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年下の上司 story9〜 NovemberA

Monster Civil servant? 本当に悪い奴は誰だ(2)



「だから、どうしてくれるんですか。おたくが大丈夫って言ったんじゃないですか。それ、どう責任とってくれるんですか!」
 廊下まで、女の金切り声が響いている。藤堂は扉の前に立つ水原に急いで声を掛けた。
「どうして的場さんが対応を?」
「すっ、すみません、丁度上が全員出払ってて」
 藤堂に電話をかけてきた水原は、半ば蒼白になっていた。
「中津川補佐が応対したんですけど、埒が明かなくて、それで的場さんが――」
 応対に出るなと言われていたのに―― 。
 気持ちは判るが、謝罪を求められてもすべきではない。示談交渉に市の関与があったと、間違ってもそう解釈されてはいけないからだ。
 藤堂は急いで、扉を開けた。15階、会議室の中でも最もグレードの高い応接間である。
「ええっ、あんた、謝りなさいよ。いい加減なこと言って、その責任どう取ってくれるのよ」
 掴みかからん勢いで、女がテーブルから身を乗り出している。
 的場果歩は、ただ立ったまま、頭を低く下げている。その隣では、中津川補佐が、やはり頭を下げている。
 この場合、ただ「余計なことをしゃべるな」とだけ言われている補佐には、手の打ちようがないはずだった。基本、家族やマスコミへの対応は、藤堂と志摩、そして春日がやっていたのだ。
「なんとか言いなさいって言ってるのよ!」
 がっと立ち上がった女の手には、コーヒーカップが掴まれている。髪はぼさぼさで、目は血走っていた。完全に常軌を逸している。―― 藤堂は咄嗟に間に割って入った。
「藤堂さん!」
 小さな声で、的場果歩が叫んだ。
 熱い液体が、シャツだけの胸元を濡らすのが判った。
「お待たせしました」
 顔にかかった飛沫を払い、藤堂は頭を下げた。「遅くなって申し訳ありませんでした」
「あたしは、その子に謝れって言ってるのよ」
 大河内良子の怒りは、それでもまだ収まりがつかないようだった。
「その子が私に言ったのよ。絶対に免職にはならないから、示談しろって、確かにそう言ったんだから」
 握った両拳が、ぶるぶると震えている。目には、涙さえ浮かべていた。
「席につきませんか」藤堂は落ち着いて言った。
「お話は、僕が伺いますので」
「あんたと、話すことなんてなにもないわよ!」
 良子は、迸るような声をあげた。
「そっちのやり方は判っているのよ。痴漢をでっちあげたあの女、市のえらい人のお嬢さんなんですってね。うちの人は無罪なのに――あなた方、うちの人を切り捨てようとしてるんでしょ??」
「まぁ、奥さん、落ち着いて」中津川がとりなすように、口を挟んだ。
「罪を認めたのは、大河内さんでしょう。そこで、市を責められても」
「だから!」
 女は、きっとした眼差しを、うなだれている的場果歩に向けた。
「その女にそそのかされたのよ! だってそうでしょう? 無駄に裁判して、それが長くかかるとして、いったい誰が、私たちの生活を保障してくれるの??」
 藤堂は果歩を見た。
 ひどく青ざめた顔をしているが、口を頑なに引き結び、強い意思をうかがわせる目をしている。それでも――彼女は、何一つ謝罪しなかったのだ。藤堂はわずかに安堵の息をついた。
「だから、的場はそんなことは言いませんよ」
 もともと短気な中津川は、女の態度に辟易しているようだった。
「常識で考えてくださいよ。奥さん、市の職員が、そんな馬鹿な真似をするはずないじゃないですか」
「市の職員が?」
 女の顔に、呆れたような笑みがかすめた。
