「真央ぉ、まだぁ?」 「もうちょっと。あと少しで電車が来る時間だから」 吹き抜ける風が生暖かい。真央の隣で、所在なさげに、飯島由純が足元の空き缶を蹴った。 通りすがりのサラリーマンらしき男が、眉をひそめながら行きすぎていく。 「てゆっかさぁ。真央の計画、ありえなくない? 手間ばっかで費用対効果ゼロ。ね、そのピンボー公務員に、いったい何の恨みがあるわけ?」 「知らないの? 公務員って、割と小金もってるのよ」 「そりゃ、真央んちは特別だけどさぁ」 「……強いていえば、殺したいほど」 「は?」 「消しちゃいたいのよ。この世から」 頭上の高架を、電車が通過する音がした。 顔を上げ、真央は風をきって走り出す。 「ちょっ、真央っ、待ってってば!」 「いいから、ユキは予定どおりのポジションで待ってて」 いきなり駆けだしたセーラー服姿の女子二人を、学生風の二人連れが、驚いたように振り返る。 「なんか、あたしら、大胆すぎない?」 「いいの!」走りながら、真央は笑った。「仮に見られたとして、見た人間が、何かすると思う?」 少し考えるように細い眉を寄せ、由純もすぐに白い歯を見せた。 「いないね」 「そーゆーこと」 結局は、誰だって、自分が一番大切だから。 「さて―― 」 足をとめた真央は顔をあげる。ぞくぞくするような新月の闇。何かを企むならうってつけの夜かもしれない。 待っててね、紗央理。 あんたの恨み、絶対に私が晴らしてあげるから。 ************************* 「えー、時節は少し早いですが」 「早すぎだよ。馬鹿野郎」 南原亮輔の野次が飛ぶ。ごほん、と水原真琴は咳払いをした。 「総務課の忘年会を、例年通り行いたいと思います。司会は私、この忘年会から幹事を引き継ぐことになりました、水原真琴が勤めさせていただきます!」 ぱらぱらと、あってもなくてもどうでもいいような拍手が散った。 「民間から新しい係長が来られたり、その他色々、本当にトラブル続きで大変な年でしたが、今夜は上司部下の垣根を外した無礼講でございます! 全てを水に流して楽しみましょう!」 しーん……。 な、なんて微妙な空気だろう。 的場果歩は、なんとも言えない気分で、周囲の面々を見回した。 11月1日。 まだ下旬、最低でも中旬であれば、少しは気持ち的に年末だったのかもしれない。(あくまで気持ちです) が――いまだ秋の名残陽がさんさんと眩しい―― 何故にこの時期に、忘年会などをセッティングしてしまったのか。 一言でいえば、原因は局長の那賀だった。 (いやぁ、12月は長期で休ませてもらおうと思ってね。定年前に最後の海外旅行だよ。はっはっはっ) 定年後に、腐るほど時間があるんじゃないですか。とは誰も言えなかった。 実際、局長ともなると、どこかの民間か公益法人になんらかのポストがあるのだろうから、仕事は切れ間なく続くのだろうが。 11月も11月で、ぎちぎちに忙しい。春日次長の出張だの、志摩課長の家庭行事だの、様々な事情で日程はどんどん前倒しになり、結局、今日になったのだった。 それでもまだ、全員が笑顔で席を囲めば、まだ忘年会らしくなったのかもしれない。(感じ方には個人差があります) が、―― とことんケチがついたのか、当日になってキャンセル続出。 まず次長の春日が、5時前にいきなり市長に呼び出されて慌ただしく出て行った。元々春日は欠席の予定だったが、それに付き添う庶務係長の藤堂も欠席となったのである。 次に5時半に、志摩課長に家から電話がかかった。今や、強面課長の恐妻ぶりは課員全体の知るところである。そして―― 欠席。 さらに、ようやく揃って課を出ようとした六時前。最早、最後の砦といっていい那賀が、「しまった!!」と蒼白な顔になって立ち上がった。 「すまん、大切な用事を忘れておったわい。もしかすると、今夜は参加できんかもしれん」そして――欠席。 そこで、本来ならあっさり中止にしても構わなかったのだが、春日が一万、志摩が五千円、那賀が一万を渡して「行けるようなら必ず行くから、みなで楽しく飲んでいなさい」と、口を揃えて言うものだから、もう断るに断れない。 