「流奈が来てるって本当?」 週明けの月曜日、朝。 政策部側のフロアカウンター。勢いこんで訊いた果歩に、カウンターまで出てきてくれた乃々子は、戸惑ったように頷いた。 「さっき、人事から電話があって……多分、十階に呼び出されてるんじゃないかと思います」 「ありがと」 よかった。―― 果歩は胸をなでおろす。 人を心配するどころではない騒動に巻き込まれていたため、ついつい後回しになっていたが、結局、流奈は、先週いっぱい休み通しだった。今日も来なかったら、自宅に行ってみるつもりだったのである。 「あ、的場さん」 駆けだそうとしたら、背後から呼びとめられる。廊下まで追いかけてきた乃々子は、何故か思いっきり思いつめた目をしていた。 「ん?……なに、どうしたの?」 訝しむ果歩と目も合わさず、妙にもじもじおずおずしている。が、ややあって乃々子は、意を決したように顔を上げた。 「ごめんさいっっ」 「??――」 意味が判らない。 せっかくあげた顔を思いっきり下げた乃々子は、同じ勢いでもう一度頭を下げた。 「本当にごめんなさいっっ」 「ちょ、乃々子、どうしたのよ」 体裁が悪いなどというものではない。通り過ぎる他課の職員が、不思議そうに振り返っている。 「……理由は……藤堂さんに……訊いて下さい」 消え入りそうな声で、乃々子は囁き、だっとそのまま踵を返した。 「えっ、ちょっ」 まさに疾風のように消えてしまった乃々子。聞き質す暇もない。 わけがわからないままに首をかしげ、果歩は階段に向かって歩き始めた。 藤堂さん――か。 なんともいえない複雑な感情をもてあましたまま、まだ果歩は、あれから藤堂と胸を割った話ができないでいる。 時折、自分を見る藤堂の目に、物言いたげな揺らぎを感じるのに。 果歩のほうから言葉を掛ければ、おそらく、何もかも打ち明けてくれそうな気がするのに。―― が、今や果歩は、一番有り得ないと思っていた展開が、限りなく現実のものだと理解せざるを得なかった。 藤堂さんは、多分、すごく大きな財閥の跡取り息子か何かなんだ(もしくは極道?……あ、いやいや、それはないか)。 婚約者がいるとしたら――いるんだけど、その人はきっと、こないだの合コンレベルの、ハイソで、とんでもなく大きな会社か何かの……お嬢様だったりするんだろうか。 そうでなければ、都英建設の御曹司が蒼ざめて硬直するほど藤堂を恐れるはずがない。 ハイソな世界で、有宮がどの程度のランクにいるのかは知りようがないが、少なくとも有宮など歯牙にもかけぬほどの高みに、藤堂は立っていたことになる。 ――あー、ありえない、どうしてそんな人が、そもそも市役所なんかにいるのよ。存在自体が反則じゃない。税金で給料もらう意味なんてあるの? 1人で、誰にともなく八当たりする果歩だったが、それでもこの程度の自覚はあった。 ――私……怖いんだ。 本当のことを知ってしまうのが。 知って、今度こそどうしようもないって思い知らされるのが、――怖い。 だから、曖昧なまま言い訳を見つけては逃げ回っている。このままじゃいけないって判っているのに。…… そんなことをつらつら思っている内に、エレベーターが本庁舎10階に辿り着く。 西側が総務局人事部、東側が市長室秘書課である。 同じフロアながら、両者は別の造りの建物のようにエレベーターでさえ完全に遮断されている。 片や厚い扉に閉ざされた役所内の隠密部署――人事部人事課。 片や、緋色の絨毯と豪奢な壁に覆われた役所内の別世界――市長室秘書課。 果歩にとっては、かなり敷居が高いかつての職場である。 緋色の絨毯に足を踏み入れなければ、うかと東のエリアに迷い込むこともない。こっそりと西専用エレベーターホールに出た途端、人事課のほうから、しおしおと歩んでくる流奈と鉢合わせになった。 