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年下の上司 story6〜 September

男の闘い! 嵐を呼んだ臨時職員(6)

 
 廊下のベンチに座っていた人が、足音に気がついたのか顔をあげる。
 ラフな服装からして、宇佐美の個人的な友人だと思った果歩は、目礼しようとして、足を止めていた。
「……水原君?」
「あ、」
 と、友人に言わせればシーズーのようにくしゃっと潰れて、どこか愛嬌のある目が、気まずそうに伏せられた。
 が、さすがに座ったままではまずいと思ったのか、水原は立ち上がって一礼する。
「もしかして、宇佐美君と一緒だったんですか」
 何も言えない果歩の代わりに、最初に聞いたのは藤堂だった。
「……はい」
 硬い表情のまま、水原。
「まさか、病気だったなんて、知らなかったから」
 ようやく果歩は、藤堂の携帯に連絡してきた相手が、ここにいる水原だったことに気がついた。それを受けた藤堂が、志摩課長の家に電話していたようだから――おそらく水原は、宇佐美の家族にどう連絡していいか分からず、窮して藤堂に架けてきたのだろう。
 でも――
「一緒って……どうして?」
 まだ、事態が飲み込めないままの果歩が聞くと、ふいに目の前の扉が開いた。
「お待ちの方、入ってもよろしいですよ」
 病室。
 若い女性看護師が、微笑しながら扉を片手で支えている。
 藤堂と顔を見合わせている間に、中から、小柄な婦人が出てきた。
 山吹色のブラウスに長いスカート。衣服のセンスもよく、いかにも上品そうな雰囲気だ。
 色白で、柔和な目。円形を描く眉は薄く、目から大きく離れていた。姿勢がよく、ウェーブのかかった短い髪に白いものが目立っていなければ、まだ30代にも見える。
 ――宇佐美君の……お母さん?
 戸惑う果歩の前で、女性はゆっくりとお辞儀をした。
「この度は、ご迷惑をおかけしまして。志摩の家内でございます」
 甲高い声をオブラートで丸く包み込んだような声。
 ――えっ。
 と、今度は果歩が仰天して、大慌てでお辞儀をした。
 志摩って、もしかしなくても、あの志摩課長??
「い、いつもお世話になっております」
「こちらこそ、主人がいつもお世話になっております」
 にこやかに女性は答える。
「お仕事中でお忙しかったでしょうに、わざわざご連絡いただきまして、本当にありがとうございました」
 それは、藤堂に向けて言った言葉のようだった。
「生憎、主人が留守をしているものですから。今日は親戚の法事に呼ばれているんですのよ」
 そこまで言った女性は、ふいに目を大きく開けて、いたずらめいた眼差しになった。
「あらっ、大きなお方!」
 果歩と藤堂の戸惑いもお構いなしに、唐突にくすくすと笑い始める。
「うちの主人もいい加減大きな人ですけども、あなたも、まぁ、相当ですこと」
「は、はぁ」
「元気な時分は便利ですけども、よく主人に言ってるんですのよ、あなたが要介護になったら、とてもとても、私の手には負えませんわって、ねぇ」
 と、これは果歩に相槌を求められる。
「若い頃は、立派な体格に惹かれたものですけど、年をとったらあなた、介護のことを考えないと。家にこんな大きな病人が転がっていると考えてごらんなさいな、想像しただけで大変でしょう」
「……はぁ」
 果歩も藤堂も、なんと答えていいのか分からない。
 ――でも……。
 果歩は、普段むっつりしている志摩課長の顔を思い出し、ふいに笑いがこみ上げてきた。
 あの能面志摩課長の奥さんが、こんな明るい人だなんて、思ってもみなかった。
 一体普段の課長は、どんな人なんだろう。
「あの……宇佐美君は」
 背後で、か細い声がした。
 遠慮気味にそう言ったのは、ずっと藤堂の影になっていた水原である。
「ああ、祐ちゃん? もうすっかりよろしいのよ」
 婦人は笑うような目のまま、言った。
「今夜は検査で入院ですけどね、どうぞ、入ってくださいな」
 