「市の職員なんて、ただマスコミに迎合してるだけじゃない。保身のために身内を切り捨てて、自分たちだけ助かろうって魂胆でしょ? あんたら、人間じゃないわ、化け物よ、モンスターよ」
「後は、僕が」
 藤堂は、中津川と果歩を振り返った。
「課長が戻られたら、事情を説明していただけますか」
 今は、一刻も早く、的場果歩をこの場から退出させたかった。
「あんた!」が、再び前に向きなおった時、やおら歩み寄って来た女に、藤堂は腕を掴まれていた。
「あんた、うちの人の上司なんでしょ? なんとかしなさいよ。このままじゃ私たち、住む家さえ取られちゃうのよ!」
 凄まじい形相に、藤堂は初めて気押されて言葉に窮した。
「娘の受験はどうなるの? 学費だって払えないわ、うちは、あの人の給料だけが全てだったのよ?? これからどうやって生きていけばいいの、せめて退職金払いなさいよ、20年以上も務めたのよ??」
 うわーっっっと大声をあげて、女は子供のように泣き伏せた。
「あんなに大きく新聞にも載って、インターネットに名前まで出て、娘も息子も学校にさえ行けないのよ。うちはもうおしまいよ、もう一家で死ぬしかないのよ」
「まぁ、まぁ、奥さん……」
 中津川が、さすがに業をにやしたのか言葉をはさむ。「そんなに大げさに考えなくても」
「大げさですって?」
 ぎっと泣きぬれた目で、女は中津川を睨みつけた。
「あんた、他人事だと思って適当なこと言わないでよ。うちは去年家買ったばかりで、ローンが何十年も残ってるのよ。退職金が出なけりゃ手放すしかないのよ。車のローンだってあと2年も残ってて――」
「大変なのはわかりますが、そりゃ、あんたの都合でしょうが」
 憮然とした表情で中津川が呟く。
「とにかく、私は、その子の責任を追及するわよ」
 女は、果歩を指差した。
 ただ蒼白になった彼女は、何かを我慢するかのように、頑なに唇を引き結んでいる。
「その子に脅されて自白したんだって言ってやるわ。そっちが免職に出てくるなら、うちは徹底的に裁判で争うわよ!」
「じゃあ、そうしてくださいよ。でもね、奥さん」
「補佐」
 藤堂は、完全に業を煮やしている中津川を制した。
「……示談交渉は、どうなっていますか」
 鼻息だけを荒くしたまま、女が無言で藤堂を見上げる。
「以前も説明しましたが、僕らに大河内さんの処遇を決める権限はありません。確かに世論は厳しいですが、――でも、示談が成立すれば、懲戒免だけは避けられる余地も、多少はあるかもしれないんです」
「……本当なの? こないだの説明じゃ、十中八九、懲戒免だって言われたわよ」
 疑心の目が、藤堂を睨みつけている。
「僕に、責任のある答えはできませんが、――」
 苦しい答弁だと、言うしかなかった。実際、ここで期待をもたせることが、この交渉の場において有効かどうかは判らない。人事権は藤堂にも局にもない。全ては人事委員会――いってみれば、市のトップ連中の意向で決まるのだ。
 そしてその意向は、現時点ですでに決まっている。
「もし、被害女性から、そのような嘆願が市あてに出れば、……過去の例からいって、全く可能性がないとは、言えないと思います」
「…………」
 女の顔に暗いものがよぎった。
「それには、まず、過熱したマスコミが静かになるのを待たなければ―― 。市民あっての市ですから、マスコミが騒いでいる間は、市も厳しい対応を検討せざるを得ない面があるんです」
 説明しながら、胸に、さきほど喫茶店で話した男の面影がかすめた。
「……個人的にですが、お力になるつもりです。過去にも、職員が署名活動などをして、嘆願を行ったケースもありますし」
「それはどうもありがとう」