「あ……」 「あ、」 互いに妙な声を交わしあった後、たちまち流奈の目に険悪なものがよぎった。 つん、と顎をそらされる。 「なんですか? まさかと思いますけど、私を追いかけて来たんじゃないですよね」 いつも通り、というより、いつにも増して攻撃的な口調。 果歩は戸惑って瞬きをする。 「そりゃ気になりますよね。なんたって、原因者は的場さんなんですから。今も人事で散々聞かれましたよ。職場いじめはあったのか、相手は的場果歩なのか、そりゃあもうしつこいくらい」 流奈は、ひややかに言い捨てて、そのまますたすたと歩き出した。 しばらくあっけにとられていた果歩は、ややあって溜息をついて、後を追う。 まぁ、お変わりないってことで。 心配して損したけど、流奈がいきなりいい子になっても面白くないし。 その時、正面の緋色のフロアから、いきなり数人の集団が現れた。 ************************* 「あら」 集団の先頭に立つ女。―― 不思議そうな眼で足を止められた理由は、前に立つ流奈だったのか、背後に立つ果歩だったのか。 先頭に立っているのは、市長秘書の安藤香名。 流奈の同期で、入庁1年で市長秘書に抜擢された才媛である。 すらっとしたモデルばりの長身に、ふんわりと耳元でウェーブされた髪。いかにも人当たりのよさそうな黒眼がちの瞳は、優しげで柔和な輝きを放っている。 が、きりっとした太い眉と、口角のあがった厚い唇が、女の勝気さと一種凄味にも似た気迫を醸し出していた。 現役市長秘書。 ある意味、役所の綺麗どころと称される女たちの、頂点に立つ女である。 その安藤香名の顔が、不意に親しげに笑み崩れた。 「須藤さん? よかったぁ、元気になったんだ!」 背後の連中も足を止めている。全員、役所の制服なんてあたしたちには関係ないし! といわんばかりの美しいスーツ姿の女性である。秘書課の事務担当職員や臨時職員たちだろう。 たまたま連れだってどこかに移動する最中だったのだろうが、こうして安藤と一緒にいると、まるで彼女の付き人か取り巻きのように見える。 「心配してたのよー、何かあったの? 随分長い間休んでたみたいじゃない」 随分親しげに、安藤は流奈の傍まで近づいて、顔をのぞきこむようにして話しかけている。 片や流奈は、明らかに迷惑顔だ。 「ちょっと、……体調崩してて」 「体調? 随分元気そうに見えるけど?」 「だから、治ったのよ、もう」 「本当に? でも、いつもより顔の色が冴えないわよ」 一見優しげな安藤の口調に、あからさまな棘があるのと、流奈の目にはっきりと険が立ったのとで、2人はもともと仲が悪いのだと果歩は察した。 いやだなぁ。なんだかとんでもない場所に居合わせちゃった気分だ。 ただ、流奈が同性に嫌われるのは、本人の性格のなせるわざとしか言いようがなく、ある意味自業自得なのだが……。 「あ、そうだ、入江係長によろしくって伝えておいてくれる?」 不意に勝ち誇ったように、安藤は顎を逸らした。 「このあいだ、飲みに連れていっていただいたの。須藤さんの昔の知り合いなんだって? 世間って狭いのねぇ、驚いちゃった」 背後の取り巻きたちが、耐えかねたように、一斉に失笑めいた笑いを洩らす。 その口調で、入江耀子の口から整形の事実が漏れたのだと、果歩は察したし、流奈も当然、理解したはずだった。 「でもよかった。須藤さん、元気になったみたいでー」 皮肉たっぷりな声でそう言った刹那、安藤の綺麗な目が、射るように果歩に向けられた。 ――ん? 果歩は戸惑って瞬きをする。 なんだろう、今、ものすごく強い敵意を感じたような気がしたんだけど。…… が、すぐにその目はなんでもないように逸らされ、再び標的に向けられた。 「ほら、色々噂が広がってるじゃない? 私だったら、恥ずかしくて二度と役所に顔を出せないかもしれないもの。