本文へスキップ

年下の上司 story7〜 October

もう1人の年下の上司(7)


「藤堂君、ちょっと」
 課長の志摩に呼び止められた藤堂は、頷いてから局次長室に入った。
「悪いね、5時前になって」
「いえ、どうせ残るつもりでしたから」
 中では、春日次長が応接ソファで書類を広げている。その対面にもう一人、藤堂には初見の男が座っていた。
 切れ長の細い目を持つ男は、能面のように白い顔をわずかも動かさず、ただ、眼差しだけで会釈をする。ふちのない薄い眼鏡。厚みのある髪は短く刈り込んで、いかにも官僚という雰囲気が漂っている。
「こちら、人事課のスメラギ君だ」
 志摩の簡単な紹介で、事前に名簿で見ていた名前と一致した。
 皇庸介――人事課庶務係の主査である。
 いったいどういう理由で人事課の、しかも、直接人事に携わっていない庶務係の主査が同席しているのか判らないまま、藤堂は一礼して、末席につく。
 ごほん、とくぐもった咳ばらいをし、志摩が視線を下げたままで口を開いた。
「来年の人事編成のことで、少し君から、事情を聞かせてもらいたいことがあるんだがね」
「はぁ」
 と答え、藤堂は、書類をめくる春日次長をちらりと見る。
 来年度の人員要求なら、すでに一連の行程が済んでいるはずである。
 同じように書類を見ていた皇が、手にしていたペーパーを卓上にそっと置く。
 決して一般には公開されない、人事課用の職員履歴カード。そこに書かれている記名を見て、藤堂は眉をひそめていた。
 的場果歩。
 ごほん、と、志摩が再度咳ばらいをした。
「那賀局長の根回しのおかげといってもいいのかね。……それとも、最近の的場君の仕事ぶりが、評価されたのかもしれないが」
 言葉を切った志摩課長が、藤堂の前にメモを示す。
 議会事務局秘書課。
 書かれている部署は、市会議員専用の秘書室である。
「こちらの局長から、内々に話があった。来年度、的場君をどうかという話だ」
「いい話だと思います」
 感情を抑え、藤堂は冷静に頷いた。
 若い女性なら、まず憧れるであろう、花形職場である。
 元市長秘書だった彼女が返り咲くには、最もふさわしい職場――なのかもしれない。
「私も、いい話だと思った。ずっと冷遇されていたが、的場君は本来、このような仕事に向いている。雰囲気の華やかな、非常に気のつく女性だからね」
「………」
 藤堂は黙っていた。
 彼女にとって何が一番いいのか、正直言うと藤堂はまだ迷っているし、判らない。
「民間から来た君には判らないと思うが、役所の人事は、蓋を開けてみるまで判らない灰色の部分が多分にあってね」
 もともと聞き取りにくかった志摩の口調が、さらに低くなった。
 春日と皇は、まだ一度も口を開こうとしていない。
「わかります」
 藤堂は頷く。
 内部の駆け引きと、外部からの圧力――市の場合、それは、概ね、市会議員だったりするのだろう。
「が、この話だけは、ほぼ本決まりだろうと思っていた。先週、あまり芳しくない噂が、人事部長の耳に入るまでは」
 志摩は苦い口調なって、窺うように春日次長の横顔をあおぐ。
 春日が顔さえ上げようとしないので、ひとつ息をついた志摩が、言葉を繋いだ。
「簡単に言えば、的場君に人格的な問題があるのではないかという類の噂だ」
 ぱらり、と紙をめくる音がする。
 視線を書面に落としている皇である。
 薄い唇は赤味が強く、よく言えば歌舞伎役者のような、悪く言えば能面のような、抑揚を欠いた顔をしている。
 いったい、何のためにこの男が同席しているのか――不審に思いながらも、藤堂は志摩に向き直った。
「言われている意味が、よく判りませんが」
「的場果歩が、同じ局の須藤流奈に対して、パワーハラスメント。つまり、権力を利用した嫌がらせをしているのではないか、という噂だ」
「的場さんが、ですか」
 驚きを隠し、藤堂は冷静に念を押した。
「噂というより、中傷だろうな」
 吐き捨てるように口を挟んだのは、仏頂面の春日次長だった。
「問題は、その程度の愚にもつかない噂が、人事部長を動かしたということではないのかね」
