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年下の上司 story7〜 October

もう1人の年下の上司(6)


「今、帰りですか?」
「うん、前園さんは?」
「僕は残業で、コンビニです」
 それだけで会話が途切れる。
 時間差でエレベーターを降りて、庁舎北側出口で、偶然を装って合流する。
 つきあっていた頃と同じやり方に、晃司は居心地が悪そうだったし、それは果歩も同じだった。
 今と違うのは、果歩の行き先が、コンビニではなく晃司のマンションだったことで――だったら別に、残業する晃司とわざわざ一緒に帰る必要は何もないのに、それでもあの頃は、お互いわずかな時間を惜しんでも、一緒にいたかったのかもしれない。
 ドキドキするような駆け引きと、ぎこちないすれ違いを経てようやく両想いになって。
 初めてキスして、初めて彼の部屋に泊まった頃。
 恋が、楽しくて楽しくて、仕方がなかった頃――だ。
「またコンビニで夜食?」
 晃司が、いつまでも態度を硬くしたままなので、果歩が言葉を崩してやった。
「ええ、まぁ……どうせ10時まで残りですし」
 所在なく、晃司が眉のあたりを掻く。
「私がお弁当作ってあげようか」
「ぶっ」
 と、吹き出して慌てて周囲を見回した晃司から、初めて緊張の色が解ける。逆に果歩には、晃司のらしからぬ慌てっぷりが面白いというより珍しくて、うろたえる顔をまじまじと見つめている。
 が、むろん、ああも気まずい別れ方をした2人の距離が、にわかに縮まるわけではない。
 晃司の後をついて歩きながら、果歩は改めて訝しさを感じ、首をかしげていた。
 ――てか、いったい私に何の用だろう、今さら。……
 コンビニを通り過ぎ、人家の途切れた路地の自販機の前で、ようやく晃司が足を止めた。
「飲む?」
 ううん、と首を振り、果歩は自販機にコインを入れる晃司の背中にようやく訊いた。
「私に話って……何?」
 うん、と晃司は曖昧な目で頷く。何か、とても言いにくい話をされる匂いを察し、果歩は少しばかり身構えていた。
「いや、別に話ってほどでもないんだ、……悪かったな。こんな風に呼びだして」
 コーヒーのプルタブを切った晃司の横顔は、どこか苦い笑みを浮かべていた。
「まさか、本当に待っててくれるなんて思わなかった。話があるなんて言ったら、ばっさり、断られると思ったよ」
「だって、すごく言いづらそうにしてるのが判ったから」
 それに――。
 プライドの高い晃司の性格からして、あんな別れ方をした以上、二度と言い寄られることはないと判ってるから。
「言いにくいな、誤解されそうで」
「へんな意味の誤解なら、しないわよ」
「うん……まぁな」
 それでも、ひとつ嘆息し、晃司は無言で缶に唇をつけている。ややあって、初めてその唇が動いた。
「実は、須藤のことなんだけど」
 そっちか。
 果歩は、初めて驚きを覚え、年下の元彼を見上げている。
「と……」
 と?
「藤堂と結婚するって本当?」
「はっっ?」
 コーヒーを飲んでいたら、多分盛大に吹き出していた。
 これっぽっちも、予想していなかった話題である。
 てっきり、最近休みがちだという、その辺りの話だと思ったのに――。
 驚きはやがて、胸が冷えるような失望に変わり、果歩はかろうじて、その感情を飲み込んで微笑してみせた。
「どっから、その噂?」
「まぁ……色んなとこから」
 秘書課かな、と果歩は内心思っている。あそこは、庁内の噂の宝庫だ。民間登用の係長は、役所ではある意味有名人で、動向は常に注目されている。
「で……」
 が、晃司の話は、そこが本題ではないようだった。
「お前、須藤のこと、怒ってんの?」
「…………」
 怒っている。
 なんて微妙な質問だろう。怒っているといえば、ものすごく怒っているけど、それを役所で表に出したことはない――つもりの果歩である。
「ごめん、話がまるで読めないんだけど」
 この話題に拘られることへの抵抗から、口調が冷たくなっている。
 気おされたように、晃司が、ひとつ息を吐いた。
「そだな、……悪い」
 素直に謝られて、果歩は内心驚きながら、視線を決まり悪く横に逸らす。
「ちょっと気になったから、……まぁ、お前がそんなことするなんて、俺には信じられないけど、なんつーのかな」
 なんだろう。
「職場イジメの首謀者みたいな言われ方されてたから、お前」
「………………」
「須藤、最近よく休んでるだろ。それ、お前がいじめてるせいだって、そういう噂を耳にしたんだ」
 え?