 ふっと女は、冷えた目で笑った。
「じゃ、お金を貸してくれるかしら。一千万でいいから」
「……一千万?」
 藤堂は眉を寄せていた。
「それだけあれば、示談がスムーズに進みそうなのよ。あなたの言う嘆願書?それも書いてもらえるかもしれない。これって明らかに脅迫だけど、相手が市のえらい人の娘さんじゃ、誰も信じてくれないんでしょ?」
「それは、どういう」
 遮るように、女は身を乗り出してきた。
「なんとかするって言ったわよね。あんた、若いんだから、それくらいの借金なんでもないでしょ? これから一億近くもらうんだから、一千万くらい都合してくれたっていいじゃない!」

 *************************
                
「なんとまぁ、目茶苦茶だな」
 ようやく大河内良子が退室した後、うんざりしたような声で呟いたのは中津川だった。
「大河内君は大人しい良識人だったが、まさか、あんなわけのわからん奥さんがついていたとは」
「……気が、動転されているんですよ」
 果歩は呟いて、床にこぼれたコーヒーを雑巾でぬぐった。
 藤堂は、大河内の妻を見送るために一緒に出て行った。そう言えば、まだ湯気の出ていたコーヒーを胸に思いっきりかけられて―― 大丈夫だったのだろうか。
 また、庇われちゃったな。
 本当なら、それを受けるべきだったのは果歩だった。いっそ、そうしたかった。それで、大河内夫人の気が、少しでも晴れるなら―― 。
 私……謝らなかった。
 本当は、自分の気がすむまで謝罪したかった。迂闊なことを、考えもせずに言ってごめんなさい、そう言ってしまいたかった。
 でも、晃司の言うとおりだと思った。
 大河内夫人は、果歩の言葉を捉えて、それを自身の有利なほうに持っていこうとするだろう。確かに迂闊な発言ではあったが、果歩自身は、過去のデータが参考にすぎないことを、はっきり電話で断ったはずだ。決して示談を進めたわけではない。
 そこを――女の誘導に乗って、感情のままに謝罪してしまったら、責任はもう果歩一人で負うにとどまらない。市そのものに波及してしまうのだ。
「あれは最近よく聞く、モンスターペアレントというやつだな。何もかも自分の都合のいいように解釈して、勝手な主張ばかり押し付けてくる。手に負えんよ」
 補佐はまだ、腹にすえかねているようだった。
「まったく、いい迷惑だ。ただでさえ、苦情電話で仕事が滞っているというのに」
 その時、5時を知らせるチャイムが鳴った。
「こっちが謝罪してほしいくらいだよ、まったく」
 そう言いながら出て行った補佐に、果歩は少し寂しさを覚えている。
 確かに、今、総務課は日中仕事ができるような状況ではない。全員が、わけのわからない苦情電話の対応に追われ、精神的に疲れきっている。
 最初、あれほど大河内主査を守ろうと息まいていた誰もが―― 今は、その名をきくだけで、うんざりしたような目をするようになっている。
「片づけは、僕がやりますよ」
 藤堂が戻って来たのはその時だった。
「あ、大丈夫です。こっちはいいんで、それより」果歩は、藤堂の胸元を見た。
 白いシャツの半分が、薄い茶に染まっている。
「火傷しませんでしたか?」
「ああ――大丈夫だと思いますよ」
 椅子を戻しながら、藤堂は特段気にした風もなく答えた。
「でも、結構熱かったですよ」
「そうかな、何も感じなかったけど」
「…………」
 自分もそうだが、何故だか藤堂も、今、必死で平静さを取り繕っているような気がした。しかも―― 相当な努力をして。
(どれだけの力があれば、マスコミを動かせると思いますか? わざわざそんな真似までする理由は、いったい何にあると思いますか?)