本当、須郷さんの強さには憧れちゃうわ」 さすがに果歩は眉をひそめている。流奈にどれだけ恨みがあったのかは知らないが、市長秘書安藤香名が、相当性格が悪いのだけはよく判った。 それに――入江耀子。 黙っているはずがないとは思っていたけれど、やっぱり、あちこちで人に言い回っているんだ。……。 流奈の背中は動かない。 果歩は胸が痛くなった。このまま、流奈が、ますます精神的に追い詰められてしまったら……。 が、 「そんなにうらやましいなら、そのソーセージみたいな太い唇をなんとかしたら?」 あっけらかんとした明るい声。 果歩は驚いて、顔を上げていた。 可愛い唇に小悪魔にも似た冷笑を浮かべ、流奈は安藤を挑発的に見上げている。 「なんだったら、香名ちゃんにもいい病院紹介してあげようか? 脂肪吸引もできるところ。そのウエスト、63よりは出てるでしょ」 「なっ」 怒りを剥き出しにした市長秘書が、はっと腰に手を当てたので、その言葉がはったりでなく図星だと果歩にも判った。そういえば……バランスは悪くないが、少々寸胴体型に見えなくもない。それを服で上手く誤魔化しているという感じだ。 「私なんて、最近体調崩しちゃったから、58がゆるゆるで」 実際、身長が低いという点をマイナスとみるのなら、それ以外の点では流奈のプロポーションは完璧だった。 ほどよい丸みを帯びたバスト、きゅっとくびれたウエスト、すらりと伸びた形良い足――。 「あら? そこも須藤さんの御用達?」 すかさず、安藤が厭味たっぷりに切り返す。 「ううん。昔からサイズは全然変わらないの。ありがとう、色々心配してくれて」 片や、流奈の笑顔に屈託はない。 「……友達だもの」 「そうね」 にっこりと笑う流奈のほうが、この圧倒的不利な状況の中で、何故か勝者のように見えた。 唖然と、この光景を見つめていた果歩だったが、――胸に澱み続けていた何かが、その瞬間霧散して、綺麗に消えさったのを感じていた。 流奈、復活。 まぁ、ライバルの復活は――自分的には、あまり喜ばしいことじゃないのかもしれないけど。 「よかったわね。ひとつでも他に誇れるものがあって」 さらなる厭味を連呼しながら、安藤香名は悠然と微笑する。 が、その目に凄まじい焔が燃え立っていることに、果歩はむしろ軽い寒気を覚えていた。 「行きましょ、皆さん」 失笑、うすら笑い、冷ややかな無関心、様々な表情を浮かべ、集団が動きだす。 果歩の傍らを通り過ぎる時、安藤香名の眼差しが、再び強い反感と敵意をこめて、投げかけられた。 戸惑ったまま、果歩は軽く目礼する。 ……? なんだって私がこの人に恨まれる? 仕事では前任に当たるけど、果歩が市長室にいたのはもう何年も前の話だし、個人的には話したことさえない相手なのに。 が、安藤らがエレベーターホールに消えた後、果歩はようやく思い出していた。 そうか、忘れていた! あの人が、晃司の……、今、つきあってる彼女じゃなかったっけ、噂が間違いじゃなかったら。 「的場さん」 流奈の声で我に帰る。 「あとで、時間いいですか、……5時過ぎになりますけど」 「え、いいけど」 流奈の目は、強い叛気を浮かべたまま、安藤らが消えた方に向けられている。 「話したいことが、あるんです」 それだけ言うと、返事も聞かずに、流奈はさっさと歩きだした。 ************************* 16階の食堂。 流奈は、エレベーターホール横にある人気のない休憩室で、ぼんやりと窓の外を眺めているようだった。 「ごめん、なかなか片付かなくて」 果歩は声を掛け、取りあえず壁際の自販機コーナーに向かった。 「何か飲む? おごるけど」 「いえ」 振り返った眼には、冷たい反感が溢れている。「そんなところで、妙に上目線しないでくれます? 