 私が?
 愕然とした果歩は、しばらく言葉が出てこなかった。
「どういう意味、なんで私が」
 動顛して矢継早に口にした果歩は、確かにそう取られても仕方のない立場に自分が追い込まれていることに――気がついた。
「……流奈が、言いふらしてるんだ」
 晃司は答えず、コーヒーを一気に飲み干してダストボックスに投げ込む。
「それ、わざわざ私に言いたくて?」
「……うざいと思ってるだろ」
「…………」
 果歩は唇を噛んで足元を見つめる。
 やっと判った。
 直接的ではなくても、藤堂もそういった杞憂を想定して、忠告してくれたのだ。
 秘書課情報が晃司レベルにまで伝わったということは、その外聞の悪すぎる噂が、全庁に広がるのは時間の問題だということになる。
「ありがとう……気をつける」
 晃司への素直な気持ちは、同時に藤堂への気持ちでもあった。が、それを伝えることは、絶対にないだろうという気もしていた。
 てゆっか、もっと判りやすい言葉で言ってよ、頼むから!
 ああ……でも、とんでもなく激昂している女を前に、そりゃあ……言いにくかったのかもしれない。
 ――それにしても、流奈の奴……。
 さすがに、果歩は、歯軋りでもしたい気分だった。
 わずかでも同情した自分が、本当に愚かしい。大人しくしているのは見せかけだけで、きっちり報復していたということだ。
「……須藤とは違うと思うよ」
 ぼそり、とした声だった。
「え?」
 果歩は顔を上げている。晃司は、言いにくそうに自身の髪に手をあてた。
「別に庇ってるわけじゃないけど、あいつに、役所中に話広げるほどの人脈なんてねーし……。そりゃ、なんでもするようなエキセントリックなとこはあるけど、そこまで陰湿な女じゃないと思うし」
 果歩は、唖然と口を開けた。
 まさか、ここにも、恋にとり憑かれた男が一人?
 晃司は、あの女の本性を知らないから。
 こっそり、部屋に使いかけの焼き肉のタレを残したり、時計を送りつけてみたり。
 あれを陰湿じゃないというなら、いったい陰湿の定義ってなんだろう。
「今、怒ってるだろ」
「当たり前じゃない」
 きつい口調になっている。一瞬たじろいだものの、晃司は窺うような眼になって果歩を見下ろした。
「結婚はともかく、須藤が藤堂と付き合ってるってのはマジなわけ?」
「…………」
 無言で唇を噛んだのが、多分答えになっている。不覚にも悔しさで、涙が膨れ上がりそうになった。
 どうしていつも流奈なんだろう。
 どうしていつも、私が好きになった人は、流奈に惹かれていくんだろう。
 晃司は軽く息を吐き、所在なさげに前髪を払った。
「悪かった」
「もういい、帰ってよ」
「悪かったよ、傷つけるつもりじゃなかったんだ」
「別に、謝ってもらう必要なんてないから」
 しばらく黙っていた晃司が、再度、深く息を吐く。そして――おもむろに呟いた。
「俺、彼女できたんだ」
 ああ、そう。
 秘書課の安藤さんのことだろう。つか、そんなこといちいち元彼女に報告する?