(いたって簡単で……ささやかなことだと思いますがね。あなたのような人間にしてみれば、道端の物乞いに小遣いをやるようなものでしょう)
「い、……」
「え?」
 ―― 一千万は、小遣いにしては多すぎますよ。
 何故だか、そう言ってしまうところだった。
 何故だろう、まだ彼の素性を何も知ってはいないのに、果歩は、藤堂がそうできる――もしその気になれば、その金額を工面できるような気がした。
 でも……。
「医務室、行きましょう!」
 果歩は言って、藤堂の腕を取っていた。
「火傷はすぐに冷やさないと、ひどくなったら大変ですから」
「いいですよ。そんな……」
 藤堂は困惑している。「仕事も残してますし、次長にすぐ報告しないといけませんから」
「私がしておきますから」
 果歩は粘るように続けた。「軽くても、一度見てもらったほう安心ですから。お願いだから行ってください」
「はぁ……」
「次長がそのシャツを見ても、同じことを言われると思いますよ!」
 再度強くすすめると、さすがに言うとおりにするしかないと悟ったのか、藤堂は、渋々会議室を出て行った。
 一人になった果歩は、胸によどむ不安をかき消すように、毀れたコーヒー痕を丁寧にぬぐい始めた。
 もし――。
(いたって簡単で……ささやかなことだと思いますがね。あなたのような人間にしてみれば、道端の物乞いに小遣いをやるようなものでしょう)
 自分の感覚では信じられないけど、もし藤堂さんが、そんな解決の方法を選んでしまったら。
 何故だか、もう、彼は役所にはいられないような気がした。
 そんな―― 胸苦しい予感がした。

 *************************

「藤堂さん……?」
 執務室に戻る前、念のため、16階にある医務室に寄ったのは、藤堂が本当に手当に行ったかどうか、信用ならなかったからだ。
 白のパーティションの向こうから「的場さん?」と声がしたので、果歩は、ほっとして、様子を見るために歩み寄った。
 嘱託の医師は、日によっていたりいなかったりだが、今日は診察日だったらしい。
「どうでした? 大丈夫でした?」
「ええ、少し赤くなっていたので、薬を塗ってもらいましたが、大したことはないようです」
「そうな――」
 パーティションの向こうの景色に、果歩は凍りついていた。いや―― この場合、凍りつくとは少し違う。それがあまりに思いもよらなかったというか、予想外というか、不意うちだったので、言葉も思考も固まってしまっていた。
「すみません、こんな格好で」
 この場合、女心が一切判らないに違いない藤堂は、少しばかり恥ずかしそうだった。
 が、それはたとえていえば、会議の席にノーネクタイでいった程度の羞恥に過ぎず、その証拠に、彼は特段臆することもなく果歩を見上げた。
「……的場さん?」
「あ、いっいえ、その、なんでもなくてよかったですね!」
 な――――。
 なんて眩しい素肌だろう。
 こ、ここで、好きな女子の裸を見た高校生みたいに、くらくらしてる私って……。
 雰囲気的に野暮ったく見える彼の体格が、意外に綺麗であることは、体育大会の時でよく判っている。
 厚みがあってたくましくて、なのにすらっと均整がとれた骨格。
 脱いだらすごいんじゃないですか、と言ったのは確か流奈だったが、確かにすごいんだろうと果歩も思った。
 マッチョ的なすごさではなく―― 多分、とんでもなくセクシーじゃないだろうか、という意味で。
 その期待? は、今果歩の前で、半ば裏切られ、半ば実現されていた。
 上半身裸になった彼の姿は、セクシーというよりは男らしくて、ただ清潔で、爽やかだった。
 まだ、女――もとい、汚れを知らない青年のようにも見える。
 以前、スポーツ…格闘技みたいなことをやっていたと、そういえば言っていた。そんな、磨き抜かれた肉体の名残が、引き締まった腹や胸、綺麗な筋肉のあちこちに残っている。
「服が、みっとなく汚れてしまったので」
 頭に手をあてながら、藤堂が言い訳した。ぶっと果歩は、いきなり垣間見えた脇の翳りに卒倒しそうになっている。
 ――ちょっ、か、勘弁して、藤堂さん。無邪気にもほどがありすぎるし!
 先日、いきなり豹変した彼に、抱きすくめられ、情熱的にキスを交わしたことを、なぜか今、フラッシュバックのように思い出している。
 ここで、少しばかり微妙な気持ちになる私って……なんだか、ものすごく欲求不満というか、若い男の肉体に溺れるお局さまみたいじゃない!