それからもちろん、計画係の補佐、中津川は端っから欠席回答だった。 そして―― 本来なら、12人掛けのテーブルに、今、7人が所在なく座っている。 計画係の谷本主幹、新家主査、幹事の水原。庶務は南原と果歩、大河内主査。そしてバイトの宇佐美祐希である。 とことん何かに祟られた感はあるものの、それでも宴会はスタートした。市内の高級料亭、貸し切った個室は14畳程度の和室で、なかなか趣のある風情である。 「果歩さん、今年はほんまにお世話になりました」 この課にきて、すっかり面倒見がよくなった宇佐美祐希が、いそいそとビールを注ぎに来る。 総務初の男性臨時職員――。猫を拾ってきたり無断欠勤をしたり、挙句、新人職員の水原真琴と大げんかをしたりと、総務にやっかいごとを次々持ち込んだトラブルメーカーであるが、果歩にとっては、好ましい美青年である。 「ありがとう。宇佐美君もお疲れ様でした」 宇佐美の任用期間は、先月で終わりだから、年内で顔を合わせるのは、今夜が本当に最後になる。 果歩は、宇佐美のグラスにオレンジジュースを注ぎ、互いににっこりと微笑みあった。そのまま果歩は、相手の顔をまじまじと見ている。 「な、なんすか、俺の顔に何かついてます?」 「ううん、本当に綺麗な顔してるなーと思って」 「え……えっっ」 いっそ、女の子に生まれてりゃよかったのに。 宇佐美の肌のきめ細かさに、正直、軽い嫉妬を覚えている果歩である。 ああ……女の子はまずいか。こんな可愛いライバルが身近にいたら、とてもじゃないけど、太刀打ちできない。 「ごめんね。初めての忘年会なのに、こんなに人が集まらなくて」 「いやぁ、そんなっ、ぼ、僕は全然っ」 何故か宇佐美は、妙な勢いでオレンジジュースを飲み干した。 「む、むしろチャンスいうんでっか? いい機会や思うとるんです。ふ、2人で話とかする機会……ちゅうか、こ、これ、なんかの勘違いやろうなぁって思うとるんですけど、果歩さん、もしかして、藤堂係長のこと―― す、すす、好きなんかなぁって」 ――藤堂さん、あれから、またきちんと話せなくなっちゃったな。 果歩はぼんやり、ビールグラスに口をつけた。 「聞いてねーぞ、宇佐美」 「い…………、言わんといてください」 ―― わかってる。今度は私のせいなんだ。いつも私のせいかもしれないけど、今度は……今度悪いのは、私一人だ。 私が、藤堂さんを避けている……。 (僕のほうも話があります) (明日、屋上で待っていてください) 果歩は行かなかった。彼一人が屋上で待っていてくれたのを知っていて――行かなかった。 先月の苦い思い出が、果歩の中に蘇る。 須藤流奈の口から、藤堂の婚約者の存在をはっきりと知らされた後、――流奈と藤堂の間にあると思っていたものが、全て嘘だったと判った後、果歩は退庁した藤堂の後を追ったのだ。 このまま諦めたくないと思ったから。 この気持ちを、今、彼に伝えたいと思ったから。 なのに、そこで、不幸にも藤堂の母親と、婚約者という女性と鉢合わせになってしまった。 (的場さん? ね、的場果歩さんですよね) (わぁっ、私のことも、瑛士さんが話していてくれたんですね。嬉しい) 人懐っこい笑顔。くるくるとよく動く愛らしい瞳。服は、ディオール……靴はエルメス。屈託のない天真爛漫なお嬢様――名前は香夜(かぐや)。 藤堂さんの、婚約者。 (さ、立って、無駄に、高い靴なんて履くからですよ) (だって、瑛士さんが高すぎるから) まるで、ずっと以前から、寄り添っているのが当たり前のようにしっくりくる2人。 この2人の過去に、果歩の知らない長い長い時間があることを、否応なしに思い知らされずにはいられない。 そして――明らかに果歩に対して不快感を持ったと思われる、彼の母親。 (瑛士、今夜だけは、我儘は許しませんよ) (それとも、どうしても今夜、お話しないといけないことなのかしら。ご病気のお父様を後回しにしても?) 極道の妻か、銀座の高級クラブのママ――そのくらい凄味のある女性だった。高級仕立ての和服を着て、まなじりがきりっと切れあがっている。 そんな最悪の状況下で、藤堂は果歩に、明日、屋上で待っていて欲しいと告げたのだ。 