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「ありゃー、みなさん、おそろいで、どないしはったんですか」
 腕に点滴の管をつけたままの宇佐美は、やや顔色が青いものの、表情は元気そのものだった。
「えっ、えーっ、果歩さんまで? なんで? なんで?」
 倒れたままの服装なのか、白いポロシャツを身につけ、ベッドに半身を起こしている。
 ベッドサイドには点滴の用具が備え付けてあって、さすがに自由に動くことはできないようだった。
「あかん、仕事さぼって遊びにいったの、ばれてもうた」
 その場違いな明るさに、果歩は、どう声をかけていいのか分からない。
「祐ちゃんが心配かけるから」
 カーテンを閉めながら志摩の妻。
 外は、もうとっぷり暮れていた。
 宇佐美は、顔をしかめながら、両手を振った。
「たいしたことあらへんって、おばさんからようゆうてやって。ようあるねん、貧血や、ただの」
「あんたみたいな、馬鹿でかい男がぶっ倒れたら、そりゃ、お友達も驚きますわ」
 ばしん、と志摩の妻が、宇佐美の背中を乱暴に叩く。
「……あ」
 と、初めて宇佐美は、藤堂の背後に立つ、水原に気がついたようだった。
「あかん、水原君、今日のはなしや!」
「え?」
 と、果歩と藤堂は顔を見合わせる。
 またもや、意味不明なリアクション。
「また改めて勝負や、今度は俺が、絶対に抜くさかいに」
 ――抜く……?
 振り返った水原の顔が、わずかに赤らんだような気がした。
「倒れた時、2人でバスケやってたんです。こいつ、馬鹿でかいくせに、運動オンチで」
「バスケ……?」
「俺、高校までやってて……背、これだから、やめたんですけど」
 水原君が、バスケ。
 果歩は――こう表現しては悪いが、みるからに貧相な体格をした男を、まじまじと見つめた。いや、体格がどうとかではなく、いかにもスポーツなど歯牙にもかけない秀才風の水原が――バスケ。
「水原君なめたらあかん。なんでやめたんやゆうくらい上手いんや、マジで」
 ベッドの上で、宇佐美が興奮気味にまくしたてた。
「俺ら、勝負してんねん、ワンオンワンで、1回でも抜いたら俺の勝ち、抜けへんかったら水原君の勝ち」
 勝負……。
 なんのだろう。聞こうと思ったが、口を挟むタイミングが見つからない。
「こんだけ背が違うやろ」
「うるさいな」
「楽勝思うたねん、それが、ちょこまかちょこまか、よう動きよる」
「自分が鈍すぎるって自覚しろよ」
「ほんま、惜しいで、背なんて低ぅても、上手いやつは仰山おるやろ。なんでやめたんや、水原君」
「うるさい、お前に言われたくないんだよ」
 ていうより。
 果歩は唖然として、応酬しあう同い年の男2人を見る。
 よくわからないけど、バスケの勝負?
 問題は、どうして有休中の水原君が、その――休むきっかけとなった宇佐美と2人で、そんなことをしてたかってことなんだけど。
「どこで倒れたんですか?」
 果歩は、背後の藤堂にそっと聞く。
「詳しくは……、水原君の自宅近くだと聞いているんですが」
 藤堂も、多分、どう口を挟んでいいか判らずに、当惑顔だ。
「2人が会ってること、知ってたんですか」
「宇佐美君から、自分が原因だから、自分でかたをつける、とだけ」
 そっか……。
 それで宇佐美君、休みがちだったんだ。
 2人の間に何があったかは知らないけど、で、相変わらず仲はよくないようだけど。
 その距離がかなり近づいたことだけはわかる。
 そっか。
 同い年だからこそ感じる反発と、同様に感じる連帯感。
 水原の一番痛いところが分かっていた宇佐美には、逆に、一番求めていることも分かっていたのかもしれない。
 だから、藤堂さんは、黙って見守っていたんだ……。
「……お前、馬鹿じゃない?」
 やがて、立ったままの水原が、低い声で呟いた。
「そんな、自覚してることを今更」
 笑って受ける宇佐美。が、水原の目は、どこか冷めたままだった。
「……へらへら笑ってる場合かよ、遊んでる場合でもないじゃん」
「へ?」
 心から不思議そうな顔になる男に、水原は苛立ったように眉をあげた。
「いつまでも、くだらない役所のバイトなんかしてんなよ。他に、やりたいこととかないのかよ」
「何で? 俺、今、最高に楽しいのに」
 宇佐美は、綺麗な八重歯を見せて笑った。
「とりあえず、何でもできるし、今の俺」
「なんでもって、たかだかバイトだろ」
 冷めた声で水原。
 少し困ったように笑った宇佐美は、そのままベッドに横になった。
「……自分が病気ゆうの、なんかの言い訳にすんの、あんま好きやないんやけど」
 国道が近いのか、車が通る音がひっきりなしに聞こえてくる。
「ずっと病院にいてたから、何かしたくてもできひん奴、俺いっぱい知ってるんや」
 一瞬暗さの滲んだ眼は、しかし次の瞬間、すぐに明るさを取り戻す。
「今は、なんでもできるやん? 俺、とりあえず、手も足も揃うとるし」
「…………」
「でっかい望みは恥ずかしながらないんやけど、今は、手伝いでもなんでも、人が喜んでくれる顔みるんが、最高に幸せなんや、俺」
 