「あの、私、外に」出てますから―― 。と、言いかけた時だった。
「おまたせ、藤堂君」
 と、華やかな声がした。
 藤堂君? 果歩は本能的にむっとして声のほうを見ている。
「Tシャツしかなかったけど、それでいい? 何か上に羽織るものあるかな?」
「制服がありますから」
 答える藤堂の前には、白衣の美女が立っていた。
 え、こんな人が医務室にいたっけ、と果歩はあっけに取られていた。
 嘱託医なら、確かもう60過ぎの黒柳徹子みたいなキャラだったはずなのに。
 ぴちぴちした胸をみせびらかすように、はだけた白衣の下はノーホルダーのワンピース。色白のすらっとした足が、その下から覗いている。
 およそ女として、最強の白衣アイテムに身を包んだ美人女医は、ちらり、と初めて果歩のほうに目を向けた。が、その眼差しは、まるでラブストーリーの脇役かその他大勢を見るようなあっけなさで逸らされる。
「どうかな、火傷は。時間あるなら、もう一度薬塗っておく?」
「藤堂さん、次長が早く戻るように言っていましたよ」
 果歩は咄嗟に言っていた。その瞬間、主役と脇役に間に、目に見えない火花が散った。
「あ、それは大変だ」
 素直すぎる藤堂は、あたふたと受け取ったシャツを首に通している。
 あまりにも眼に毒だったものは、それでようやく白いシャツの下に隠された。
「ありがとうございました。えっと、薬の代金は」
「後で回収に行くわ。心配しないで」
「市職員はタダなんですよ。ちゃんと共済費でさっぴかれてますから」
 女医と果歩。
 またしても、火花が散った。
「じゃ、痛くなったらいつでも来てね。あ、私は月、木なの。サービスしてあげるわよ、藤堂君」
「すみません。ありがとうございました」
 とてつもない誘惑を積んだ弾道ロケットが、それ以上に鈍い藤堂の頭上をびゅんびゅん通過していくのが見えた。
「治ったら、念のため見せに来てね。バイ菌でも入って化膿したら大変だから」
 最後に、扉の向こうから手を振る女医に、藤堂はにこっと笑って見せた。
 この際、バイ菌とは自分のことを言っているのに違いない、と、果歩は思った。
「軽い熱傷だと言われました。診てもらってよかったです」
 片や藤堂は、何も感じないのか平然としている。
 果歩は久しぶりに、胸にめらめらっと嫉妬の炎が燃え立つのを感じた。
 確か、裸を見た時、彼の胸には白いガーゼが張り付けてあった。きっとさっきのエロドクターが、身体をすりよせて、この人の……引き締まった胸に手を這わせたに違いない。
 ああっ、なんて愚かなことを勧めてしまったんだろう。てっきり黒柳徹子だと思っていたのに、あんな蜘蛛女が待ち受けていたなんて―― 私ったら!
 忘れていた。この人は自覚のない最強のタラシだったのだ。言わば歩く地雷である。その地雷に、また一人女が踏み込んだ―― 。しかも、これまでとはタイプが違う知的系。感じとしては、りょうをひたすらセクシーにしたような。
「………」
 様子を見に寄らなかったら、ひょっとしなくても、藤堂は戻らなかったかもしれない。
 なにしろ、誘惑に弱い犬だから。
 果歩は横目でちらっと、藤堂を睨んだ。
「簡易な治療しかしてもらえませんから、次はちゃんとした病院に行かれたほうがいいですよ」
「でも、暇があるか」
「朝、寄っていかれたらいいじゃないですか」
 みまなで言わせず、果歩は素早くたたみかける。
「それからシャツは、医務室に知り合いがいるんで、明日にでも私が返しておきますね。藤堂さん、忙しいでしょうから」
 棘を精一杯抑えたせいか、果歩の怒りに、藤堂はまるで気づいていないようだった。
「すみません、じゃ、よろしくお願いします」
「………」
 なに? その悪びれのない爽やかな笑顔は。もしかして、これっぽっちも罪悪感は抱いてないわけ?
