「わかったわよ」 りょうから電話があったのは、帰宅途中―― 家の近くでバスを降りた時だった。 「ほんと?」 果歩は声をひそめたまま、携帯を耳に当て、歩道脇の自販機の傍に歩み寄った。傍らを、無灯火の自転車が、結構な勢いで通り過ぎていく。 「で―― 、本当に市の関係者だったの?」 「名前聞いたら驚くわよ。元財政局長の長妻さん」 「えっ…」 「事件被害者は、長妻元局長の一人娘よ。もっとも、今の奥さんの、という前提がつくけどね」 果歩は黙り込んでいた。 それは、思わぬ大物としか言いようがなかった。元財政局長、長妻元治。 市に伝説級の有名人は多々いるが、長妻はその中でも、メガトン級の大物だ。いっそ、怪物クラスといってもいい。 前市長吉沢征司の親戚と言われ、その懐刀として、一地方都市にすぎなかった灰谷市を、政令指定都市にまで昇格させた。 若い頃から市の主要職をことごとく渡り歩き、地元財界人、政治家との繋がりも深く、この灰谷市の裏の裏まで知り尽くしていると言われている男―― 。 駅前ショッピングモールの誘致、灰谷市で催されたアジア大会の誘致。それらも全て、長妻の手腕によるものと言われている。その功績は、まさに伝説だ。 が、むろん功もあれば、罪もある。 8年前、果歩がまだ秘書課に所属していた頃、長妻は財政局長で、翌年に定年を控えていた。その時、こんな噂を耳にしたことがある。 市OBの天下り先は、その殆どを長妻が仲介し、斡旋まで行っている。だから、課長級クラスから局長に至るまで、誰一人として長妻には逆らえないのだと―― 。 「それって、人事では、暗黙の事実?」 「上の人は知ってたみたいだけどね。――ただ、8年前の市職員なんて、普通はもう民間人だよ。それに、被害にあったのは娘さんだし」 「でも、上の人は知ってたんでしょ?」 「まぁ、ね」 りょうの口調の鈍さが物語っている。 つまるところは、こういうことだ。 ことこの件に関して言えば、市サイドは、何があっても大河内主査を庇うことはない 被害女性の言い分を、疑うこともないということだ。 「ね、りょう」 果歩は、携帯を握りしめた。「本当に、それって、偶然だと思う?」 「何が?」 「被害者も加害者も、両方市の関係者だったってことがよ」 「…………」 電話の向こうから、わずかな嘆息が返って来た。 「うちの主査……皇が、冤罪だってはっきり言ったんでしょ?」 「うん……何か、含みのある言い方だったから」 「皇さんねぇ……。滅多なことを言う人じゃないんだけど、何考えてるんだか、さっぱり判らない人だからなぁ」 りょうには珍しく、はっきりしない言い方だった。 果歩は夕べ闇の中で見た、皇の顔を思い出していた。まるで、夜の住人のような不気味さだった。ある意味あれほど目立つ人に、どうして今まで気づかなかったのだろう。 そう問うと、電話の向こうで、カタカタとキーボードを叩く音がした。 りょうがまだ残業していると判り、果歩は少し申し訳ない気持ちになる。 「入庁以来、ずっとモグラ畑にいたみたいよ。あそこはほら、洞窟みたいな職場だから」 「ああ……」 情報政策課だ。 北庁舎の地下にある、市の、あらゆるネットワークを管理保全する部署である。相当高度な専門性が求められるため、一度入ると二度と出られないとも言われている。通称―― モグラ。 「人事に異動になったのが、3年前かな。私よりひとつ先輩ね。正直言えば、ラインがまるで違うから、彼が何やってるのかはさっぱりなんだけど」 「……そうなんだ」 「月平均50時間の超過勤務が当たり前のうちの課で、あの人だけが、ひとけた切ってる時があるからね。まぁ、うちは何かと秘密を抱えてる部署だから、何か重要な仕事を任せられているのかもしれないけど」 「…………」 果歩は、夕べの皇の言葉を思い出していた。 (何も税金で給料をもらわなくてもね。あなたは、生みだす側の人間なのに。) あの人は、何故あんなことを言ったのだろう。もしかして、藤堂さんの正体を知っているということだろうか。 (どれだけの力があれば、マスコミを動かせると思いますか? わざわざそんな真似までする理由は、いったい何にあると思いますか?) まるで、藤堂さんがその答えを知っているかのような言いかただった。