「最初に、一言言わせてください」 藤堂が立ち上がり、どこか気まずい空気の先陣を切った。 「先日、僕が辞職の意をほのめかしたことは、失言でした。色々ご心配をおかけして、大変申し訳ありませんでした」 目を合わせる居心地の悪さから、全員がうつむきがちになっている。 藤堂は、その中で、1人深く頭を下げた。 「やれやれ、やっぱりはったりかよ」 はっきりとは聞こえないが、対面の南原が、水原にそう囁いている。 中津川は、眉をしかめたままで咳払いし、後のメンバーは、聞いているのかいないのか、殆どが無反応だった。 ――謝るなら、話が終わった後でもいいのに。 果歩には、最初から分が悪い立場に、藤堂があえて立ったような気がした。 つかみは最悪、というやつだ。 案の定、緊張がどこなく緩み、大河内など露骨に腕時計を見はじめる。 「長く話しても、結論が出るわけではないので、単刀直入に、みなさんの意見を伺いたいと思います」 立ったまま、藤堂は、落ち着いた口調で続けた。 「この7月に、僕は、課内のお茶出しを、今までのように的場さん1人にではなく、課内全員で協力しあってする形にしたらどうか、と提案しました」 「そういう言い方は、まるで我々が、協力を拒否したと言わんばかりじゃないか」 反撃の口火を切ったのは、案の定中津川だった。 「そうじゃないだろう。君が勝手に、誰の同意もないままにやりはじめたことを、みんなはただ、あっけに取られてみていただけじゃないか」 「……そうかもしれません、言葉が足りず、申し訳ありませんでした」 素直に言って、藤堂はそこで、席に座った。 「ただ僕は、それが的場さんが女性だからという理由だとしたら、そこはもう一度考え直した方がいいと思っただけです」 「女性とかどうとか、そういう問題じゃないだろう」 露骨に嫌な顔になって、今度は中津川が立ち上がった。 「そもそも、なんのための話し合いだね、これは」 そして、同意を求めるように、全員の顔を見回す。 「よその課に話したら笑われたよ。お茶汲みなんて、どこだって臨時や若い子にさせてる仕事だ、問題にもなりはしない。そもそも、来客の多いうちに臨時職員がつかなかったのは、藤堂君、君の力不足じゃないか」 「今は、います」 「男じゃないか」 「ええ」 藤堂は頷いた。 「男だからどうという問題ではないと思ったので」 ぐっと中津川が詰まる。 それは、先刻の発言に対しての、強烈なしっぺ返しのようにも聞こえた。 「宇佐美君は、立場でいえば一番下です。では彼がお茶を出せばいいのかと言えばそうではなく、それよりもっと効率的に使ったほうが、全体のためだと僕は思います。では、次に下なのは誰なのか、年齢で言えば水原君でしょう、しかし無論、彼も宇佐美君と同様です」 いきなり名前を出され、戸惑ったのか、水原がうつむいたままで目をそらす。 「では、その代わりに的場さんがすればいいのか、それも、違うのではないかと僕は思います。宇佐美君や水原君と、的場さんだって同じだからです」 「回りくどいな、何がいいたんだね、君は」 顔を赤くして、中津川が口を挟んだ。 「だから役割分担じゃないか。女性だからではないよ、役割分担だ、それは差別とは違うじゃないか」 「そうですね」 反論せずに、藤堂は頷く。 「仕事だって分担して決めているように、それと同じだと思えばいいだけのことじゃないか。1日中職場にいるんだ、喉は渇くし、休憩も取りたい。来客があれば、お茶はいるし、出せば片付けが待っている。どうしたってその手の仕事は出てくるんだ、だからそれを、的場君が分担してやってくれているんじゃないか」 計画係の主幹が、同意するかのように、小さく頷く。 「それで今まで、何の不便もなく上手く回っていたんだ、それを君は、差別だのなんだの、わけのわからない理論に置き換えて、話を大きくしようとしているだけじゃないか」 中津川の勢いに押されたように、誰も、何も言おうとしない。 「では聞くがね、的場君」 ふいに果歩に、中津川の鋭い視線が向けられる。 「君はいままで、いやいやこの仕事をやっていたのかね」 「…………」 いやいや……? それは確かに、仕事が重なった時には、なんとかならないかと思うけれど。 