 それはそれでいいことだけど。―― なんだろう、この間は、あんなに誘惑に弱かったくせに……。
「……なんですか?」
 藤堂の声がした。少し戸惑ったような口調だった。
「え、なんですか、とは?」果歩はきょとん、と瞬きをする。
「いや、妙に……距離が、……その、いつもより近い気がするから」
 ――近い……?
 はっと我に返った果歩は、慌てて数歩引いていた。
 近いなんてもんじゃなかった。半ば腕を取るようにして歩いていた。あれだけ気をつけていた庁内で―― なんて迂闊だったんだろう。
 藤堂が軽く咳ばらいをした。
 果歩は気まずさで、声も出なくなっている。
 なによ。さっきの女医さんは、もっと馴れ馴れしく近づいていたじゃない。私がちょっと距離を詰めたくらいで、そこまで意識しないでよ。
「でも……ちょっと、安心したかな」
 藤堂の背中から声がした。
「この前のこと、怒ってるんじゃないかと思ったんで」
「………」
「屋上で僕が言ったことは、不愉快だったら忘れて下さい。前も言いました。僕は……今のままで、十分なんです」
 そんなこと言ったっけ。
 このままでいましょうって、意味のわからないことは言われたけど。
「大河内さんのことも、もう少しショックを受けているかと思っていましたが」
 振り返った藤堂は、わずかな笑みを唇に浮かべた。
「そうでもないので、安心しています」
「………」
 正直言えば、会議室で夫人に責め立てられた時、パニックと動悸で、立っていられないほどだった。
 でも、藤堂さんが来てくれたから……。
 あの途端、まるで魔法にかかったように心がすーっと落ち着いた。事態が、ますます悪化した感があるのは判っている。問題は、何も解決していない。でも、藤堂さんがいてくれたら……。
 自分の中の矛盾に、果歩はようやく気が付いていた。
 彼に傍にいてほしいのに、これ以上近づきたくないと思っている自分がいる。
 彼を好きなのに、これ以上好きになりたくないと思っている自分がいる。
 もう、理由ははっきりしている。果歩は恋が怖いのだ。8年前と同じ、自分とは違う世界にいて、親がすすめる婚約者がいる彼を―― 同じように好きになって、また裏切られるのが怖いのだ。
 今のままでいい――それは、確かに果歩も同じだった。
 藤堂といると楽しい。大河内の件はあるけれど、今の総務課の雰囲気も悪くない。このまま――いつまでも、彼の素性など知らないまま、ずっと今のままでいられたら。
 ずっと……今のままで……。
「…………」
 もしかして、藤堂さんも、同じように思っている……?
「本当にそれで、いいんですか」
 まるで自分に問うように、果歩はそう呟いていた。
 わずかに眉を寄せたまま、藤堂が振り返るのが判る。
「私……わかりません。……よく判らないけど、今のままでいいとは……思えません」
「…………」
 無言になった藤堂が、沈思しているのが判る。
 だからって、じゃあ、どうすればいいのだろう。
「ごめんなさい。前も言いましたけど、これは私の問題なんです」
 言い置いて、果歩は歩き出していた。
 このままでいいはずがない。
 だけど、一人でこの怖さを乗り越える勇気もない。
 何年もかけて、ようやく今の自分を作り上げることができた。あの時はまだ若かった。20代の始め、今思えば、全てが怖いものなしで、失っても、すぐに取り戻せるという自信もあった。
 もう30だ。この年になって―― また、あの時のように―― 何もかも失ってしまったら。
「………」
 このままでは、私たち、一歩も前に進めない。
 でも私は、彼に真鍋さんのことを、決して打ち明けることはできないだろう。いや、彼にだけではなく、ほかの誰にも。
 二度と思いだしたくないと同時に、口にした途端、壊れてしまいそうなほど、大切な大切な宝物でもあるから。――    
 どうしよう。判らない。
 いっそ、まだ傷が浅いうちに、藤堂とは、はっきりと決別したほうがいいのだろうか。




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