なのに、どうして藤堂さんは、一言も反論しなかったのだろう。それどころか、彼は明らかに動揺して――。 (いたって簡単で……ささやかなことだと思いますがね。あなたのような人間にしてみれば、道端の物乞いに小遣いをやるようなものでしょう) 迷っているようにも、見えた。 まるで、自分がこれからどうすべきか、判断に揺れているような―― 。 「ありがと、りょう。ごめんね、いつも頼ってばかりで」 「ちょっと待って。果歩、どうするつもりなの?」 電話の声が、急いで果歩を呼びとめた。 「まさかと思うけど、モグラの仕掛けた罠にはまって、大河内さんの過去に首つっこむつもりじゃないでしょうね」 「そりゃ、ちょっとは調べてみようと思ってるけど」―― って、罠? 「もっと冷静に考えて……って、無理か、果歩の場合は」 電話の向こうで、諦めたようなため息が聞こえた。 やっぱり、りょうは、私の知らない何かを知っているんだな、と、果歩は思った。多分、いくら仲が良くても、おいそれとは話せない何かを。 ということは、あのモグラ主査の忠告は、やっぱりはったりじゃなかったんだ。 大河内さんは冤罪で、しかも罠にはめられた可能性がある。そこには、灰谷市の怪物、長妻元局長が確実に絡んでいる 。 「りょうには、迷惑かけないよ」果歩は言った。 「でも、今回のことは、私にも責任の一端があると思うの。せっかくヒントをもらったんなら、放っておくわけにはいかないじゃない」 りょうが、再度ため息をつくのが判った。 「マスコミが動いてる……果歩だって知ってるでしょ?」 「うん。なんか、うちの市だけ狙い撃ちされてるみたいだね」 どきりとしながら、果歩は答える。 それが、藤堂さんと関係があるような言い方を、皇という人はしていたのだ。 「市長選の前だからだろうけど、上層部は必要以上にピリピリしてる……わかるでしょ? 今、うちの市に残っている局長級は、殆ど全員が真鍋市長のお気に入りよ。市長の再選が飛んだら、もしかしなくても全員のクビが飛ぶかもしれない」 「だから? とっとと大河内さんを見きれっていうの?」 りょうが、心配してくれていることはよく判っている。それでも果歩は、言い返さずにはいられなかった。 「公務員は身内に甘いって叩かれてるけど、身内だからこそ信じてあげるべきなんじゃないの? まだ誰も、主査の言い分さえ聞いていないのに―― それじゃ、あまりに冷たすぎるよ」 「針小棒大。マスコミが騒げば騒ぐほど、たかだか三行記事が、とんでもない重大犯罪に変わっていくの。一刻も早い沈静化を願うのは、市としては当然でしょ」 「やってないかもしれないのに?」 「それを果歩が証明する気? バカげてるわよ―― 忘れたの、果歩? 果歩はまだ、人事部のブラックリストに載っているのよ」 「…………」 「那賀さんが退職したら、どこかの島か出張所に飛ばされて、二度と戻って来られなくなるわよ。脅しで言ってるんじゃないのよ」 「その時はその時よ」 すでに売り言葉に買い言葉だった。「島暮らしだって、慣れれば楽しいかもしれないじゃない」 電話の向こうで、りょうが心底呆れているのが、はっきりと判る。 「遊びにいかないわよ。日焼けしたくないから」 「い、いいわよ、別に。向こうでいい人見つけるもん。釣り仲間とか」 「何、目茶苦茶言ってんだか……」 再度、りょうが嘆息する。「ああ、釣り仲間ね。そういや、一人、喜んでついていきそうな馬鹿がいたかな」 「は?」 「私からできる、最後で最大のアドバイス……。前園君を頼ってみたら? 理由は8年前の職員名簿、以上」 それだけ言うと、りょうは一方的に電話を切った。 ************************* 「は? 何それ」 電話の声は、思いっきり不機嫌そうだった。「8年前って、俺、そもそも役所にさえ入ってないだろ。意味わかんないし」 「……ごめん、私も、いまひとつ意味が判らないんだけど」 最近優しかったから、つい、甘えた気持ちで電話してしまったことを、果歩は改めて悔いていた。 そもそも、晃司はものすごく不機嫌そうだ。以前も夜、うっかり電話したらそうだった。 