騒ぎ声を背に藤堂が給湯室に入ると、先客がカップを棚から取り出している最中だった。 思わず足を止めていた。白のシャツに黒いパンツ、すらりとした後ろ姿。 「あ、おはようございまーす」 入江耀子。 目礼だけを返すと、藤堂は総務のコーヒーサーバーの前に歩み寄った。 「今日、もしかして的場さんお休みですか」 「ええ、そのようです」 「うちの須藤さんも休みなんですよ。もしかして、風邪でも流行っているのかしら」 「………」 手早くコーヒーをセッティングし、執務室に戻ろうとする。背中から「藤堂さん」と声がした。 「ずっと気になってましたけど、私たち、以前どこかでお会いしてません?」 振り返った藤堂は、わずかに瞬きをして、窺うように自分を見つめている長身の女を見る。 「いえ、……記憶にありませんが」 「藤堂さん、民間出身でしたよね。都英建設」 「はぁ」 「本社勤務ですよね。去年まで、そちらにおられたとか」 「はぁ」 「私の友達が、やっぱり本社にいるんです。有宮尚紀っていうんですけど、ご存じありません?」 藤堂はしばし黙り、音を立てはじめたコーヒーサーバーに視線を移した。 「さぁ、僕の周囲には、そんな名前の人はいなかったように思います」 「そうですかー、結構有名な人だったんだけどな」 それでも、期待どおりの返事だったのか、入江耀子はどこか楽しそうだった。 「どちらの部署にいらしたんです?」 「総務です。あまり、目立つような部署ではなかったので」 「どうしてお辞めに?」 「いろいろあったので」 「役所にはどうして?」 「試験を受けたら、たまたま」 「それで、政令指定都市の係長職からスタートですかー。ラッキーですね」 「………」 「あ、悪い意味じゃないですよ。お気にさわったらすいません」 「いえ」 藤堂は静かに目礼し、立ち去ろうとした。 「藤堂さんって、私のこと、警戒してますよね」 「そんなことはありませんよ」 「私ね、判るんです」 ふいに砕けた表情になると、入江耀子は天井を見上げた。 「昔から、人の顔色を読むのがすごく上手いんです。ビビっとくるんですよね。あ、この人私のこと嫌いなんだなーとか、私のこと苦手だと思ってるんだなーとか」 「………」 「あ、今、こいつ、私のこと疑ってるな、みたいなね」 「………」 一瞬垣間見せた素顔は、すぐに爽やかな笑顔で上書きされた。 「ねぇ、藤堂さん、飲みに行きません?」 「そうですね、いつか」 「そのいつかって、全然あてになりませんよね? 約束ですよ。罰として藤堂さんが幹事してくれなきゃ許さないんだから」 上目使いに軽く睨むと、入江耀子は意味ありげに微笑した。 「今度、有宮君を紹介してあげますよ」 「………」 「会って損はない相手ですから。なんでしたら都英のホームページで確認してもらってもかまいませんし」 溜息を堪え――藤堂もまた、唇の端に控え目な笑みを浮かべてみせた。 それを了承と受け取ったのか、にっこりと笑った耀子の眼差しに、ある種の、侮蔑にも似た満足の欠片がよぎるのを、内心、気鬱なものを感じながら、藤堂は見つめている。 なるほど。 ――誰が、首に鈴をつけるか、か。 ************************* 「流奈ちゃん、電話よ」 「いないって言って!」 布団を頭からかぶったままで答える。 枕元のステレオからは、大音量の洋楽が流れている。 ためらったように扉を開けた母親が、溜まりかねたのか、ボリュームを下げた。 「ちょっと! 勝手なことしないでよ!」 「役所をお休みして、いないっていうのは……ないんじゃないの」 黙って起きあがった流奈は、ステレオのボリュームを最大にした。 「流奈ちゃん、お願い、ご近所に迷惑だから」 誰に対しても謝ってばかりの母親が、おろおろと戸惑っている。 「だったら、あんたが謝って回れば」 流奈は突き放し、狼狽した母親は躊躇った様子を見せながらも、やがて静かに扉を閉める。 「…………」 再び布団から出て、ステレオを切った流奈の耳に、苛々するほどへりくだった母親の声が聞こえてきた。 「ええ、本当にすみません。うちの子が……はい、ご迷惑をかけてしまって。誠に申し訳ありませんでした。わざわざご心配いただいて……え、明日ですか? ええ、それは大丈夫だと思います。ええ、伝えます。入江係長さんからということで、明日は絶対に休まないように、ですね」 「…………」 見開いた目が震えだすのが判り、流奈は再び闇の中に潜り込んだ。 あの悪魔が、どうしてうちの役所なんかにやってきたんだろう。 (るーな) (久しぶり、また、一緒に楽しくやろうよ) (昔の仲間も、みーんなあんたに会いたがってるからさ) 枕元に投げてある携帯電話が、また震える。 流奈はびくっと震え、掴んだ携帯を壁に向かって投げつけた。 助けてよ。 ――誰か、助けて。 ************************* 「藤堂さん、私、考えたんですけど」 果歩は、大きく息を吸った。 「理由を訊くのが、本当はすごく怖くて……だから、あんなひどい態度をとっちゃいましたけど、やっぱり、本当の理由を教えてもらえないでしょうか。あ、いえ、未練とかじゃ全然ないんです! 私の中で、きちんとけじめみたいなものをつけたいっていうか」 言葉を切り、んー……と、果歩は眉を寄せた。 いや、違う。 「それが、どんな理由でも、私、すぐには諦められないと思います。