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年下の上司 story6〜 September

男の闘い! 嵐を呼んだ臨時職員(5)


「どう責任を取るつもりだね」
 5時すぎの執務室。
 中津川が切り出したのは、チャイムが鳴った直後のことだった。
 明日は土曜日、役所の週休日である。
 ここ数日、ずっともの言いたげだった中津川が、いずれ藤堂に何か言ってくることは、果歩でさえ予感していたが、案の定中津川は、その細い目で、席につく藤堂をにらみつけた。
「はっきり言えば、宇佐美君がいるから、水原君はでてこないのじゃないかね」
 誰もが、この対決を予感していたのか、残った全員が静まり返って、中津川と藤堂を注視している。
 志摩課長は午後から年休。
 春日次長は出張中。
 宇佐美は午後から休みを取っている。
 中津川にとっては、今しかないというタイミングだったのだろう。
 答えない藤堂は、無表情の眼差しだけを中津川に向ける。
「どちらが、戦力に響くと思っているのかね。このまま若い才能が潰れていくのを、黙ってみているつもりかね、君は」
 藤堂の態度にますます苛立ったのか、中津川は嫌味な声でまくしたてた。
「なんとかいったらどうだ、バイトの管理は、庶務係の責任じゃないか!」
 まだ残っている全員が、しんとして、この応酬を見守っている。
「宇佐美君をやめさせろ、ということですか」
 椅子だけで、中津川に向き直り、はじめて静かな声で藤堂が答えた。
「では、何もしないで放っておくつもりかね」
「やめさせることが、解決ではないと思います」
「では、何もしないつもりなのかね!」
「様子を見てもいいと思います」
「なんの様子だ」
「水原君のです」
「話にならん!」
 椅子を蹴るようにして、中津川が立ち上がった。
「たいした言い草だな、民間君、じゃあ今まで君は、のんびり様子をみていたというわけか」
「……僕にも、そういう時期がありましたので」
「若者の、自分探しのなんとかというやつか」
 中津川は鼻で笑うような目になった。
「そんなものをな、悠長に受け止められるほど、役所というのはのんびりした組織じゃないんだ!」
 藤堂さん、
 果歩は、立ち上がる寸前だった。
 何を言っても、今の中津川には無駄だろう。
 せめて、形だけでも合わせればいい、中津川をたてる形で、藤堂が引けばいいのだ。
「わしが、水原君に会ってくる、バイトはクビだ、それでいいだろう!」
「補佐」
 藤堂が立ち上がる。
 ほとんど1メートル足らずの距離で向かい合う2人は、体格だけみると、まるで大人と子供だった。
「な、なんだね」
 頭2つ上の高みから見下ろされるのが不快なのか、中津川が咳払いして後退さる。
 藤堂も、軽く咳をして、中津川から一歩引いた。
「水原君のことは、僕の責任だと思います」
「……当たり前だ」
 そこを一番に主張したかったはずだろうが、逆に切り返された形になって、言葉尻が鈍くなる中津川。
「だったら、僕に任せてもらえませんか」
「任せる? 任せてどうする」
「折を見て、僕から彼に話をします」
 若造が、という目で、中津川は冷笑した。
「悪いが、君に水原君が説得できるとは思えないな。態度をみて察することができないのかね、彼は君を軽蔑しているぞ」
 みんなの前で、そこまで言わなくてもいいのに。
 果歩はかっとしたが、今、向かい合う2人に割ってはいることは出来なかった。
 それほど緊迫したムードが漂っている。
 水原の欠勤に端を発した言い争いだが、2人の遺恨は――というより、中津川の遺恨は、それよりもっと根深いところにあるからだ。
「今回のことだけじゃない」
 今日は、藤堂の後ろ盾でもある、春日次長もいない。