「……嫌だったわけじゃ、ないですけど」 「そら見たまえ」 勝ち誇った目を上げる中津川に、でも、と果歩は咄嗟に言葉を繋いでいた。 「仕事だと思って、やっていたわけでもないです」 言った後、わずかに頬が熱くなった。 では、なんだ、と言われれば上手く言えないけど、多分――習性と、そうしたいという気持ち。 ずっと同じことをやり続けてきたから、なんの疑問もなく出来るし、たまに「ありがとう」といわれることに、ささやかな喜びを感じることもできるから。 逆に、仕事だと思ったら、とても出来なかったろうとも思う。 「君がどう思おうと、それは勝手だがね」 中津川は、鼻白んだように席につくと、大きな咳払いをひとつした。 「君に、そういった役割を任せているからこそ、他の部分で随分楽をさせているんじゃないか。難しい折衝、問題処理、責任の重い仕事を我々男が負担して、君には比較的楽な、庶務という仕事を任せているんじゃないか」 「…………」 果歩はうつむいたまま、ゆっくりとこみ上げる悔しさに耐えた。 そういう言い方こそ、差別ではないかと思う。 が、一面で、中津川の言うとおりだということも自覚していた。 殻を破ってまで、責任の重い仕事をもぎとる勇気がなかった自分。雑用をしていれば、このまま慣れた仕事だけをこなして何事もなく卒業できる――そんな甘えがどこかにあったことも否定できない。 殻―― 私の殻。 「……まぁ、的場さんが、なんとも思ってないんだったら」 大河内主査が、その場を取りなすような口調で言い、周囲を見回す。 「何もこんな、残ってまで話さなくても……ねぇ」 「まぁ、そうですね」 計画係の谷本主幹が頷く。 「今まで通りで、何も問題はなかったわけだし」 どうしよう。 ここで、一言言えばいいのは分かっている。 私も、みなさんと、遜色ない立場で仕事をしたいんです。 仕事がたてこんだ時は、代わりにやってもらえれば、助かります。 そう言えば。 が、庶務の仕事ばかりし続けてきて、8年になる。 編纂の仕事だけで、正直いえば、目一杯だった。責任の重い仕事をこんな形で無理にとって、それで、もし、失敗してしまったら――。 「例えばだ」 果歩が黙っていると、中津川が続けた。 「重いものを持つのは男がする、車の運転も男がする、その代わり、女性にお茶を入れてもらう。それぞれの得意分野を補い合っているだけだ、その分担に、何か問題があるのかね」 果歩の隣で、黙ったままの藤堂が、わずかに目を伏せるのが分かった。 私が、言わなきゃ――。 汗ばんだ手を、果歩は膝の上で握り締める。 私が、 「あの、」 果歩が、口を開いたと同時に、その声がした。 全員が、思いがけず声を上げた男に注目した。 水原である。 視線を受けて戸惑ったのか、水原は、顔を赤くしてうつむいた。 「重いものは力がないと、持てないし」 ――水原君……? 果歩もそうだが、おそらく全員が驚いている。 「運転も、免許がないとできないけど、」 そこまで、切れ切れに言葉を繋ぎ、水原はようやく顔をあげた。 「お茶出したり洗ったりするのは、手があれば誰でもできると思います」 「…………」 「僕は、かまわないっていうか、当番かなんかで、順番に回せばいいんじゃないかと思います」 あ、あれだったら、役がついてないメンバーだけで。 と、慌てたように言い添える。 腹心の部下の思わぬ反乱に、中津川は、ぽかんと口を開けたままである。 「つか、役がついてないっつったら、俺と水原と、的場さんしかいねーじゃん」 呆れたように口を挟んだのは、南原だった。 「まぁ、いいけどさ、ただ当事者になる者として、一言いいっすか」 まぁ、いいけどさ? 南原のその言い草も、果歩には仰天ものだった。 いいけどさって、それは、何? 水原君の意見に賛成ってこと? 「俺、もともとは区の福祉課でケースワーカーしてて」 淡々と続ける南原の目は、語っている自分に対してさえ冷めているかのように、どこも見てはいなかった。 「そこじゃ、全員で当番組むのは当たり前。だってどうしようもなく人手がなくて、女も可哀想なほど働かされてるから。