 苦い口調の矛先は、無言で書類をめくっている皇に向けられている。
「まってください」
 藤堂は、動揺を堪えて、口調を改めた。
「的場さんは、須藤さんとは部署も違うし、仕事でも関係がありません。職務上圧力をかけられる立場にありませんが」
 ふ、と歯の隙間から息を吐くようにして、初めて皇が表情を緩めた。
「女性特有の……力関係というのがあるでしょう」
 囁くような声だった。
 笑った、というより、心底馬鹿にしたような表情である。
「ありえないと思います」
 きっぱりと藤堂は言いきった。
 眉だけを上げ、皇は手帳に何か書き込んでいる。
「僕があらためて弁明するまでもありませんが、的場さんの職員としての資質は、なんら問題ないと思います」
「だから、愚にもつかない中傷だと言っただろう」
 不機嫌に口を挟んだのは、むっとしたままの春日だった。
「そんな噂は事実無根だ。というより、職場の人間関係のごたごたに、人事まで出張ってくる意味がわからん」
「いってみれば、女子高生のイジメのレベルでもですね」
 いったい何様なのか、皇の口調は、局次長を相手にしているようには思えないほど淡々としていた。
「職場内での立場を利用した嫌がらせとなると、最悪、訴訟にまでなる可能性もありますからね。例えば、須藤流奈が退職し、その親が訴えてくることもあるわけです」
「ばかばかしい、辞めるほうが弱いんだ。そんな弱さで、これからの役所が務まるか!」
「それは強者の理屈ですよ」
 皇はあっさり言うと、唇に淡い微笑を滲ませて、藤堂を見つめた。
 嫌な目だな、と藤堂は内心眉をひそめている。
「あなたも、こちらも方々も、モラルハラスメントの事実はないと否定されたが、この局の女性が対人的な問題を抱えているのは、すでに周知の事実です。それを、どう思われます」
「なんだね、その、モラルハラスメントというのは」
「ああ、これは説明が不足していました」
 ますます不機嫌になる春日に、皇は大袈裟に両手を広げてみせた。
「モラルハラスメントというのはですね。自分より立場の弱い人間に精神的苦痛を与えることにより、自身が満足を得る行為を言います。あなた方が先ほどから連呼されているパワーハラスメントもその一種ですがね。パワーハラスメントが上司の行為を指すのに対して、モラルハラスメントは、より広義に加害者を定義することができるんですよ」
「役所内に、人の軋轢はつきものだ」
 春日が、苛立ったように声を荒げた。
「いちいち、こんなことを言ったら相手が傷つく、これをやったら相手が嫌な思いをする、そんなことを気にしながら、仕事をしろというのかね、冗談じゃない!」
「すでに時代は、高度経済成長時代のイケイケじゃないんですよ、春日次長」
 皇は冷めた目で、遥か高見に立つ上役を眺めた。
「一昔前なら問題にもならなかったことが、大きな社会問題になる時代です。上司に叱責されるくらいで辞めてしまうような弱者は、人事内規を破らない程度に甘やかし、細く長く使うのがこれからの時代だと思ってください」
 春日が、だん、と卓を叩く。
「そんな弱者を採用した、貴様ら人事の責任はどうなる!」
「全てが、私たちの一存で決まるなら、なんの問題もないのですがね」
 皇は、あくまで冷淡な表情のままだった。
「さて、話が少々ずれてしまったようです。戻しましょう。的場果歩の、モラルハラスメントに関する噂ですが」
「あなたが、何かの権限を持って、この件を調査しているなら」
 わずかに強くなった自分の声を、藤堂は膝に置いた拳でやりすごした。
「再度、実際の関係者を中心に、よくお調べになっていただければと思います。的場さんへの中傷は全くの筋違いです。それで彼女の異動先まで左右されるなら、理不尽だとしかいいようがない」
「なるほど、貴重なご意見、ありがとうございます」
 うつむいてメモを取りながら、皇は、こりこりと耳のあたりを掻いた。
「では、的場果歩の人柄や勤務中の態度について、二、三質問があるのですが、よろしいですか」
 藤堂の言葉など、全く耳に入っていないかのような口調だった。