果歩は黙ってビールグラスに唇をつけた。 多分、あの刹那、彼は私を選ぼうとしてくれていた。 恋の綱引きの過程で、もしかすると私は、少しだけリードしていたのかもしれないのだ。 なのに……。 その綱を、何故か私は離してしまった。 離して、そして宙ぶらりんのまま、漠然と今を迎えている。 もちろん藤堂も果歩も大人だから、表面は普通に接している。果歩に関して言えば、むしろ前より自然に振舞えているくらいだ。 時折雑談も交わすし、冗談も言う。もしかすると、前より仲良くできているのかもしれない。でも、――2人になるのを避けている。 果歩が一人で給湯室にいる時、藤堂が入ってくると、逃げるように飛び出してしまう。その逆も同じである。 うっかり2人きりになった時も、彼が何か物言いたげにしているのが判っていて、延々くだらないお笑い番組の話をしてしまった。(その後、自身が選んだ会話のチョイスにものすごく後悔した) 最初こそ、藤堂は、何かを伝えようとしていたようだが、今は諦めてしまったようだ。優しいから―― 怒りもせずに、どうでもいいお笑い話につきあってくれた。ああ、思い出すだけで、自分の頬をひっぱたいてしまいたいくらいだ。 なんでだろう。もう、怒っているわけでもない。婚約者 のことは、何か事情があるのだろうと、理性ではすでに納得していて、そのことで彼を責めるつもりもない。まぁ、多少、責めるかもしれないが。 流奈の件も、誤解だと判った。 むしろ、一切の言い訳をせず、自分を悪者にして果歩と流奈を仲直りさせようとしてくれた。そういう女心に無頓着な優しさは――そう、多少苛立ちはするが、やっぱり、愛しいな、と思ってしまう。 彼の婚約者――須藤流奈曰く、<自称婚約者>の香夜さん。 (無駄に、高い靴なんて履くからですよ) (だって、瑛士さんが高すぎるから) あの人と藤堂さんが、すごくお似合いだったからだろうか。 まるで昔からよく知っていて、寄り添いあっているような自然さだった。 きっとあの人は、私の知らない藤堂さんを知っていて、藤堂さんも―― 私には見せない顔をあの人には見せるんだろう。 (無駄に、高い靴なんて履くからですよ) (だって、瑛士さんが高すぎるから) 「か、果歩さんの顔が……再び般若に……??」 「見るな、宇佐美」 が、私だって香夜さんの知らない藤堂さんを知っている。彼の眼差しや態度で判る。私のほうが――多分、勝っている……部分もある。 まぁ、多分、少しくらいは。 なのに、それなのに、勝負に出るどころか、土俵にさえ上がれないまま、尻ごみしているのは何故だろう。 なんだか妙に臆病になって、正直言えば、これ以上藤堂さんに関わりたくないとさえ思っている……。何故だろう、何故……。 そこでようやく果歩は、宇佐美と話していたことを思い出した。 「あ、ごめん、宇佐美君、何の話だっけ」 「……いや……もう、いいっすよ」 肩を落として背を向ける宇佐美。気づけば、宴会の席は葬式みたいに静まり返っている。 な、なんだろう、この盛り上がりの予感さえ見られない飲み会は……。 「てか、半分は的場さんのせいなんじゃないですか?」 何故か冷めた目で水原が口を挟んだ。 「そーだな。責任とって、なんか芸でもやってもらおうか」 と、南原が飛んでもない発言をして立ち上がる。えっ芸? 果歩は凍りついていた。 「では、歌ってもらいましょう。総務課のプリンセス…………ちょっ、失礼」 「笑いすぎですよ、南原さん」 「え、ええんやないですか? プリンセス果歩で」 「それを言うなら、皇太后ってのはどうでしょう」「そういや、昔、女王様って呼ばれてたよね。的場さん」「ほっ、ほんまでっか? そ、それは果歩さんが、実はSだったという」「おい、どういう発想してんだよ、宇佐美」 ――ちょっと……。 果歩一人を無視して、勝手に話が盛り上がっている。 「まぁ、とにかく、的場さんに、何か歌ってもらうってことで」 南原が再び水を向けてきた。 なんだかすっかり悪ノリした全員が、わけもわからず手拍子を始める。 「ちょっ、嫌ですよ。そんなの絶対できません!」 