みんな同じように残業してくたくたになってんのに、女だけにお茶入れてなんて、絶対に言えないじゃないっすか」 果歩は、さらに驚きを感じたまま、乾いた口調で話し続ける南原を見つめる。 「ここに異動してきて、まず驚いたのが、的場さんが局長にミルク入れてたこと」 南原の目が、やや冷ややかに果歩に向けられた。 「正直、やってらんねーなって思いました。区役所で、あんなに必死こいて働いて、真っ黒に日焼けして仕事してる奴もいるのに、本庁は優雅にミルクですかって」 「…………」 何も言えないまま、果歩は、ただ目を伏せた。 そしてようやく分かった気がしていた。 最初から、どこか冷たく、そして果歩に攻撃的だった南原の気持ちが。 「俺、お茶当番するのはなんでもないけど、来客のたびに、コーヒー出したり、時間がたてばお茶出したり、取引してる企業じゃないんだし、しかも税金、たかだか役所の来客に、そこまで接待する必要はないと思ってます。コーヒーも使い捨てのカップを使えば洗う手間はないし、会議はペットボトルで十分だと思う、そのあたり合理化してもらわないと、誰がやったって負担ですよ」 しん、と、室内は静まり返っている。 「じゃあ……そのあたりは、考えましょう」 ようやく、ずっと黙っていた藤堂が口を開いた。 「僕も、正直に言えば、南原さんの意見に賛成です。接待に関しては、できる限り、合理化をすすめていくべきだと思う」 南原は何も言わず、椅子にふんぞりかえって腕を組む。 しかし、今、南原と藤堂、2人の意見が初めて一致したのである。 今までの2人の確執を知っている課内の者には、信じられないシチュエーション。 「まぁ……僕も、係長がやってるのに、やらないわけにはいかないんで」 気後れたように、片手をあげたのは、事なかれ主義の大河内主査だった。 「的場さんみたいに気はきかないけど、まぁ、できる範囲でならやりますよ」 「じゃあ、私もやりますか」 計画係の主査も、つられたように頷いた。 「食器洗い、家じゃ私がやってるんでね。女房ががみがみうるさくて」 一瞬だが、室内が和やかな空気に包まれる。 が、その空気を1人、顔を赤くした男が立ち上がって遮った。 「わしは、反対だ」 中津川補佐。 「……あの、補佐に、当番を回したりはしませんから」 気を使ったように谷本主幹。 「そういう問題じゃない。わしは反対だ、もういい、今後わしはお茶はいらん、自分で買う、コーヒーものまん!」 「……補佐、」 藤堂が立ち上がりかける。 「何もかも、貴様の思い通りというわけか、そざかしいい気分だろう、民間係長」 その藤堂に強烈な嫌味を放ち、中津川は痩せた背中を翻した。 「失礼する!」 ************************* 「……最初から、こうなるのが分かってたんですか」 会議室の鍵を閉める藤堂に、果歩は背後から、そう聞いていた。 嬉しいような、不安なような、複雑で不思議な気持ちだった。 ひとつの、ささやかな――けれど、この課にしてみれば、非常に大きな改革が――果歩にしてみれば、永遠の迷宮に思えた改革が、今、成功しつつある。 創立以来、男の職場だった都市計画局では、おそらく異例の変革だ。他の課も驚くだろうし、もしかすると、反発があり、また、後に続く課も出てくるかもしれない。 「あ、鍵は私が返しておきます」 「すみません」 振り返った藤堂の目には、緊張から開放された安堵と、ささやかな満足が浮かんでいた。 「象は、あんなに大きいのに、動物園の檻から出られないのは何故だと思います」 「えっ、」 ゾウ??? 「出られないと思い込んでいるからですよ」 藤堂はわずかに微笑した。 「正直言えば、今日の結果は予想していませんでした。でも、1人が檻を出たので」 「………………」 「みんなも、それに続いたんだと思います」 例えは微妙だけど。 それはきっと、水原君のことだろう。 「じゃあ、僕は残業があるので」 「あ、はい」 鍵を果歩に手渡し、藤堂はエレベーターホールに向かって歩き出す。 足音が遠ざかる。 果歩は、1人、心細いものを感じていた。 藤堂さん。 でもその中で、一頭だけ、檻から出る勇気がない象がいたんです。 ――私…… 水原君が壊した殻。 私も、壊さないといけないんだ。 ************************* 保温器に置いた小鍋。