晃司ってこんなに寝入りが悪い男だったっけ。というより、最近の晃司はよく判らない。不必要に優しかったり、今みたいに冷たかったり……。 「なんにしても、俺には何もできないよ」 「あ、うん、それは判ってるんだけど」 自宅だった。帰り道、りょうの言葉がどうしても理解できなくて、迷った挙句、少し遅いかな、と思ったが、晃司の携帯に電話してみた。今夜、晃司は比較的早く帰っていたから、もしかしたらもう寝ていたのかもしれない。 「ごめん、また明日改めて話すね。おやすみ」 「いいよ。俺のほうで調べとくから」 慌てて電話を切ろうとしたら、ぶっきらぼうな声が応えてくれた。 「なんとなく判ったから……大河内さん、当時、多分南区にいたんだろ。俺……それから2年後に南に配属されてるしな」 ああ……。 果歩はようやく、得心したような思いになった。「そうだったんだ」 「……気づけよ、それくらい。大河内さんと被ってたかどうかわかんねーけど、南区時代に何かあったんだろ。当時、俺と一緒だった人が、何か事情覚えてるかもしれないし」 「すごい、晃司!」 「じゃ、切るな。悪いけど眠いんだ」 「うん、ありがとう」 頼りになるなぁ。最近の晃司は……。 果歩は、少しだけ肩の荷が下りた気になってベッドに仰向けに倒れこんだ。 でも、これこそ晃司には迷惑をかけられない。あれだけ出世にこだわってる人だもん。そこは、慎重にしていかないと……。 そうだ、できたばかりの彼女に恨まれても、洒落にならない。晃司を巻き込むわけにはいかない―― 。 ************************* 「……き……」 キタ―――― 。 携帯を投げ出した後、晃司は柄にもなく、ベッドの上でガッツポーズを握っていた。 3万ぼったくられた甲斐があった。宮沢さん、ここで俺を推してくれるなんて……なんてナイスな人なんだ。見かけによらず、意外にいい人なのかもしれないぞ。 これは、あれか? 須藤の言うとおり、マジでポイントあがってんじゃないか? ようやく、あの唐変朴より、俺のほうが頼りになるって……。 「…………」 ふと気付き、晃司は唇に指をあてていた。―― まてよ? 恋のポイントはアップしても、このやっかいな事件に首をつっこむことは、俺の役所人生にとってはマイナスなんじゃないか? すでに大河内事件は、局では緘口令が引かれ、マスコミ取材には一切応じるなとの達しが出ている。ここまで市が集中砲火を浴びている今、冤罪だなんて可能性をうっかり口にしようものなら、マスコミから袋叩きだ。 ただでさえ、果歩は人事に睨まれている。ここで下手な協力して巻き添えをくったら、晃司自身が、次の異動で、思わぬ冷や飯を食らわされることだってある。 「……………」 これは、困った問題だぞ。 恋か、仕事か。 眉を寄せたまま、晃司は天井を睨みつけた。 まさかと思うけど、宮沢さん、そういうの全部承知で俺の名前を出したんじゃないだろうな。いや、あり得る。あの底意地の悪い人ならやりかねない。 俺の気持ちを試そうっていうのかな。 俺なんて、しょせん、どうあがいても、あの年下野郎には勝てそうもないのに―― 。 ************************* 「はじめまして。―― って、あたしのほうは、あなたをよく知ってますがね」 藤堂は無言で、対面に座る男を見つめた。 オリーブ色のシャツに黒いジャケットを羽織った男は、淡い茶のサングラスをかけている。髪は短いゴマ塩で、いかにも昔体育会系だったことを思わせる、がっしりとした体つきをしていた。 「あたしゃ、フリージャーナリストの梶原といいます。以前は新聞記者でした。まぁ、色々あって独立したんですがね」 「それで?」 まだ続きそうな饒舌を、藤堂は穏やかに遮った。「ご用件を、どうぞ」 「惜しいなぁ」 男は、若いのか老けているのか、よくわからない笑顔を見せた。快活なのに、顔全体に笑い皺がよって、ひどく老けて見える笑い方だ。 「あたしはね、てっきり、後継はあんただと思ってたんですよ。なのに、こんなところで、地方公務員ですか。まさかまさかの転身ですなぁ」 「あの家と僕は、もう無関係ですよ」 再度、藤堂は遮った。