その、その…………やっぱりまた、好きなんです!」 「何やってんの、おねぇ」 ぶっと果歩は吹き出していた。 襖の向こうから、訝しげな目で顔を出しているのは、妹の美玲である。 「なんの遊び? 今度職場で、かくし芸大会でもやんの?」 「やらないし、そもそもあんた、何時の間に帰ってきたのよ!」 「1時間くらい前、お姉ちゃん寝てると思って、リビングでDVD見てたんだけど」 ………こいつ、最初から聞いてやがったな。 「心配だから、デート早めに切り上げて帰ってきたんだけど、すっげ、元気そうだね」 「だから言ったじゃない。今日はズル休みなんだって」 「わー、朝から笑えない冗談言ってると思ったら、本気でそうだったんだ」 とか言いながら、美玲は、ペットボトルとポテトチップスの袋を投げてくれた。 そうして、ベッドの端に腰かけ、まじまじと果歩の顔をのぞきこむ。 「なによ」 「いや、最近夜のバイトばっかだったから、久々にお姉ちゃんの素顔みたな、と思って」 「悪かったわね、別人で」 「そんなに完璧にメイクして、毎朝、よく疲れないね?」 「疲れてるわよ。朝も夜も! いいからあんたは出てってよ!」 「ハイハイ」 とんでもないセリフを聞かれた恥ずかしさを怒りで誤魔化し、果歩はぜいぜいと息をした。 勢いでポテチの袋をばりっと破り、一片だけ口に運ぶ。 ――休んじゃった……。 自室から、カーテン越しに差し込む日差しは、もう薄っすらと黄昏ている。 役所に入って9年、いや、義務教育を受け始めてから、多分、初めての――仮病である。 「ねぇ、夜は何食べる?」 襖の向こうから美玲の声がする。 「いらない。あんたの好きなもの食べていいから」 「へいへい」 そのまま買物にでも出たのか、ガチャン、と玄関の扉が乱暴に閉まる音がする。 今日は火曜日。 母はパートの夜番で、今夜は遅くまで帰らない。父は職場で夜食をとるから、果歩と美玲は好き勝手な食事で済ませる。 1週間で唯一、外で食べて帰っても、煩く言われない日――である。 本当は今日、果歩は藤堂を、夜に食事に誘うつもりだった。 どういう意味でもなく、ただ――素直に自分の態度を謝罪して、一同僚として仲直りして、……本当の気持ちをはっきりと聞いて、何を言われても、受けとめるつもりで。 「…………」 果歩は膝を抱いて、溜息をひとつ零した。 何かで読んだ。恋は1人じゃ終れないって本当だ。 相手の協力がないと……綺麗に終わらせることなんて、できそうもない。 乃々子だって、はっきりと告白して、彼の口からとどめを刺されて終わったんだ。 自分も、確かに強烈なとどめを刺されたには違いないが、りょうに言われるまでもなく、そこに至った本当の理由を訊かないままに、屋上から逃げ出したような気がする。 自分が今以上に傷つくのが怖くて、怒りで感情を誤魔化した。 藤堂もまた、あえて、言い訳しないで結論だけ、という、スタンスをとっていたような気はするが――。 恋の話をのぞいても、本当は、話したいことが沢山ある。 最近、休みがちだという流奈のこと。 晃司が聞いたと言う、自分に関するよからぬ噂。 ずっと孤高を貫いている中津川補佐に、どんな形でフォローをしたらいいか。 あれこれ煮詰まっている仕事のこと。 そして――ずっと、考えないようにしていたけど、彼が役所を辞める理由。 結局、どれだけ腹が立とうと悲しかろうと、果歩にとって藤堂とは、今の職場で一番頼りになる上司であり、同志なのだ。 波乱だらけの総務課で、手を携えてここまで来た。恋愛と一緒にその絆まで断ち切ってしまうのは、あまりにも愚かだし、バカバカしすぎる。 が、頭ではわかっていても、感情が追い付かないのが悲しいところ。 ようやく決心を固めた昨夜、緊張の極みで胃がきりきりしだした果歩は、朝になるとすっかり気力が砕け、反動でぐだぐだになっていた。 本当に、冷静に話ができるだろうか。 藤堂さんは、どうせ必要最低限のことしか言わないし、で、私がまたそれに切れたりして、前より悲惨なことになりやしないだろうか。 考え始めるときりがなく、結局ベッドから起き上がれなかった果歩は、役所の番号をコールしたのだった。 で、――今に至っている。 玄関の扉を開く音がする。 あれ、もう帰ってきたんだ。そう思いながら、眼鏡を押し上げ、チップスを唇に挟んだ時だった。 「おねぇ、お客!」 からり、と襖が軽快に開く。 その瞬間を果歩は――、彼の気持ちを代弁できるなら藤堂も、一生忘れられないに違いなかった。 ぎょっとしたように立ちすくむ藤堂は、「いいから入ってくださいよ」と、美玲に背を押されてもびくともせず、果歩は、唇からぽろりとチップスの欠片を落としている。 「すみません、僕は玄関で」 「いいのいいの、今お茶淹れてくるから、ごゆっくり」 藤堂さん、と、そこだけ妙にトーンを上げて言うと、美玲はさっさと台所のほうに去っていく。 後は、凍りつくような沈黙があった。 「風邪だと、聞いて」 藤堂の声は、完全に困惑している。 「その……近くを通りかかったものですから」 ようやく果歩の、凍りついていた時間が動きだす。 ばっと後ずさった途端、壁に背中がぶつかった。 き。 きぃやああああああああああ。 誰かウソって。 これが夢だって、誰か言ってーーーーーーっ |
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