的場さんにおごってもらう理由なんてないですから」 「…………」 まぁ、無理に奢ろうとも思わないけど。 自分だけコーヒーを買って、流奈の隣から、ひとつ空いたベンチに腰掛ける。 「これ、お借りしたお金です」 封筒が、2人の間のベンチに置かれた。 「……うん、わざわざありがとう」 あの夜のタクシーと洋服代。返さなくていいと言うほど、果歩にしても、恩きせがましい真似をするつもりはない。 そのまま、流奈は黙っている。 不思議な沈黙は、ただし、さほど気づまりでもなく、果歩は黙って缶珈琲を飲んだ。 「言ってもいいですか」 いきなり、流奈が切り出した。 「的場さん、バカですか?」 「…………」 意味が判らず、唖然とした果歩は、ややあって缶を握りつぶしそうになっていた。 が、果歩が口を開く前に、流奈はきつく尖った顔を上げる。 「私のついた嘘なんて、藤堂さんと話せば、すぐにでもわかっちゃうことなのに。バカっていうのが間違ってたら、的場さん、実は本気で藤堂さんのこと好きじゃなかったんじゃないですか?」 咄嗟に反論しようとした果歩だが、言葉はその刹那詰まっている。 本気――本気。 何をもってそれを測ればいいのだろう。確かに私は、彼が好きなんだけど。 「藤堂さんには、婚約者がいたんでしょ」 冷静を装って果歩は言った。 「その話なら、私だって知ってるわよ。藤堂さんが、私に隠したくて……流奈に、協力してくれるように頼んだってことくらい」 「は?」 心底呆れた目で、流奈はまじまじと果歩を見つめた。 「意味わかりませんけど、そんな馬鹿げた話、もしかして本気で信じてるんですか?」 「え?」 「彼が私に協力を? 馬鹿みたい、そんな幼稚な真似、藤堂さんが本気でするような人だと思ってるんですか」 果歩はただ、絶句する。 「言っておきますけど、私、藤堂さんに何も頼まれていませんよ」 「だって、……だって、藤堂さんが、確かに私に言ったのよ」 「……藤堂さんが……?」 呟いた流奈の横顔に、険しいものがよぎる。そのまましばらく沈黙があった。 果歩は激しい動悸を感じている。 馬鹿げた話? 何がだろうか、婚約者がいたということ?――それとも、流奈と共謀していたということ?―― 「そもそも、あの人が藤堂さんの婚約者かどうか……すごく微妙だと思いますけど」 ようやく流奈が口を開いた。 「あの人?」 「藤堂さんは、カグヤって呼んでました。ふざけた名前だから、ニックネームかと思ったけど、本名みたい。香る夜って書いて、かぐや」 香夜。―― 果歩は胸の裡で呟く。 心の底のほうで、ちりっと何かが鳴ったような気がした。 「会ったこと、あるの?」 「ありますよ、何度も」 短く答えた流奈は、わずかに肩をすくめてみせた。 「私の勝手な印象ですけど、自分が婚約してるって認識、藤堂さんには全然なかったと思いますよ。何か家の事情があるみたい……それは、私には判りませんけど」 「…………」 認識がなかった? じゃあ彼は、なんだってあんな嘘をついたんだろう。 家に訪ねてくれた時、一言、そう弁明してくれたらよかったのに。わざわざ自分が悪者になる必要は何もなかったのに。 「っていうより、藤堂さん、とにかく逃げてる感じでしたね。いきなり出てきた自称婚約者から。私が協力したっていうなら、多分その辺りかな、っても、一方的な協力ですけど」 「何をしたの?」 「私が藤堂さんの彼女です、だから彼のことは諦めてって、まぁ、もっとえげつない言い方しましたけど、実際は」 それは、いつのことだろうか。 果歩は、ただ混乱している。 流奈と藤堂の間に、秘密の逢瀬めいた疑惑を感じていた頃。――そして、部屋に行った時、いきなり中から出てきた流奈。 でも、どうして、それが私でなく流奈だったのだろうか。 本当に婚約者を迷惑に思っているなら、彼女だと宣言するのは、私でもよかったはずなのに。