果歩は蒼白になって後ずさった。いったい何なの、この展開。あまりに盛り上がりに欠ける忘年会に、みんな、やけくそになっているとしか思えない。 もし春日次長でもいたなら、一括して、この馬鹿騒ぎを止めていてくれたろう。ああ、よりによって一番苦手な人をここで思い浮かべる私って……。 「じゃ、僕が歌いますよ」 背後で静かに立ちあがった人がいた。 えっ、と果歩は驚いている。後ろに人なんて座ってたっけ。というより、自分をのぞく全員が、南原が仕掛けた馬鹿騒ぎに乗っているような気がしたのに。 「お、大河内さん?」 白けたような沈黙の後、最初にぽっかりと口を開いたのは水原だった。「なんの真似ですか――」 多分それは、全員の疑問を代弁していた。 大河内主査。あらためて説明するまでもない―― 庶務係の一員である。その影の薄さは、時に在席していることさえ忘れ去られているほどだ。 アラフォー世代。まだ四十前半だが、気の毒に若禿げの体質なのか、つるりとした禿頭には、猫毛がそよそよと揺れている。 その猫毛が最近不自然に増えていることは、誰もが胸に秘め、決して口には出せないのだった。 元来温厚で他人のことにあまり干渉しない大河内は、課で起こるどんな波風にも影響されずに、かといって決して逆らうことなく、上手にふわふわと漂っている。 南原に言わせれば「自分の意見を持たない事なかれ主義」。少しばかり辛辣な表現だが、それは確かに大河内という人のキャラを上手く言い当てている―― 。 立ち上がった大河内は、一人で手拍子をつけて歌い始めた。もちろん、部屋にカラオケ機材があるわけではない。まだ酒が回る時間には早すぎるのに、まさかのアカペラである。 月があんまり丸いから、今夜はあなたと杯あわせ 明日も仲良く迎え酒 「なんの歌っすか?」 「さぁ……宴会ソングかな」 ごめんと一言いえなくて、今夜はあなたと杯あわせ 明日はそろって迎え酒 「一年中酒が飲める的な歌ですかね」 「あ、近いな、それ」 好きよと素直に言えなくて 今夜はあなたと杯あわせ 明日はしっぽり迎え酒 「な、なんか、エロくなってくるんじゃないっすか」 「いやぁ……大河内さんがねぇ……」 とかなんとか言いつつ、気がつけば全員が手拍子をして、不思議なノリを感じさせるメロディに同調している。 「失礼しました」 意外な力強さで、12小節全てを唄い切り(水原の予想どおり、後半は少しばかり果歩にはいたたまれない内容だった)、大河内は四方に頭を下げて、元通りの席にもどった。 「なんすか、今のは」 「けっこう、面白かったですねぇ」 「見ての通り、ベタな宴会芸ですよ」 少し照れたように、大河内はほのかに笑った。 「若い頃、散々やらされたものですから。なんだか久しぶりに披露したくなっちゃって。みっともないものをお見せして申し訳ありません」 「いやぁ、見事なものでしたよ!」 果歩はようやくほっとした。 さっきまでのやけくそみたいな盛り上がり方ではなく、ようやく自然な宴会という雰囲気になっている。 「そういや、大河内さんは、以前はどこにおられたんですか」 水原が、初めて大河内という人が総務にいたことに気づいたように水を向けた。 「観光課です」 「へぇぇ、さすがエリートさんだなぁ」 「いや、それまではずっと区にいましたから……」 果歩は隣で、頷きながら聞いていた。 もちろん、庶務である果歩は、大河内の経歴をよく知っている。入庁時から、ずっと区役所の税畑、収納と課税を点々としてきた。そう、エリートなどではない、どちらかといえば不遇の経歴だといってもいい。 それが7年ほど前にようやく本庁観光課に異動、そして2年前に都市計画局総務課に異動となった。遅咲き―― といってはなんだが、まさに遅咲きの花かもしれない。 「あの……ありがとうございました」 頃合いを見て、果歩はそっと声をかけた。意外そうな目で大河内が振り返る。 「なんの話ですか」 「いいタイミングで助けてもらって……、歌なんて、私には無理ですから」 「ああ、逆に僕は、皆さんの期待を踏みにじってしまったのかもしれないですね」 ははは、と、また照れたように大河内は笑った。 