気まずいなんてもんじゃない沈黙。 我にかえって眼鏡を外した果歩には、ほんの1メートルに満たない先に座る藤堂の顔が、滲んだ水彩画のようにしか映らない。 眼鏡姿を見られたのも最悪だったが、今の自分はそれ以前だ。すっぴんに、ウェーブのとれた髪、しまむらのトレーナーにユニクロのスウェットパンツ。 多分、驚いているだろうし、がっかりもしているだろうに――その藤堂の表情さえ、強度近視の身では確認することができない。 2人の間には、美玲が間髪いれずに出してきた珈琲が、熱い湯気をたてている。 机を挟んで藤堂は正座し、果歩もまた、きっちりと膝を揃えて座っていた。まるで、お見合いのようなバツの悪さである。 「――気分が悪いなら、これで」 しばらく黙っていた藤堂が、沈黙に耐えかねたのか、立ち上がる素振りを見せた。 「お元気そうで安心しました。いきなり上がり込んでしまって、本当に失礼しました」 「あ、」 「え?」 呼び止めたくせに、何故か言葉が繋げない果歩である。 藤堂は再び居住まいを正し、果歩の言葉を待つように黙りこむ。 えっと、……違って。 うつむいているのは、気分が悪いからじゃなくて、その――顔を見られたくないからで。 「美玲が……失礼しちゃって」 かろうじて、それだけが口から出た。 水彩画の人が、わずかに苦笑する気配がする。 「よく似ているので、すぐに妹さんだと判りました。向こうから、いきなり名前を呼ばれたのには驚きましたが」 「もしかして……その、以前送ってくださった時に」 「ええ、ただあの時は、直接お話はしていないんですが」 「…………」 「…………」 会話が途切れると、また沈黙。 「じゃ」 「あの、お仕事の途中なんじゃ」 また、果歩は呼びとめている。 「県庁で会議があって、その帰りなんですよ。直帰するよう言ってありますから、このまま家に帰ります」 「そ……ですか」 また沈黙。 てか、卑怯じゃない? お見舞いって、学生じゃないんだから。 いったい、何の用で、わざわざうちまで訪ねてきたのよ。 「あの」 「あの」 同時に口を開いている。 「藤堂さんから」 「的場さんから」 また同時。 前も同じことがあったな――そう思うと、果歩は初めて口元を緩め、藤堂の表情からも、緊張が消えたような気がした。 「先日は……失礼しました」 「いえ」 と、果歩は、またぎこちなくなりそうな顔に、無理に作った笑顔を浮かべる。 「あの日は、私も動顛しちゃって……」 あれほど沢山練習したのに、で、はからずも藤堂から話す機会を作ってくれたのに、それ以上言葉が出てこない。 また、しばしの沈黙がある。 会議の帰りのせいなのか、スーツ姿の藤堂から、わずかに役所の匂いがした。 「的場さん」 「はい」 「…………」 よほど、言いにくいことを言おうとしているのか、藤堂がため息をつく。 そのまま、しばらく沈黙があった。 「あの日は、説明する必要はないと思いました。結論が変わらない以上、何を言っても言い訳ですし、……知ってほしくないこともありましたので」 「……はい」 果歩は、心臓が高鳴るのを感じた。どういう心境の変化か知らないが、核心に、藤堂自らが踏み込んでくれようとしている。 「僕と須藤さんは、……」 ドキッとした。 自分の顔が、みるみる強張り始めるのが判る。 まさかと思うけど、交際宣言? いや、それともいきなりの結婚宣言だろうか? 「そのことだけは、……はっきり言いますが、誤解です」 はっきりと言う割には、妙に歯切れの悪い口調だった。藤堂が、視線を逸らすのが判る。 「彼女には、色々……なんというか、助けてもらって」 助けてもらった? 流奈が――藤堂さんを? 果歩はむしろ、ますます不審なものを感じている。 「僕自身、優柔不断なままに、断りきれずに、……彼女にも、的場さんにも、余計な誤解をさせてしまったのだと思うと、まことに申し訳ないと思っています」 「私じゃなくて」 自分の声が、掠れている。 「流奈を選ぶってことじゃないんですか」 「そうじゃ、ありません」 「じゃ、どうして」 抑えていた感情が昂りだし、それ以上、言葉が出てこなくなる。 「……私に、何か問題があったんでしょうか」 「それは違う」 藤堂が、困惑したように顔を上げる。 「問題があるのは、僕のほうだと思います」 「どういう問題ですか」 強い口調になっていた。 