 *************************

「これも、最近の流れというやつなのかね」
 2人になった後も、春日は不機嫌を重苦しく引きずっているようだった。
「たかだか女同士の人間関係が、人事に影響を及ぼすとは、世も末だ」
「まぁ、議員秘書候補となると、人事が念いりに身辺の調査をしますからね」
 志摩は、感情のこもらない声で言い、ちらりと閉じられた扉のほうに目を向けた。
 それにしても、あの男が出張ってくるとは、多少大袈裟すぎるという気がしなくもない。
 人事部長の懐刀、皇庸介。
 志摩や春日でも知らされない人事の裏の裏の闇の部分まで、若干35歳の主査は知りつくしていると言われている。
 普段、奥まった人事部のフロアから決して出てくることのない――ある意味、役所の暗部を背負う男。
「的場君はともかく、藤堂君には、とんだとばっちりかもしれないですね」
「頭のいい男だから、どうして自分がこの席に呼ばれたかくらいは、理解しておるだろう」
 苦く言い捨て、春日はすがめた目で志摩をあおいだ。
「で、君の目からみた状況は、どうだ」
「状況とは?」
「妙な噂は、私の耳にも入っておる。それほど、目にあまるような状況なのかね」
「確かに、多少のぎくしゃくは。が、それはどの職場にも、多かれ少なかれあることですから」
「ふむ」
「ただ、事前に政策部長に聞き取りをしたところ、須藤君自身の口から、的場君からいわれのない嫌がらせを受けて精神的にまいっていると……まぁ、そんなことを打ち明られたという話です」
「…………」
 春日は苦い目のままで腕を組む。
「人事には」
「むろん、直接、政策部長に聞き取りがあったと思いますよ。当然、その程度の話は伝わっているでしょう」
「的場君は……難しい立場だな」
「少なくとも今回の異動内定は、流れたとみていいと思います」
 春日はしばし腕を組み、無言で空を睨んでいた。
「それにしても、話が大きくなりすぎだとは思わんかね」
「まぁ……」
 志摩は、曖昧に口調を濁す。
 春日が何を言いたいのかは分かるが、それをうかと口にするほど、この件に深く関わるつもりはない。
「女性は、話を大きくするのが好きですから」
「女性、ね」
 春日は冷ややかに部下を一瞥し、嘆息した。
「女性とは実にやっかいな存在だ。理屈ではなく、常に感情が先に立つ。組織や責任で話をしても、肝心なところが頭に響いていないときている」
 それこそ、服務管理委員会が飛んできそうな発言だ。
 そう思ったが、志摩は黙って受け流している。
「私も以前、女性の部下を持っていたことがある……非常に扱いづらかった。仕事以外の感情が絡むと、なおさらな」
 聞き捨てならない発言に、志摩が眉を寄せかけた時、くっと春日が顔を上げた。
「藤堂君の総合評価はCだったね。係長としては落第レベルだ」
「私はB評価をつけました」
「中津川君がEをつけているからな。それはいいとして、君のBの理由は何だ」
「人望の面で。彼は、自分を周囲にアピールし、自身の考えを部下に理解させる能力に欠けていると思います」
「ふん……」
「何もかも自分で済ませてしまえばいい。判る人にだけ判ればいいという消極姿勢は、係長職には、若干難があると思いますね」
「仕事はできる……が、確かに人間的には、ひどく不器用なところがあるからな」
「そういう意味で」
 志摩は、わざと言葉に含みを持たせながら続けた。
「今回の、愚にもつかない女性同士の足の引っ張り合いを、藤堂君がどう収めるのか、非常に見物だと思っています」
 