 *************************
  
「あいつが課長の親戚だったなんて、もっとゴマすっとけばよかったな」
 病室を出た水原は、自嘲気味に呟いた。
「その話は、みんなには」
 果歩は言いかけ、言葉を呑む。
 水原は、来週から、どうするつもりなんだろう。
 少なくとも月曜日、話し合いのことだけは伝えた方がいいのではないだろうか。
 水原の欠勤が続くと、藤堂の立場が、ますます悪いものになる。
「タクシーで一緒に帰りますか」
 が、藤堂がかけた声は、それだけだった。
 水原は目をあわせないまま、首を横に振る。そして、わずかに沈黙してから、口を開いた。
「今まですみませんでした。月曜日は、出ます」
 ――え……。
「そうですか」
 淡々と藤堂。
「課長の甥と喧嘩するほど、馬鹿じゃないんで」
 冷たい言い草だが、どこか言いわけがましい気もする口調だった。
 バスケットでは負けたのかもしれないけど、多分、勝負そのものには、きっと宇佐美が勝ったのだろう、そんな気がする。
「じゃ」
 そのまま水原は、頑なな表情で、きびすを返す。それは、これ以上民間出の係長と話したくないとでもいうように見えた。
 ――水原君……
 月曜日、水原が復帰することが、果たして、四面楚歌の藤堂にとって、吉と出るか凶と出るかは分からない。
 いずれにしても、あまりいい目は出ない気がする。
「じゃ、僕たちも帰りますか」
 が、藤堂の横顔は、やっと迷いから抜け出した人のように晴れやかだった。

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「つか、マジで潰れたかと思ったじゃん」
「いやー、自分探しの旅に出てたんですよ」
「ばーか、大迷惑かけて、言ってる場合かよ」
 果歩が会議室に入ると、先に来ていたのか、その一角で、南原と水原が、笑いあっているところだった。
 最低コンビ、復活……。
 月曜日。
 果歩は、なんともいえない気分で、隅の方の席につく。
 本庁舎、15階の会議室。
 この一角を借りて、今日、総務課全員で話し合いをすることになっている。
 5時15分少しすぎ、階下からあがってきたのは、まだ、この3人だけのようだった。
 ――長くなるのかな……。
 果歩は時計をみて、所在なくテーブルを見る。
 どんな話になるんだろう、間、持つのかな、何もなくて。
「……コーヒーでも、淹れた方がいいかしら」
 誰に言うともなく呟くと、それまで水原とひそひそ囁きあっていた南原が、はじめて果歩の方を見た。
「飲みたきゃ自分で買ってくるよ」
 この人の物言いが冷たいのはいつものことだが、今のは殊更突き放して聞こえた。
「つか、これから課のお茶当番決めるっていうのに、いちいちコーヒーなんて出してどうすんだよ。それ誰が洗うのかで、またもめんのかよ、馬鹿馬鹿しい」
「……洗うくらい、私がするけど」
 さすがにむっとして、果歩。
「だったら、なんだってこんな話し合いする必要があるんだよ。時間外手当がつくわけでもないのに、わざわざ残らされてんだぜ、俺ら」
 南原の背後で、水原が肩をすくめている。
 その笑いを含んだ表情でさえ、まるでいつもの水原だった。
 ――ああ……最悪。
 これは、話し合うまでもないだろう。
 藤堂と、そして果歩がつるし上げられて、それで終わりだ。
 ま、いっか。
 それでも果歩には、先週とは少し違った覚悟があった。
 もういいや、このまま、藤堂さんと心中でも。
 今日は、どうなってもいいから、私だけでも、最後まであの人の味方でいてあげよう。
「お、早いねー、若い連中は」
 計画係の残る2人が入ってくる。
「まいったなー、何時まであるのかな、これ」
 困惑気味に大河内主査が、そして、憮然としたままの中津川、最後に藤堂が入室して、これで全員がひとつの机を囲むこととなった。

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