藤堂さんが、一言でも相談してくれていれば、多分そうなっていたはずなのに。 「言いましたよね。私の本気は怖いですよって」 果歩の内心を見透かしたように、流奈は言った。 「私、何度も彼の家に行ったし、毎晩みたいに電話しました。嘘ついて部屋に上がり込んだこともありますし、酔っ払って泊っちゃったこともある。もう、使える手ならなんでも使いました。どうしたって的場さんから、彼を奪いたかったから」 「…………」 果歩には、想像もできない、真似さえできない大技の数々である。 一瞬、頭に血が昇りそうになったが、流奈の目を見た時、その感情は収まっていた。 「そうやって私、彼のプライペートにどんどん踏み込んでいったんです。すごいでしょ、ストーカーと同じですよね。携帯の履歴も見たし、部屋にあった手紙も見ました。鍵だって、複製して持ってます」 早口でまくしたてる流奈の目に、必死に押し殺したような感情の波が滲み出る。 「普通怒りますよね? どんないい人だってそこまでされたら怒りますよ。でも、藤堂さん、全然怒らないんです。何しても、本当に全然。……ずっと勘違いしてたけど、それは、私のことが好きだからじゃないんですよね。……距離は1ミリも埋まらない。あの人は、私が諦めて離れていくのを、ただ黙って、待ってくれていただけなんです」 奇しくもりょうと同じことを言う流奈を、果歩はただ、不思議な気持ちで見つめている。 「マジむかつく、まだ、はっきり嫌いだって言われたほうが楽なのに。……ほんっと、サイテー」 ぎゅっと拳を握った流奈が、目のあたりを拭う仕草をする。 確かにその刹那、藤堂は全ての女の敵だった。果歩がりょうと流奈に代わって平手打ちしてやりたいほどだ。 感情のもっていき場に迷う果歩の前で、けれど流奈は、意外にもすっきりとした顔を上げた。 「まぁ、そんな感じで、香夜って女にも会うことになったんですよね。必然的に、藤堂さんの部屋でパッティングです」 「綺麗な人?」 「並ですね。容姿だけを言えば」 あっさりと答える流奈は、すでにいつもの流奈である。 「彼女がいきなり訪ねてきた時……あんなに慌てた藤堂さんを見たのは初めてで、すごくびっくりしましたけど、逆にチャンスだとも思ったんです」 「チャンス……?」 ちらっと、流奈の冷ややかな目が、果歩を捕らえた。 「だって、これで私、的場さんには勝てると思いましたから」 その言葉は聞き捨てならなかった。私? そこで、何故私が出てくるのだろう。 「だってそうじゃないですか」 猫のような流奈の目に、挑発的な笑いが浮かんだ。 「的場さんが聞いたら、激怒するしかない事実ですよ? その時の藤堂さんの態度で、私、はっきり判ったんです。彼には、自信がないんだって、ううん、自信がないどころか――的場さんに好かれてる自覚さえないんだって」 どういうこと……? 眉を寄せる果歩に、皮肉に笑って流奈は続けた。 「私にしてみれば、初めて掴んだ藤堂さんの弱みだから、それはもう、最大限に利用させてもらいました。彼のお母さんにも会ったし、香夜さんにも会いに行った。私が、藤堂さんの彼女ですって、いろんな所で宣言しました」 そんなことまで。 呆れた流奈の行動力に、果歩はもう言葉もない。 「香夜さんのことは、藤堂さん、本当に困ってたし、悩んでた……。ただ、それ、最初のうちだけで、すぐに彼の中で、何かの結論が出たみたいでしたけどね」 なにもかも、今、初めて知る藤堂の胸の裡だった。 呆然としながら、思わず果歩は呟いている。 「どうして……」 流奈の話が本当なら。 どうして藤堂さんは、私に一言も相談してはくれなかったのだろう。 自信がなかった? そんなことってあるのだろうか。あんなに何度もキスをして。――彼より私のほうが、絶対に好きな気持ちをはっきりと態度にしているのに。 