリース料、まぁ、……予算に融通が利かない公務員にはできない手法です」 「議会でつるし上げくらっちゃいますよ」 「そうですね」 藤堂がようやく笑う。 果歩も、自然に笑っていた。 ――これって、なんかデートみたいだな。 隣を歩く藤堂の動機が不安ではあるれど、もう少し――このまま、2人で歩いていたい。 そのまましばらく黙っていた藤堂が、何度か、少しわざとらしい咳払いを繰り返した。 「的場さん」 「はい」 少し緊張して果歩は頷く。 「今回は、ご心配を……」 「え?」 乃々子の話だと覚悟を決めた果歩は、藤堂の切り口に逆に戸惑う。 「いや、なんていうか」 「…………?」 藤堂は、妙に困惑した目のまま、視線をそらした。 「心配をかけてしまったのなら、すみませんでした」 「……………」 「かけていないのなら、今の言葉は忘れてください」 「……………」 しばらくその横顔を見あげていた果歩は、自分の肩から、ゆっくりと力が抜けていくのを感じていた。 そんな―― そんなことを、言うために。 役所を出てから、かれこれどれだけ歩いたろう。すでにオフィス街を遠く離れ、賑やいだ商店街が、2人の前には広がっている。 そんな藤堂の不器用さが、今、本当に愛しくなる。 「ええ、かなり、心配させていただきました」 「す、すみません」 「でも、私も悪かったですから」 謝らなくてはいけないのは、藤堂にではなく、乃々子にだろうけど。 その……、と藤堂は再び頭に手をあてた。 「言い訳ではないんですが」 「言い訳でもいいです、怒らずに聞きますから」 笑いながら言うと、ますます藤堂は、弱ったように視線を下げる。 「百瀬さんのことは、住宅計画の課長から、じきじきに頼まれたことなんです」 「え?」 「年も近いし、大学も同じだから、少し話して……なんていうのかな」 言いにくそうに、藤堂。 「彼女の殻を破る手助け、みたいなものでしょうか。まぁ、僕にそんな真似ができるかどうか、非常に疑問だったのですが」 「……はぁ」 いや、もう完璧でした。 と、いっそ嫌味でも言いたいが、そこはぐっと我慢する。 「住計の課長は、自分の娘みたいに百瀬さんが可愛いみたいで」 「……そうですね」 その感覚は、なんとなく頷ける。 同性の目から見ても、乃々子は、本当に可愛らしい女の子だから。 が、住計課長の動機には、果歩からすれば、ちょっとした仲人感覚も透けてみえる。それは、生真面目な藤堂にはわからなかったのかもしれないが。 「的場さんは今年で異動でしょう。おそらくですが」 藤堂の声が、一瞬風で流れて聞こえた。 「百瀬さんは、もしかすると、的場さんの後に総務に呼ばれるかもしれません。少なくとも、住計課長は、そのつもりで来年の人事希望を出すようでした」 「…………」 そうなんだ。 そっか、そういう意図もあって――今回、乃々子は、総務の手伝いに呼ばれていたんだ。 乃々子なら、大丈夫。 そんな安心と共に、7年も過ごした場所を他の誰かに取って代わられるという、理不尽な寂しさも感じている。 果歩は何も言えないまま、黙って自分の足元を見た。 「百瀬さんは、引っ込み思案というか、……ご自分に自信がないのかな、それが惜しいと言うお話で」 藤堂は、ようやく落ち着きを取り戻した目で果歩を見下ろした。 「課長は、むしろ的場さんに、百瀬さんの指導を任せたかったようです。僕もいい話だと思いました」 ――私に……。 「年が近い同性と仕事をするのは、時に、いいプレッシャーになりますから」 果歩はあらためて、この数日の、楽しかった出来事を思い出していた。 もう何年も、果歩は女性一人だけの職場で、ずっと同じ仕事をし続けてきた。 慣れっこになっていたから、なんとも思わなかったが、人に頼られ、そして教えるというのは、確かにいい経験であり、プレッシャーだ。 今回、乃々子と一緒に仕事をして、それが初めて分かったような気がする。 「乃々子なら、私の後でも大丈夫だと思います」 果歩が力強く言うと、藤堂も頷いて微笑した。 「うん、的場さんの影響かな。中身もそうですが、外見もすごく綺麗になりましたね、彼女は」 ん? 「……………それ、本当に私の影響でしょうか」 あまりに藤堂が悪びれないので、果歩は、多少の嫌味をこめて言ってみた。 そんな甘いセリフ、さらっと、私に言うこの人の神経が信じられない――と、思いつつ。 「え? いえ、それは」 藤堂は、さすがにその嫌味の意図に気づいたのか、再び、困惑して、口ごもる。 「あの、……的場さん」 「何か」 少し冷たく答えていた。 藤堂が詰まって、言葉をなくしている。 ちょっと意地悪かな、と思ったけど、あえてフォローはやめておいた。 この人は、きっと、天性の女たらしに違いない。 それをもう、果歩は内心確信している。多少は反省すべきだ、絶対に。 「……今度、映画に」 「…………?」 「行きませんか」 え? え? どうして急に、この展開? さすがにポーカーフェイスは保てずに、果歩は驚いて藤堂を見あげた。 「あのチケットは、……百瀬さんの勘違いじゃなかったら、ですが」 「あ、」 映画のペアチケット。 今度戸惑ってうつむいたのは、藤堂ではなく、果歩の方だった。 嘘、じゃあ、乃々子が、何か言ったんだろうか。 藤堂は、やはり果歩同様に気まずいのか、ごほん、と、わずかに咳払いをする。 「僕は、あの映画が、そんなに女性に人気だとは知らなくて」 ん? いや、映画なんて内容はなんでもいいというか、どうでもよくて。 「的場さんがそんなに行きたいとは……びっくりしました」 ――え? ていうより、藤堂さん的には、そこにこだわってる? もしかして。 そういう意味の誘いなら――果歩は少し、ふくれてみる。 「だって、もう、観られたんでしょ?」 「まぁ……正直に言うと、そんなに興味があったわけでもないんですが」 「だったら、いいじゃないですか」 「まぁ、そうなんですが」 多分果歩の態度に、ますます困惑して、黙る藤堂。 「……………」 「……………」 「困ったな」 と、本当に口に出して困っている。 果歩は思わず吹き出していた。 まぁ――そろそろ、許してやるか。今回、悪いのはお互い様だし。 「じゃ、別の映画にしましょうか」 ふと思いついて、果歩は言った。 「え?」 これも、いわゆる一つのおしおき。 そう思いながら、果歩は笑う。 「実は、もう1組チケットがあるんです、すごく面白そうな映画なんですけど」 |
>>next >>contents |