「だからさ」
 不意に腕を掴まれる。果歩は吃驚して、怒ったように歩きだした晃司の横顔を見上げていた。
「へんな意味じゃねぇから、一緒に、メシ、食いに行こう」

 *************************

「知ってる? この灰谷市の、役所人口」
「知ってるよ、犬も歩けば、職員に当たる、だろ」
 どうなっても知らないんだから。
 果歩は、まだ膨れたまま、最後のデザートを口に運んだ。
 本庁、8区、その他施設を合わせた市の全職員数は万単位に上る。しかも、こんな役所の近くのレストランで――知り合いに顔を見られるなというほうが難しい。
「できたばかりの彼女に叱られても知らないわよ」
「まだ、叱られるような仲でもないよ」
 晃司は、食欲がないのか、サンドイッチを摘まんだ後は、コーヒーばかりを口に運んでいる。
 ふぅん。
 果歩は、据わった眼で、頬杖をついていた。
 じゃ、まだ、ドキドキキュンキュン、恋愛のし始めの、一番おいしいとこですか。
 ふぅん、いいわよね。若い人ってのはさ。
「てかお前、コーヒーとケーキで酔っ払ってね?」
「別に」
 ぐさり、とフォークでフルーツのタルトを串刺しにする。
 でも、ここに入った最初より、随分気持ちが楽になったのは確かだった。
 それは――あまり口に出して言いたくはないけれど、多分、晃司が……一緒にいてくれるから。
「ここの払い、割り勘でいいからね」
 果歩は水を飲みながら、少し落ち着いた気分で対面の人を見上げた。
「ありがと……。お腹いっぱいになったら、なんだか元気もでてきたみたい」
「いや、単に俺が、腹減ってただけだから」
 そうは思えなかったが、そこは素直に頷いておいた。
 晃司は晃司なりに、私と流奈の決裂のきっかけとなったことに、責任を感じているのかもしれない。
 ――というより、単に休みっぱなしの流奈のことが、心配だったのかもしれないけど。
 なにしろ、果歩からみれば陰湿としか表現しようのない流奈を、全面的に庇ったのである。
 そこに思いが至ると、やや皮肉な気持になるが、果歩自身が気に掛けている流奈のことを、同課の晃司が同じように思ってくれているというのは、少しばかり安心できる要素ではある。
 レジ前で腕時計を見ると、もう役所を出てから1時間が経過している。驚いた果歩は、さすがに晃司に申し訳ない気持ちになった。
「ありがとね……つきあってくれて」
「別に、俺がつきあってもらったんだし」
 そっけない声も、なんだか妙に心地よかった。
 本当に少しの間役所を出るだけだったのだろう。ネクタイを外し、上着を持っていない晃司は、秋の夜には少しばかり寒そうなスタイルに見える。
 店を出て2人で夜の街を歩きながら、果歩はようやく、素直な気持ちになっていた。
「晃司が、そんなに流奈のこと好きだったなんて、知らなかったな」
 ぎょっと、一瞬、晃司の横顔が妙な強張りを見せたのが判ったが、別に厭味で言ったわけではない。
「……好きって……そういうわけでもねーけど」
 逸らされた横顔が戸惑っている。
 また、男らしくない言い訳が、その後に続く気がして、果歩はやや強い口調で言葉を繋いだ。
「だって、そうじゃない。新しい彼女まで出来たのに、流奈のことが気になってるんでしょ」
「……? は?」
「気になってなきゃ、流奈のことで、いちいち、私なんかに忠告しないでしょ」
「…………」
 びっくりしたように、何か反論しかけた晃司だったが、何故か視線は、溜息まじりに逸らされた。
「まぁ、そりゃ気にはなるよ。てか、人間として、気にならないほうがどうかしてるだろ。……いっぺんでも……なんつーのかな、つきあった相手が、なんかこう辛そうだったら」
 果歩は、今度こそ本当に驚いていた。
 実のところ、先ほどの言葉は、意識せずに言った厭味であることに、果歩自身がようやく気がついていたのだが――まさか、図星だったなんて。
 仕事以外ではひたすらクールな晃司が、そんなに優しい男だったなんて。
 というより、流奈の様子は、職場でもそんなに深刻なのだろうか。――
 そこは少々、聞き捨てならない部分だった。
「流奈って、そんなに辛そうなの?」
「えっ?」
「だから、そんなに辛そうにしてるの?」
「……いや、辛そうなのは」
 何か反論しかけた晃司だったが、諦めたような溜息とともに言葉をのんだ。
「俺も、そこまでじっくり須藤を観察してるわけじゃねぇから」
「じゃあ、よく見てきてよ。私じゃ、普段の様子まで判らないから」
「俺が??」
「だって、晃司が言いだしたことじゃない」
 果歩はむっとして、面食らう晃司を見上げている。
 なに? この、微妙に噛みあわない会話は。
 不本意ではあるが、もし、本当に――流奈が精神的に追い込まれているなら、自分に責任がないとは言えない。
 いや、むしろ藤堂の指摘するとおり、入江耀子より強い責任があるのは、自分なのかもしれない。
「お前も、よく分かんない女だな」
 何故か、晃司の声が呆れている。
 結局は2人で同じ方向に歩き、役所はもう目の前だった。