まぁ、……いい人なんだよね。 果歩は微笑して、大河内のグラスにビールを継ぎ足した。 揉め事に口を出さないずるさはあるけど、なんだかんだいって職場のいいつなぎ役になっている。確かに南原の言うように事なかれ主義で、時々、その無関心さに腹が立つこともあるけれど。―― 「すみません、遅れました」 聞きなれた声と共に、からりと障子が開いたのはその時だった。 ************************* と、藤堂さん―― 。 果歩は、心臓がいきなり音を立て始めたのを感じていた。 濃いグレーのスーツに身を包んだ藤堂は、今夜はきちんとタイも締めて、普段仕事している姿よりも格段に大人びて見えた。 身長は190センチに届くほど。ラガーマンを思わせるほどの見事な体格をしているのに、雰囲気は驚くほど長閑で、優しい。 脂気のない少年のような髪に、彼のトレードマークともいえる、オールドタイプの眼鏡。外見は、言っては悪いが、少しばかり野暮ったい。 が――果歩は知っている。その眼鏡の下に、とてもセクシーで、男らしい双眸が隠されていることを。 厚みを帯びた唇が、キスをする時、とても熱く、柔らかくなることを―― その藤堂のスーツ姿に、果歩は何度、心臓を射ぬかれてしまったか判らない。 ――ああ、何、豆食らった鳩みたいに動揺してんだろう、私。 ドキドキしながら、果歩は視線を下げていた。 彼のスーツ姿をみるのは、何も初めてってわけじゃないのに。その度に、こんなに胸を撃ち抜かれていたら――。 「係長、ここに」 何故か大河内が、自分の席を指すようにして立ちあがった。「すみません、入れ替わりで悪いんですが、僕はこれで失礼します」 「えっ、そうなんですか」我に返って、果歩は顔をあげている。「まだ、始まったばかりなのに」 「娘の受験が近いので」大河内は頭を掻いた。「もともと挨拶だけすませて帰ろうと思ってたんです。すみませんね」 「お気をつけて〜」南原がひらひらと手を振った。 「大河内さん、次もさっきの歌お願いしますよ。いかにも局長が好きそうだから」 「じゃ、失礼します」 かすかに微笑した大河内は、頭を下げて退室した。 その代わり、藤堂が果歩の隣に腰を下ろす。 「さっきの歌って?」 「え、ああ、あの……大河内主査が、面白い歌を披露してくださって」 「そうなんですか」 それきり、2人の会話が途切れる。 果歩は、思いがけず藤堂と隣席になったことに、極度に緊張していたが、藤堂はさほど気にするでもなく、空のグラスをとりあげる。 「あ、注ぎます」果歩は慌てて、ビール瓶を持ち上げた。 ふっと雨の匂いがした。伸ばされた藤堂の袖の辺りから。 「……外、降ってたんですか?」 「? ああ、少しでしたけどね」 ようやく気付いたように、藤堂は肩先を手で払った。「濡れてましたか」 「え、いいえ」 匂いが……とは、少し恥ずかしくて言えなかった。 そのまま、わずかな沈黙があった。 なんだろう。なんだかすごく……懐かしい感じがする。こうやって……随分前も、この人の身体から雨の香りを感じたような。 すごく……記憶にも残らないほどすごく昔に……。 「あの、……藤堂さん」 「え?」 藤堂を見上げたまま、自分でも何が言いたいのか判らず、果歩ははっと赤くなっていた。「なんでもないんです。すみません」 「課の飲み会で、2人だけの世界っちゅうのはいかがなもんでしょうかね、南原さん!」 「宇佐美、お前酔ってるだろ」 「ええんです。すいませーん、オレンジジュースのお代わりおねがいしまーすっ」 藤堂の手が、ビール瓶を取り上げた。 「今日は、ちゃんと食べてますか」 「え、あ……はい」 果歩が持ったグラスに、わずかにビールが注がれる。 果歩は、彼の指だけを見ていた。大きい手……長い指、きれいな指。その指先にも……何故だろう、不思議な記憶が喚起されて――。 「……的場さん」 「――!」 彼が、何か伝えようとしているのが、その声の緊張から判ったから、果歩も咄嗟に我に返って身構えていた。―― その時だった。 「こんばんはー」 「誘われたから、お邪魔しちゃいましたぁ!」 がらっと開いた障子から覗く顔を見て、果歩は凍りついていた。 