「なんだか、ますます判らなくなりました。問題があるなら、どうしてそれを、先日きちんと話してくれなかったんですか」 「…………」 随分長い沈黙の後、「的場さん、」と、ようやく藤堂が口を開いた。 「僕には、婚約している人がいるんです」 ………………。 身体の全てが、一時真っ白になったような気がした。 まさか。 まさかと……思うけど。 「最初から、ですか」 藤堂は黙っている。滲んだ色彩の中、彼がうつむくのだけが判る。 「最初からです」 その瞬間、立ちあがって殴りたい衝動にかられた。 なにそれ? もしかしなくても、最初から――最初から、二股だったってこと? 「彼女とは……、ただ、この数年は、連絡も取れずにいて」 「…………」 「僕自身、はっきり結婚を決めたのは、ごく最近のことです。僕は以前、須藤さんにあなた以上にひどいことをしたと言いましたが」 どう気持ちを鎮めようとしても、冷静になりきれない。 果歩は目を逸らし続けている。 「僕は、あなたが、須藤さんと僕の関係を誤解していると知った上で、それを……利用していたんです。須藤さんも、それでいいと言ってくれたので」 「意味が……わからないんですけど」 「言いたくなかったんです、婚約者がいたことを」 「………………」 「最後まで、嘘をつきとおすつもりでした」 唖然と果歩は口を開ける。 最低。 本当に、最低な男だった。 ていうか、殴る価値さえない。 今にして思えば、心の全部を持っていかれる前に、決別が出来て本当によかったとしか言いようがない。 「須藤さんと、話をしてみてもらえないでしょうか」 「何をですか」 自分が素顔なのも忘れ、果歩は正面から藤堂を――ただし、その輪郭を見据えていた。 「ふられた者どうし、同病相憐めとでも? 優しい顔して、すごいこと言うんですね、藤堂さんって」 「彼女は今、悩んでいます。それは、僕のことではありません」 「だから、もうあなたには無関係だとでも言うんですか」 「それから」 果歩の厭味をやりすごして藤堂は続ける。その表情は、両眼視力0.1以下の果歩にはまるで判らない。 「今度、局の女性で、飲みに行かれるそうですね。入江係長の個人的な知り合いとご一緒だとか」 「心配されなくても、須藤さんも行くと言っていますから」 「行かないでください」 「は?」 果歩は耳を疑っている。 「須藤さんも、行きたくて行かれるわけではないと思います」 「何言ってんですか?」 「そんなことより、今は、須藤さんの相談に乗ってあげてもらいたいんです」 「だから、それと飲みが、なんの関係があるんですか」 藤堂は黙っている。 果歩はしばらく――怒りとも呆れとも言いつかない気持ちで、そんな藤堂を見つめていた。 最低。 こんな男が好きだったなんて――。 冗談じゃないよ、私の人生で、最大の失敗だ――。 「的場さん、これは……僕の、個人的な意見です。入江さんとは、あまり懇意にされないほうがいい」 しばらくして、低い、感情を殺したような声が聞こえた。 「ご存じとは思いますが、彼女には大きなバックがある。大きな背景を持つ人というのは、複雑な事情を沢山抱えているものです。……私生活では、距離を開けられるべきだと思います」 どんな言葉も、今の果歩の胸には響かない。 「行きます」 「的場さん」 「本当は行かないつもりでしたけど、今決めました。絶対に行きます」 「いや、行くべきではないと思います」 何故か藤堂も引かなかった。自分が百パーセント悪いくせに、その口調は、むしろ強くなっている。 「行きます、絶対に」 「行くべきではありません」 「行くったら行くんです!」 「行かないでください!」 「ちょっとちょっと、お2人さん、どうしたのよ」 2人の大きな声に驚いたのか、美玲が慌てて顔をのぞかせる。 果歩と藤堂は、互いに睨みあったままでいた。……多分。 なんなのよ、いったい。 つか、なんで私が、ここで怒鳴られなくちゃいけないのよ。 「よく判りませんけど」 果歩は、立ちあがり――ださださの服に、はっと気づいて慌てて座り――冷たい目で藤堂を見据えた。 「それは、どういうつもりで言ってらっしゃるんですか。上司としての命令ですか、それとも同僚としての忠告ですか」 「うわっ、おねぇ、きついよ、その言い方」 「あんたは黙ってなさい!」 