 那賀局長だけは、まだ局長室にいるが、おそらく声は聞こえても、むしろ静観しているだろう。
「君がきてから、総務の雰囲気は最悪だ。民間の感覚を役所に持ち込むのはおおいに結構だがね、少しは役所の習慣も、尊重したらどうなのかね」
「尊重しているつもりです」
「何がだね、どこがだね。君がきてから、秩序がそもそもおかしくなった。庶務には庶務の伝統があり、女性職員には女性の役割がある、それを君はてんでムシして、全員の負担を重くしているだけじゃないか!」
「的場さんのことなら、その言い方は筋違いです」
 藤堂の口から自分の名前が出たことで、果歩は緊張して身体を硬くした。
 しかも、珍しく、感情をむき出しにした口調。
 隣席で南原が、「あーあ」と、ため息まじりのぼやきを漏らすのが分かった。
「的場さんには、この職場での彼女の役割を、きちんとやってもらっていると思います」
「悪いがそう思っているのは、君だけだよ」
「そうでしょうか」
「そうじゃないか!」
 ばん、と中津川の拳が机を叩く。
 びりびりっと課内が震えるような声だった。
 よほど、怒りが溜まっていたのか、たるんだ右頬がびくびくと痙攣している。
 5時過ぎのこの騒ぎに、他課の職員も足をとめ、総務の中をうかがっているのが分かる。
「もう、」
 もういいです。
 果歩はそう言って、立ち上がるところだった。
 もういい。これ以上、藤堂が窮する姿を見たくない。
 それが、自分のことなら、なんだって我慢できるのに。
「では」
 しかし、藤堂は引かなかった。
 むしろ、固い信念を秘めた目で、じっと正面から中津川を見据えた。
「来週の月曜に、話し合いをしませんか」
「なんだと?」
「2人ではなく、課、全員でです」
「意味がわからんな」
「そこで、皆さんに、僕の提案を受け入れてもらえないと分かれば、僕は潔く身を引きます」
 果歩ははっとした。
 同時に、全員が、視線を藤堂に向けるのが分かった。
 中津川も、意味を解しかねるのか、いぶかしげに眉を上げている。
「どういう意味だね、身を引くとは」
「辞職するという意味です」
 あっさりとした口調だった。
「と、」
 果歩は、ほとんど立ち上がっていた。
 そんな、どうしてそこまで。
「水原君がいなければ、全員とは言えんがね」
 中津川の目に、小馬鹿にするような色が浮かぶ。
 無論、藤堂の言葉をまるで信じていないからだろう。
「もちろんです」
「では、水原君も含めて、ということかな」
「ええ」
「月曜ね、水原君がこなければどうする」
 笑いを含んだ目で、中津川。
「その時は、話し合い不成立ということで」
 藤堂の目は静かだった。
「僕がこの職場を出ていきます」
「……おいおい」
 呆れたように呟いたのは、南原だった。
「は……」
 こわいような沈黙の後、中津川の顔がふいに崩れた。
「笑えるくらい安直だな、自分の無責任さをさらけだしているようなものだよ、民間君」
「そうかもしれません」
 再び、自席についた藤堂は、わずかにずれた眼鏡を、指で直した。
「否定しないのかね。余裕だな、民間に戻る場所がある人は。我々はね、何があっても役所を辞めることなど簡単にはできないよ、生活がかかってるんだ、生活がね」
 もう藤堂は答えなかった。
 中津川も、憤慨したように席につく。
「辞めるんなら、補充が見つかってからにしたまえ、欠員はかえっていい迷惑だ!」
 それにも答えず、藤堂はいきなり席を立つ。
 その勢いに、全員がびくっとして肩をすくめる。
「今日はお先に失礼します」
 殆ど表情に変化はなかったが、藤堂は明らかに苛立っていた。
 苛立っているというか、怒っている。
「でくの坊にも、一応神経があるんだな」
 南原が、鼻で笑いながら呟いた。
 果歩も、追うように席を立っていた。