「おおっ、前ちゃん!」 「あれぇ、モーニング娘。ちゃん?」 前園晃司と須藤流奈。そして2人の後ろから、控え目に百瀬乃々子。 「百瀬、……お前、なんでここに?」 それには南原が、少しばかり嫌な顔になった。 「別に、好きで来たわけじゃありませんよ」 乃々子もそれには、多少むっとしたようである。 仕事が遅くて細かすぎる乃々子と、仕事が早くて大雑把すぎる南原。この2人は、夏の大都市会議以来、微妙な犬猿関係が続いている。 「実は、残業中に、局長から課長に電話がありまして」 雨に濡れた上着を脱ぎながら、晃司が折り目正しく切りだした。 「そうなんですよー。残ってる若いのを、大至急総務の飲みに派遣してやってくれないかって」 流奈が、その後をついだ。腿が見える短いスカートをひらひらさせて、流奈はすでに藤堂と果歩の間に、半ば割り込むようにして座っている。「はい、お邪魔しますねー」 ……本当にお邪魔だ。 「それで、私たち3人に、取りあえず行って来いってことになったんです」 最後は、渋々乃々子が締めた。 「まぁ、いいじゃない、こうなったらもう飲もう、飲もう! 若い美女が2人も来たら、こりゃ盛り上がるしかないしねぇ」 最年長になった谷本主幹が、乾杯の音頭を取るべく立ち上がる。 悪かったわね…………若くもなきゃ、美女でもなくて。 果歩はむっとしていたが、「よ、元気だった」と、隣に座った晃司に話しかけられ、仕方なく笑顔を作った。 「残業いいの」 「まぁね、たまには飲みもいいかなーって」 「暇な時間あるなら、彼女でも誘えばいいのに」 「それはそれ、これはこれ」 「……なによ、それ」 晃司は黙って肩をすくめ、注いで、とばかりに空のグラスを差し出した。その晃司らしからぬ慣れ慣れしい態度に、果歩はやや面喰っている。 「てか、まず、自分が注ぎなさいよ」 「もちろん注がせていだたきますよー、的場先輩」 ……なんなのよ。その態度は。 ま、いいか。最近は、晃司と話してるとそれなりに気楽だし。 「な…………なんなんすかね、あの、いかにも慣れ親しんだ感じの2人の雰囲気は!!」 「頼むから落ち着け、宇佐美」 「すいませーんっっ、オレンジ、ガロン単位でお願いしますっっ」 果歩の左隣では、流奈がもう、寄り添わんばかりの勢いで藤堂に話しかけている。 藤堂は相変わらずで、「ええ」とか「はぁ」とか、特段迷惑がりもせず、淡々とそれに応じている。 なんだろう、流奈の奴。先月までの流れでは、もう藤堂さんのことは諦めたような雰囲気だったのに、なんだって今さら? 「なんだか、酔っちゃったみたーい。この部屋暑くないですか?」 しかも、何があったのか、流奈は明らかにヒートアップしている。 ただでさえ胸元の開いたピンク色の可愛らしいカットソー。その襟を指でつまんで押し下げて、ひらひらと手で煽いでいる。「ね、藤堂さんっ」 さすがに高い位置からは丸見えなのか、無表情だった藤堂も戸惑い気味に視線を泳がせる。 「やだぁっ、照れちゃって、かーわいい」 い……一体なんなんだろう。 つまり私たち、4月から一向に進んでないってこと? 優柔不断の最低男―― 藤堂さんはやっぱり相変わらずだ。香夜さんのこともある。そもそもあの人が<自称婚約者>になったのだって、藤堂さんが思わせぶりな態度を取ったからじゃないの? まぁ、そもそも彼女がどういう存在なのか、彼の口からは何も説明されていないんだけど。 ――そっか、私が……壁を作ってたんだ。 「どした?」 晃司の声で、我にかえる。 「え、どしたって……?」 「いや、最近、あんま元気なさそうな感じだったから」 「……そんなことないけど……」 これは、ライバルのことより、もっと根源的な問題だ。 香夜さんの存在を知って以来、私は、藤堂さんを避けている。どころか、彼のことを、もう知りたくないとさえ思っている。 なんだろう、……いつもの嫉妬とはまるで違う。もっと別の、もっと―― もっと深くて、どうにもならない感情の部分で。…… |
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