「言っとくけど、その人、随分下でうろうろしてたみたいだよ。さっき下の山崎さんに、てっきり不審者だと思ったって言われたもん」 「不審者以下よ!」 言い捨ててから、ん? と思った。 随分前から? 仕事は――じゃあ、どうしたわけ? 「上司でも、同僚でもありません」 呟くように言った藤堂の表情が、果歩には見えない。 「男として、行ってほしくないんです」 今日、一番卑怯なことを言って、藤堂はそのまま立ち上がった。 ************************* 音をたてないように扉を閉めると、乃々子はほっと溜息をついた。 16階の会議室に資料を持って行くよう頼まれたものの、肝心の資料が見当たらず、パニックになること10分あまり。 ようやくパソコンのファイルから再出力して、今、届け終えたばかりである。 「本当、データの管理がなってないんだから」 ずさんな同僚に愚痴をこぼしながら、エレベーターホールに向かおうとした時だった。 目の前を、颯爽と横切った女性が、入江耀子だと判り、思わず乃々子はその背中を目で追っている。 すらっとした長身が、第2会議室に入ったのを見て、もし会議なら、お茶出しを手伝おうと思った乃々子は、自然に後を追っていた。 扉は、半開きになっている。 「るーな」 その、からかうような口調が、敬愛する女の口から出たものだと、しばらく乃々子には判らなかった。 「何よ、その怯えた顔は」 そして、強張った顔に、明らかな恐怖を浮かべて壁際に立っているのが、あの――いつも自信満々な須藤流奈だとは。 「なんで昨日、休んだの」 「風邪で……」 「電話にも出てくれなかったしー、薄情じゃん、友だちなのに」 会議室のセッティングをしているらしい流奈の手には、雑巾が握られている。 「流奈? どうしたの? その顔」 不意に、不思議そうな眼になった耀子が、つかつかと流奈の傍に歩み寄った。 「あらあら、メイクの失敗? いつもと全然違うじゃない、直さなきゃ」 それから次に行われたことに、乃々子は驚愕で息を引いていた。 雑巾で乱暴に顔を拭われても、流奈は怒ることなく、ただ目を伏せたままで俯いている。 「人事に、あれこれ訊かれてるでしょ」 「…………」 「あたしの言うとおりに答えてる?」 「…………」 「言うとおりにしないと、あんたの写真、バラまいちゃうよ。全庁中に」 うつむいたままの流奈の表情は判らない。 どうしよう。 扉の影の乃々子は、足が震えだすのを感じた。 よく分からないけど――これは、ただごとじゃないような気がする。 早く、誰かに言ってあげなきゃ、的場さんか、藤堂さんに。 「百瀬さん」 名前を呼ばれ、乃々子は、立ちすくんでいた。 「そこにいるのは判ってるから、出てきたら」 乃々子は、動けないまま、息を飲む。 「告げ口する? 百瀬さんの大好きな的場さんにでも。ただ、誰も信じてくれないと思うけど」 答えられない。 というより、性質の悪い悪夢を見ているような気持ちだった。 本当のこの声が――入江耀子のものなのだろうか。 「そろそろ、流奈にも飽きがきてた頃だったんだ、実は」 耀子の声は楽しそうだった。 意味を悟り、乃々子は全身が震えだすのを感じた。 女子高だった乃々子にも経験がある。 クラスには、大抵入江耀子のような女を中心にしたグループが一つや二つ存在していて、クラスで1人ターゲットを決めては、順にその相手をいじめていくのだ。 「私を敵に回したいなら、いつでもどうぞ。好きに告げ口しちゃっていいから」 耀子の声が近くなる。 「それとも、私の仲間になる?」 ほとんど扉の傍から囁かれている。 「頭もいいし、可愛いし、割りと気にいってるのよね。あなたのこと」 同性の声を、こんなに恐ろしいと思ったのは初めてだった。 「的場さんなんかやめて、私を頼りにしなさいよ。悪いようにはしないわよ……将来のことも含めてね」 ************************* 「的場さん」 昼休憩の執務室。 机で弁当の包みを開きかけていた果歩は、意外な声に、少し驚いて顔を上げていた。 カウンター越しに、小さく手を上げているのは晃司である。 「どうしました?」 極めて事務的に言って、立ちあがると、晃司がわずかに目を伏せる。 