 *************************
 
「藤堂さん」
 何度か目に声をかけて、ようやく藤堂が足を止める。
 階段を使って階下に下りる藤堂に、果歩がようやく追いついたのは、ほとんど1階に近くなってからだった。
 2人の横を、帰宅を急ぐ職員が数名通り過ぎていく。
「何か」
「何かって」
 振り返った眼差しに、まだ普段の藤堂らしからぬ憤りの余韻がある。
「……らしくないです」
 果歩は嘆息して、その横に歩み寄った。
 藤堂は何も言わない。
 果歩は無言で先に立って歩き出す。
 こんな風に飛び出して、また課内では、自分と藤堂のことが噂になっているのだろう。そう思ったが、もう、それはそれで仕方ない。
 正面玄関横の市民ロビー。広い空間に、大型テレビとソファーが用意されている。時間外、さすがにこの時間、人の姿は殆どなかった。
 果歩は、自販機で缶コーヒーを買って、背後の藤堂に手渡した。
「……どうも」
 ようやく冷静になったのか、目を合わせないままに藤堂がそれを受け取る。
 果歩は自分でも缶ジュースを買って、一番近いソファに腰を下ろした。
「藤堂さんでも、怒るんですね」
「……怒っていましたか」
「そう見えました」
「……………」
 しばらく黙っていた藤堂は、かすかに嘆息して、果歩の隣に腰掛けた。
 色々あったから――。
 果歩は、少し、気の毒になって、その大きな影を見下ろす。
 敵だらけの中、何をやっても民間だと一言で切られ、誰1人協力者はいなかった。今まで辛抱できたのが、不思議なほどだ。
 そして思う。
 水原が、ある日突然ぶっつり切れたように、もしかしかすると藤堂にも、限界が近づいているのかもしれない。
 老成しているように見えて、藤堂はまだ26歳。
 普通であれば、主査にさえなれない年齢なのだ。
「人間ができすぎてるって、今まで少し心配だったけど」
 果歩は、あえて明るい口調で続けた。
「……そんなことないですよ」
「安心しました、もっと、がーっと怒っちゃえばよかったのに」
「ははは」 
 この距離が、少し懐かしくなる。
 屋上で、初めて2人で並んで座った距離。
 沈黙の中、藤堂の大きな指が、少し不器用に小さなブルタブを切る。
 少しの間があり、初めて、藤堂の横顔に苦笑が浮かんだ。
「……冷静では、なかったかもしれません」
「そんなことないですよ」
「悪い癖です、大抵のことは、ここまで我慢できるんですが」
 藤堂の手が、自身の喉のあたりを指した。
「ここを超えると、逆に今までのものが全部どうでもよくなる。失言でした」
「………謝りますか」
「…………」
 今回は、藤堂に非がないとは言いがたい。
 難癖をつけたのは中津川だが、それでも、自身の進退を持ち出して、あんな賭けみたいな勝負を言い出すべきではなかった。
 中津川は課長補佐、そして藤堂は係長なのである。
 組織の中の規律を守るためには、多少のことは、藤堂が我慢しなければ立ち行かない。
 それが、組織というものだからだ。
 わずかに考えてから、藤堂は首を振った。
「今ではなく、月曜にしましょう」
「…………」
「なんにしても、一度、全員で話をしなければならないと思っていましたから」
「でも」
 言っては悪いが、結論は出ている話し合い。
 藤堂1人が孤立して終わるだろう。無論、果歩は藤堂の側につく気だが、それはますます藤堂の立場を悪くするだけだ。
 何か言いかけた果歩を、藤堂は片手をあげて、やんわりと遮った。
「どういう結論が出ても、中津川補佐には謝罪します。ああいう言い方をしたのは間違いでした。僕は、自分の立場を忘れていた」
「やめちゃったりしないですよね」
「…………」
 すぐにうなずくものだと思っていた。が、藤堂は、意外にも沈思する。
「……その結論も、いずれは出ると思います」
 それは、どういう意味だろう。
「ただそれは、僕が決めることではありませんから」
「いやです、私」
 咄嗟にそう言っていた。
 少し驚いた風に、藤堂が顔を上げる。
 予期せず視線があって、果歩は耳まで赤くなっていた。
「……だ、だって、せ、せっかく、ここまで」
 その、色々。
 なんだろう、何が言いたいんだろう、私。
 ちらっと藤堂を見上げ、果歩は、驚いて目を伏せた。
 えっ?
 こ、ここでどうして藤堂さんが赤くなる?
「……今のが、今日一番の驚きでした」
 うつむいていると、藤堂が、聞き取れないほどの低い声で言った。
「え?」
「的場さんが、追いかけてきてくれたのは、初めてで」
「…………」
「いつも、僕ばかり追いかけているような気がしたから」
「…………」
 …………え?
 えーーーーーーー????
 しばし、唖然とした果歩は、びっくりして口をあけた。
 な、何、今の、可愛らしい……じゃない、聞き捨てならない発言は。
「あ、あの、藤堂さん」
「はい」
 2人の間で、携帯が鳴ったのはその時だった。
 