「―― 用件をどうぞ」 「しかし、こちらの市に入った経緯にしても、ちょいとぱかり匂いますなぁ、藤堂さん」 男は、全くひるまなかった。 「こう見えて私は、あんたをずっと追いかけていましたからね。まぁ、あんた方一族を記事にすることは、業界のタブーでしたから、何を掴もうが記事にはできんのですが」 言葉を切り、男はにやっと笑って見せた。 「が、あんたは今、あの家と自分は無関係だと言った。どうもね、藤堂さん、あんたを守っていた見えない力は、今回は手を引いたようですよ」 「…………」 「どころか?」男はますます楽しそうな笑いを浮かべた。ようやく野卑な素性が透けて見えるような、歯をむき出しにした笑い方だった。 「あんたを攻撃する側に回ったのかもしれない。金持ちのお家騒動に、あたしゃ興味はありませんがね。少なくともあんたを記事にしても、どこからもお咎めはなさそうだってことだけは確かですな」 「…………」 地下街の喫茶店。指定された場所は、藤堂には初めてだった。梶原が勝手に頼んだコーヒーを、藤堂はテーブルの隅に押しやった。 「僕に、書かれて困るようなことは何もありませんよ」 「そうでしょうな。実際、ただの公務員のあんたを記事にしても面白くもなんともない。公務員といえば、そうそう、あなたの職場、今、大変な騒動に見舞われているようですなぁ」 「…………」 「やっかいな家に生まれた上司を持つ部下というのも、不幸なものですな。おかげで全国紙までが騒ぎだした。あんたも判ってるんでしょう? あれはね、あんたの親父さんがさせたことなんですよ」 「…………」 「あんたが素直にごめんなさいと言って親父さんのところに戻ればいい。そうすりゃ、ひとまずこの騒ぎは収まるっていうのになぁ」 「ご用件を、どうぞ」藤堂はレシートを取り上げた。 「申し訳ないのですが、年休をとって外出しています。あまり時間がないので」 「ひとまず、五百万で手を打ちますよ」 「…………」 藤堂は初めて眉を寄せた。 「あたしの記事をね、あんたに買ってほしいって言ってんですよ。二宮――いや、藤堂さん」 わざとらしく言い間違い、男は歯をむき出しにして笑った。 「僕に、そんなお金はありませんよ」 「わかりきってることを、落ち着いて言われてもなぁ」 くくっと男は、ますます楽しそうに笑った。 「今のあんたが、一介の貧乏公務員なのはよーく判ってますよ。車のローンが1年、家賃は7万、貯金は二桁前半かな。役所に入る前に随分稼いだらしいですが、それ、全部家に入れちゃったんでしょ?」 男がテーブルに投げだしたペーパーを、藤堂は無言で取り上げた。 視線を落とした途端、わずかに表情が変わったことを、目ざとい男は見逃さなかったようだった。 「どうです? なかなかよく書けているでしょう」 「…………」 「Monster Civil servant。モンスター公務員。これは被害にあった男性が言った言葉ですがね。言いえて妙とは言いませんが、なかなか面白い言い回しじゃありませんか。その子、あれでしょ? 痴漢した主査の奥さんにわざと罪を認めて示談するよう説得したんでしょ? 暴力事件と合わせて、これはちょっと面白い記事になりますよ」 「…………」 「普段ならどこにも売れない、しょーもない記事ですがね。今なら高く売れそうなんです。どうです? このタイミングで、あんたの部下の女の子がモンスター公務員だのなんだと叩かれる前に、この記事、買ってもらえませんかね」 「これは―― 」藤堂は初めて、男を挑むように見た。 「事実じゃない」 「わかってますよ。そんなこたぁ、どうでもいい」 男は笑った。 「あんた、家に帰んなさい。父親に泣きついて金を工面してもらうんですな。金持ちのぼんぼんが、何が楽しくて貧乏生活を満喫してるのかは知りませんが、それが周囲にとってとんでもない迷惑だってことを、いい加減自覚すべきだ」 「あなたを雇ったのも、父ですか」 その時、ポケットの中で携帯が鳴った。「電話ですよ」見透かしたように、男は笑う。 「あたしはフリーですよ。どこまでいってもね」 そして、肩をすくめるようして、立ち上がった。 |
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