 ************************* 

 午後9時。
 人気の途絶えたホールから、停まったエレベーターに乗り込むと、先客が1人背を壁に預けるようにして立っている。
 藤堂は、静かに目礼し、男と離れた場所に佇んだ。
 ゆったりと降下するエレベーターの中に立っていたのは、今日の5時前、局次長室で対面を果たしたばかりの皇主査である。
 細見のグレーのスーツに、光沢を帯びたネイビーのタイ。
 薄い眼鏡の下は、エレベーター内の照明で光って見えない。
 2人の男は互いに黙ったまま、ランプが一階に下がって行くのを待ち続ける。
「あまり、楽観しないほうがいいですよ」
 ぼそりと囁かれた言葉が、自分に言われたのだと、藤堂はしばらく気がつくことができなかった。
「人事に顔が利く連中はみんな知ってるんです。おそらく春日さんあたりも知っている。知っていて、どうしようもない。あたらずさわらずの黙認です。なにしろ相手は、市の税収を一手に担う三環ですから」
「…………」
「実のところ、とんでもないお荷物を引き受けたんですよ。都市整備局は」
 藤堂は、無言で隣立つ男を見下ろす。
「誰が、猫の首に鈴をつけるんでしょうねぇ」
 独り言のように続ける皇の横顔は楽しそうだった。
「つけられなければ、的場果歩1人が犠牲になるしかない。全体でみれば、それが一番いい解決策ともいえますがね」

 *************************

「的場さん、今日は1日休みだってさ」
 電話を切った南原が、面倒そうに報告した。
「休み? 珍しいね」
 呑気に顔をあげて、大河内主査。
「風邪でっか? 最近、急に寒くなったから」
 宇佐美が心配そうに眉を寄せる。
 南原は、椅子を軋ませて肩をすくめた。
「体調が悪いっつってたけど、二日酔いじゃねーの? 昨日も、女連中と飲みに行く予定でもりあがってたみたいだし」
「ああ、あれですか、例のイケメン御曹司との飲み会!」
 口を挟みたくてうずうずしていた水原が、ここぞとばかりに首をつっこんだ。
「百瀬さんに聞きましたよ。すっごい金持ちのエリート集団と合コンなんでしょ? びっくりですよ。女たちの浅ましさには……。てか、的場さん、焦ってるのかな」
「やっぱ、俺じゃあかんのかなぁ」
 がっくりと肩を落とす宇佐美の頭を小突いた南原が、休暇簿を取るために立ちあがる。そして、ふと気づいたように壁に掛ったスケジュールボードに視線を止めた。
「そういや、今日、9時から会議じゃなかった? 上で」
 ぎょっと宇佐美も顔をあげる。
「コーヒー10杯ですやん! あかん、すぐ淹れてきます」
「10杯? 俺、昨日的場さんから20人は来るって聞いたけど」
「藤堂さん、判りまっか」
 わたわたと動揺する全員の視線が――係長席に座する人に向けられる。
 一拍置いて顔をあげた藤堂は、夢から覚めたような茫洋とした眼をしていた。
「え? なんでしょう」
「……やれやれ」
 南原が肩をすくめる。そして、手にした休暇簿を、ばしん、とその卓上に置いた。
「女房がいないからって、ぼんやりしないでくださいよ、係長!」
「え?? 藤堂さんは、確か……政策部のちっこい女の子と」
 宇佐美の困惑を遮るように、立ちあがった藤堂がふっと重い溜息をついた。
「コーヒーは僕が淹れてきます。宇佐美君と水原君は、会議室のセッティングを。南原さんは変更に備えて、執務室で待機していてください」
 簡潔な指示だけを残し、どこか覇気のない大きな背中が、給湯室に消えていく。
 ややあって、南原と水原が訝しく顔を見合わせた。
「つか、聞こえてんじゃん」
「あ、ある意味怖くないですか?」
 その傍らで、宇佐美が眉を寄せて首をひねる。
「最近、えらい元気がないんやけど、どうしはったんかなぁ、係長も的場さんも……」


>>next  >>contents

このページの先頭へ