沸騰しない程度の湯の中に、ミルクのパックをそっと入れる。 待つこと、2分。 「あれ、ミルクですか」 背後から、今日、復帰したばかりの宇佐美の声がした。 「それくらい、俺がやりますけど」 「ううん」 果歩は、熱湯でカップを暖めながら、首だけ振った。 「今日は私がやるからいいわ」 「……そうでっか?」 不思議そうな声がして、背後から気配が消える。 ほどよく温まったミルクパックを、小鍋から引き上げる。 鋏で封を切って、カップの中に注いでいく。 なんでもない作業。 こんなささやかなことに、以前、忙しくて手を抜いたことがあったのを思い出し、果歩は苦い微笑を浮かべていた。 暇で。 むなしくて。 自分がなんのためにここにいるのか分からなくて。 ぼんやりと秘書席に座っていた新人の頃。 「……失礼します」 トレーにカップを載せた果歩は、局長室の扉を軽くノックした。 「どうぞ」 いつもの、真面目な時もどこか陽気な、那賀局長の声。 新聞から顔を上げた那賀は、いつも以上に上機嫌だった。 「おはよう、いつもすまんねぇ」 「こちらに、置きますね」 「うん」 那賀の前にカップを置き、いつもならそこで退室するのに、果歩は居住まいを正して立っていた。 その態度に、特に疑問を持つ風でもなく、新聞を置いた那賀は、「これが、わしの元気の源でねぇ」と、笑ってカップを取り上げる。 「上手い」 「ありがとうございます」 「的場君」 「……はい」 「いままでありがとう」 「………………」 夕べ、頭の中で、何度も何度も考えていた言葉が全て消えて、ふいに胸が一杯になった果歩は、不覚にも涙が溢れ出すのを抑えられなかった。 「……私、」 何か言いかけた果歩を、那賀は、穏やかに手をあげて制した。 「もう何も言わなくていいよ。話は聞いているし、今年に入ってから、君の立場が苦しいのも分かっていたんだ。辛い思いをさせて、悪かったね」 「………局長」 「藤堂君が、君に代わってミルクを持ってき始めた頃から、彼の考えはわかっていたんだ。わしも意地になっていた。これくらいのことでなんだという反発もあったしねぇ」 秘書時代。 ふいに訪れた那賀が、自動販売機でかったばかりのミルクを差し出して言った。 (最近、腸の調子が悪くてねぇ、お湯で少しばかり暖めてもらえるとありがたいんだが) え? 何、この人? そう思いながら、湯銭で暖めたミルクを出した。 (上手い、最高だ) (君はいい秘書になるねぇ、うんうん、いい秘書になる) 初めて、誰かに褒められた日。 初めて誰かに認められた日。 「……最後まで、続けたかったんですけど」 涙を拭って果歩は言った。 それは、嘘ではなく本音だった。 年々気ぜわしくなり、局長級がのきなみ入れ替わっていく役所の中で、こうした古い習慣が、時代にあわなくなっていたのは知っていた。 年功序列ではなく、能力で上に行く時代、今年で定年を迎える那賀は、まだ役所が旧態依然だった頃の、おそらく最後の局長級だ。 「いやいや、これも時代だよ。的場君、わしは君を可愛がりすぎていたのかもしれん。こういった接待ができる女性がもてはやされていた頃とは、もう随分違ってしまったんだなぁ」 目は笑っている、けれど、少し寂しそうな口調だった。 果歩は何も言えなかった。 那賀の、自分に注いでくれる親心にも似た愛情はずっと感じていた。 だからこそ、今、那賀は――おそらく、彼自身の信念を収め、若い世代の意向に従うことに決めたのに違いない。 「月並みだが、がんばりたまえ、君のこれからの活躍を期待しているよ」 「はい……」 扉を閉めた果歩は、自分が歩いてきた道が、ここで完全に途切れてしまったのを感じていた。 ここから先の、新しい世界。 1人で開けられなかった扉は、藤堂に、そして那賀に、後押ししてもらったのかもしれない。 「的場さん」 執務室に戻ると、藤堂が笑顔で顔をあげた。 「今日、5時過ぎになりますが、職務分担のことで話をしたいんです、いいですか」 「はい」 少し怖いけど、恐れずに進んでいきたい――。 |
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