ある意味、部屋で、藤堂に婚約者がいると告げられた時より重い衝撃だった。 いったい、藤堂さんにとって、私ってなんだったんだろう。 そんなにも軽い存在だったのだろうか。―― 「きついこと言っていいですか、ある意味、とどめになるかもしれませんけど」 乾いた流奈の声がした。 果歩は答えられないまま、視線だけを下げる。 「最終的に私が負けたのは、香夜さんですから」 「…………」 「事情はよく判らないけど、彼と香夜さん、過去に、何かあったんだと思いますよ。元々つきあってたようにも見えたし、今でも未練があるように見えたし、なんていうのかな、……あの藤堂さんが、完全に手綱を取られてる感じだったから」 それは確かにとどめだった。 「だから、余計に、的場さんには言えなかったんじゃないですか。最初はそうじゃなくても、途中から、……本気で二股状態になりかけてたから」 それでも、一度。 彼が全てを打ち明けようとしてくれた夜が、確かにあった。 あの日、会わせたい人がいると言われた夜。あれは――もしかすると。 「最初に、嘘をついたって、言ったわよね」 自分の声が、少し怖くなっている。 「言いましたよ」 あっさりと流奈は頷く。 「的場さんには、私から全部事情を説明したって言ったんです。的場さんはプライドが高い人だから、婚約者がいるような人には関心がなくなったみたいだって言いました」 さすがに、果歩は立ち上がっていた。 「なんで、どうしてそんな嘘をついたの?」 「嘘? 確かに嘘ですけど、そんなの、すぐにバレちゃう嘘ですよね。私は、彼に的場さんに近づいて欲しくなかった。2人で共有している秘密を的場さんに漏らして欲しくなかった。それだけの気持ちで、必死に彼を繋ぎとめただけですけど」 「…………」 「だから最初に言ったじゃないですか。的場さん、この一か月、いったい何をやってたんですか? 一度でも藤堂さんとまともに話したことありますか? 彼につけいる隙を、ちゃんと与えてあげてたんですか」 「…………」 「私から見ると、全然そうは思えなかった。いつもつんつんして、藤堂さんが話しかけようにも、話しかけないでオーラを出しまくってるように見えました。そんなだから、藤堂さん、いつの間にかあの女に、心を奪われちゃったんじゃないですか」 手を振り上げていた。でも、下ろせなかった。全部――流奈の言うとおりだったから。 流奈はかすかに笑い、果歩から関心を失ったように、窓の外に視線を転じる。 私……。 私が、私のほうから、彼の手を離してしまったのだろうか……。 そして、その手はもう。 二度と取り戻せないものなのだろうか。 「……流奈、教えて」 「なんですか」 「藤堂さんは、何者なの?」 「自分で聞いたらどうですか」 冷たい声だった。 それでも、果歩は、流奈に腹立たしさを感じる反面で、流奈が女として――ある意味、自分より一歩も二歩も先んじていることを認めざるを得なかった。 晃司の言うとおりだ。 流奈は必死だったのだ。その動機が意地なのか何なのかは知りようがないが、果歩が今まで――これからも、越えられないと思っていた幾重もの壁を、すでにあっさりと乗り越えている。 「香夜さんって、どんな人なの」 「聞いてどうするんですか。言っときますけど、相当手ごわい相手ですよ、彼女」 口調はそっけなくても、振り返った目は、どこか楽しそうでもあった。 試すような眼が、じっと果歩を見上げている。 自分に、あるだろうか。 果歩は、迷いながら眉を寄せる。 彼と自分が置かれた環境の違いを全て知って、それでも、恐れずに追っていける勇気が。 ほかの人に心を奪われかけていると知っての上で、それでも向かっていくだけの想いが―― |
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