「いや、一緒にご飯でもどうかと思いまして」 「???」 吃驚した果歩の背後では、南原が目を剥き、水原が茶を吹きだし、宇佐美が箸を落としている。 「ご、ご飯ですか」 咄嗟に、言葉を取り繕えなかった。 なにこれ。 あれだけ、庁内恋愛を恐れて秘密主義だった晃司が、いったいどういう嫌がらせ? しかも、こうも大胆に誘われた以上、断ればむしろ、晃司に恥をかかせることになる。 果歩は、晃司を見、背後の机を見つつしながら、強張った笑顔を浮かべた。 「あ、行きたいんですけど、私……その、お弁当が」 「じゃ、それ、俺の夜食にもらってもいいですか」 「…………」 すでに背後はしん……と静まり返っている。 果歩は、落ちた顎を上げることができなかった。 ど、どうしちゃったの、晃司。 もしかして、夕べ、悪いものでも食べたとか……。 一瞬、ちらっと上目使いになった晃司が、そっと声をひそめて囁いた。 「須藤のことだよ」 「……ああ」 ようやく果歩にも合点がいく。 にしても、ほかに手段はあると思うんだけど。…… 渋々カウンターを出ると、待っていた晃司が低く呟く。 「これ、貸しにしといてやるよ」 それが、席で仕事をしている藤堂へのあてつけだと、ようやくのように察し、果歩は咄嗟に振りかえった。 あの日以来、微妙な関係を保っている年下の上司の眼差しは、果歩と視線が合うと、少しぎこちなく下げられた。 初めて果歩は、それまで自分を見ていた藤堂の視線に気が付いている。 それは、迷っているようにも困惑しているようにも、何かの感情に耐えているようにも見えた。 きびすを返し、晃司の後について歩きながら、果歩は小さく呟いた。 「もう、……貸しにはならないから」 「なんでだよ」 「…………」 あれから3日。 不思議なほど、果歩の中の怒りは冷め、今はただ、漠然としたやるせなさだけが残っている。 藤堂さんには婚約者がいた――まるで、漫画みたいな展開だ。 けれど、本人が認めている限りそれは現実で、現実である以上、最初から二股をかけられていたことになる。 二股は――果歩にとっては初めてじゃない。 何度味わっても最低の気持だし、そこにどういう事情が介在しようとも、絶対に許すことも妥協もできない。 でも……。 本当に、藤堂さんは、最初から婚約者がいることを承知で、私との距離を縮めて行ったのだろうか。 冷静になればなるほど、彼が、最初から、二股をかけるつもりでいたわけではないような気がする。 それどころか。 くっついたり離れたり、嫉妬したり、されてみたりの微妙な関係を繰り返していたあの頃。 「会ってもらいたい人がいるんです」 一度は距離を開けようと言われた後、思いつめたように告げられた夜。 もしかしたら――彼は、あの時、それでも私を選ぼうとしてくれたのではないだろうか。 どういう事情があったにせよ、婚約を交わした相手を捨てて。 いや、どういう事情があろうと最低は最低なんだけど。 ただ、以前りょうが言っていた言葉が、今更、妙に深い意味を持って思い出される。 (例えばさ、どっかの大企業の跡取とか、そういうこと) もしかして、藤堂さんの実家が、本当に……若くして婚約者が決められてしまうほどの、すごい家で。 その婚約が、もし、藤堂さんの本意じゃなかったら……。 果歩は、ぶるぶると首を振った。 ああ、だめだめ、それこそ漫画の読み過ぎだ。いい風に解釈しすぎている。 彼のアパートを見たでしょ? 果歩。あれのどこが御曹司だっつーの。 が、考えれば考えるほど、まだ26歳の藤堂に婚約者がいて、で、その婚約者とここ数年連絡が取れなかったという、非日常な言い訳が、頭の中に渦を巻く。 (行かないでください!) (男として、行ってほしくないんです) 果歩だって、鈍くはない。何度も恋愛と失恋を経験した30歳は、そこまで男の気持ちに疎くはない(多分)。 (彼は、果歩が好きなのよ) (果歩が思っているより、多分、相当……私の勘だけど、かなり前から好きだったんじゃないかな) かなり前からはさすがに違うだろうが、りょうの言葉がある意味本当だったと、皮肉なことに、今更果歩は気付いている。 けれど、同時に知ってもいる。男とは、結婚相手を、その感情だけで決められる生き物ではないのだ。…… |
>>next >>contents |