 *************************
  
「病気?」
「ええ」
 果歩は再度、同じ質問を繰り返した。
「……宇佐美君、病気なんですか」
 タクシーの中、隣に座る藤堂の横顔を、夜の影が覆っていた。
「18歳の時に、白血病にかかったそうです」
「…………」
「本人から、口止めされていたので。でも、的場さんには話しておくべきでした」
 果歩はようやく、宇佐美の不自然な履歴の意味や、就職できない理由に思い至った。
 早退した時、妙な言い訳をされた意味も。
「……もう、治ってるんですか」
「再発の可能性は、ゼロではないそうです」
 そうか。
 そうだったんだ。
「最初から、……藤堂さんは、知ってたんですね」
 自分の声が頼りなくなっている。
 あの若さで、生命の期限を垣間見せられた。その時宇佐美は、どういう気持ちで、何を考え、何年もの闘病生活を乗り越えてきたのだろう。
 いいえ、と、藤堂は静かに首を振った。
「聞いたのは、雇用の後、志摩課長の口からです。宇佐美君を辞めさせるよう、僕に直々話しがあったので」
「課長から、ですか」
「僕はやめさせる必要はないと言いました。……ただ、課長も課長なりに、彼のことをずっと気にかけておられたようです」
 課長が――。
 果歩には、むしろ、冷たくさえみえたのに。
「宇佐美君は、課長の妹さんの忘れ形見だという話でした。同じ病気で、若くして亡くなられたと」
「…………」
「課長にしてみれば、心配でみていられなかったんでしょう。仕事などさせずに何年でも休養させたいと、僕に言っておられましたから」
「…………」
 そうだったんだ――。
 果歩は、あらためて、蝋人形のように無表情な、志摩の顔を思い出す。
 職場では、一言も、宇佐美に声をかけることもなく、宇佐美もまた、志摩の存在を無視しているようにも見えた。
 いや、それだけでなく元々志摩とは冷たい人なのだと思っていた。
 関心があるのは、自身の出世だけで、課内のことには一切関心がない人なのだと。
「……宇佐美君、仕事がしたかったんですね」
「誰だってそうです」
 果歩の言葉に、藤堂は少し優しい目で頷いた。
「誰だって、この社会で、何かの役にたっていたいんです。それが生きているということです。人に必要とされていると実感することが」
「………………」
「少し時間がたてば、水原君にも、それがわかると思っていました」
 タクシーが病院の前に止まる。
 ――水原君には何年もあるけど、俺には2ヶ月しかないっちゅうことか。
 どこか寂しげだった宇佐美の言葉が、ふいに思い出される。
 夜の空気はほの暖かく、暗い夜空に、煌々とした病院の明かりが浮き出していた。

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