「てっきり須藤のこと、恨んでるのかと思ったよ」
「それとこれとは……別よ」
 そこに踏み込まれると、不愉快な気持ちが倍増する。
 が、職場のことは、プライベートな感情とは潔く切り離さなければならない。
 一緒にしてしまったら、一緒にしていると見られてしまったら、ますます自分の置かれた立場が惨めなものになるだけだ。
「藤堂さんのことはいいのよ、もう割り切ったんだから」
 果歩はさばさば言って、淡い月の滲む空を見上げた。
 少し意地悪い気持ちになったのは、1人冬の中に取り残された女の意地なのかもしれない。
「本当に今回はよく判った。男の人って、しょせん、若くて可愛くて、小悪魔みたいな女の子に弱いんだ」
「な、なんだよ、その端的な決め付けは」
「だって、その通りじゃない」
 冷やかに晃司を横眼で見る。
「私こそ、親切で忠告するけど、彼女ができたなら、もう、そんなのに迷わされちゃだめだからね」
「はぁ??」
 今度、不服そうにうつむいたのは晃司のほうだった。
「あのさ……ひとつ、いい?」
「なによ」
「ちょい……きつい、言い方かもしんねーけど」
「…………」
 果歩の返事を待たず、晃司は両手をポケットに突っ込んで歩き始めた。
「俺、最初、須藤のことなんか、なんとも思ってなかったよ。頭悪そうだし背も低いし、あ、俺、基本背の高い女が好みだから」
 あ、そう。
「子供みたいな体型してるし、顔も……可愛いけど童顔だし、服の趣味もいまいちで、――まぁ、全く対象外って感じでさ」
「ふぅん……」
 意外だった。そこまでの低評価を、晃司が流奈に下していたとは。
「でもさ、一生懸命なんだ、あいつ」
「…………」
「今思えば、全部計算だったのかもしんねーけど、必死に俺にくらいついてくるんだ。何度も何度も何度もふったよ。俺にはつきあってる奴がいるし、お前なんて全然タイプじゃないからって」
「………………」
「それでも、全然めげねーんだ。こっちが後ろめたくなるほど冷たくしても、次の日には犬みたいにくっついてくる。それが……だんだん可愛くなってきてさ」
(果歩はさ、やれること、全部やった?)
 りょうの言葉が、不意に胸にひらめいた。
(自分の気持ち、全部藤堂君にぶつけて、藤堂君の気持ちの全部を聞き出してみた?)
「ま、それがあんな振られ方したんだから、俺も女を見る目がなかったんだろうけど」
 自分から迫っておいて、ある意味果歩より手ひどいやりかたで晃司を袖にしたのが流奈である。
 果歩は、不思議な気持ちで晃司の冷めた横顔を見上げる。
 なのに、晃司は、どうして流奈を恨んだり怒ったりしていないんだろう。
 あれから、色々あったけど、晃司が流奈のことを悪くいったことは、多分、一度もなかったような気がする。
 果歩がそれを訊くと、晃司は苦笑交じりに髪をかきあげた。
「そりゃ、むかついたし、怒りもしたよ。最初はな」
 その目が、遠くに逸らされる。
「ただ、あいつも可哀想な奴なんだなって、後になって思ったよ。あいつはさ、お前が思うほど自信満々の女じゃないよ。あいつは多分……お前に勝っていたいだけなんだ」
「私に……?」
 無言で、晃司は顎を引く。
 果歩は眉をひそめている。
 どういうことだろう。まるで、意味が判らない。
「須藤はさ、他人と比べて勝つことでしか、自分の存在価値を見出せない女なんだ」
「…………」
「逆に、ものすごいコンプレックスの塊なのかなって思ったことがあるよ。須藤にとって、喉から手が出るくらいうらやましい存在が、お前だったんじゃねぇの? よくわかんねぇけど」
「…………」
 晃司と別れ、1人帰途につきながら、果歩は、何故、藤堂も晃司も、流奈に奪われるように心変わりしてしまったのか、その理由がようやく判ったような気がしていた。
 晃司のことは、確かにすごく好きだったし、自分なりに尽くしたと思っている。
 が、どんなに恋愛に夢中になっても、いつも自分は大人ぶっていたし、流奈のようにひたむきに愛情をぶつけることは……多分、一度もなかったと思う。
 ――藤堂さんは……、私なりに、随分頑張ったと思ったけど。
 それでも、プライドの高さとか意地が、どこかで気持ちを頑なにさせてはいなかっただろうか。
 喧嘩しても、誤解があっても、それを自分から解決せずに、向こうがアクションを起こすのを待つだけで。
 今回だって、……こんな風に、完全に決裂してしまう前に、もっと早く、私のほうからごめんなさいと言っていれば……。
「……てか、なんで私がごめんなさい?」
 ふと気づき、果歩は憤慨してぶるぶると首を振る。
 それはやっぱり違うと思う。今回のごめんなさいは、絶対に藤堂さんだ。
 でも――。
 私が、それを言わせなかった。
 言わせないで、頑なな壁を作っている間に、あの人の心は、他の誰かに奪われてしまったのだろうか……。
 プライドや意地をかなぐり捨てて、恋愛に一生懸命になっていた女の子に。


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