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年下の上司 story9〜 NovemberA

Monster Civil servant? 本当に悪い奴は誰だ(3)



 執務室に戻ると、空気が妙に固まっているのが判った。
 まだ残っている全員が、席について静まり返っている。
「……どうしたんですか?」 
 果歩は席につき、隣の南原に囁いた。次長室の扉が閉まっている。中で、何かが起きているというのは、漠然と察しがついた。
「来てんだよ」
 南原が、肩をすくめるようにして囁きを返した。
「……誰が?」
「騒動の張本人。さっきいきなり来て、今、課長と次長と話をしてるとこ」
 ―― 大河内主査が??
 果歩は驚いて閉ざされた次長室の扉を見た。
「……一人で?」
「奥さんと入れ違い、あの夫婦、もう壊れてんじゃねぇの?」
 その時、次長室の扉が開いた。
 先に課長が出てきて、次いで出てきた人を見て、果歩は息を引いていた。―― 大河内主査……?
 げっそりとやせて、黒ずんだ頬。落ちくぼんだ目と乾ききった唇が、彼の精神状態と体調をはっきりと物語っているようだった。
 が、きっちりとスーツを着込み、ネクタイを締めている男は、気丈にも全員を見回し、折り目正しく一礼した。
「ご迷惑を、おかけしました」
 執務室は静まり返っている。
「みなさんには、どのようにお詫びしていいのか、わかりません」淡々とした声だった。
「大河内君は、自主退職の相談に来られのだが」
 志摩が、同じくらい淡々と口を挟んだ。
「認められるかどうか判らんので、ひとまず年休扱いで対応してもらうことになるだろう。できれば、今夜のうちに引き継ぎを済ませておくように」
 この瞬間、どういう形であれ、大河内が課を去ることは確定的になったのだと、果歩には判った。
 免職か、自主退職―― 違いは、退職金が出るか出ないかだ。
 どうしてだろう。
 果歩は、動揺を隠せないまま、大河内を見上げた。
 事件は冤罪だと、人事課のモグラは確かに言ったのだ。しかも罠だと、相当の自信をこめて。
 なのに何故――大河内は、特段の抵抗もみせずに、自ら進退を決めるような真似をするのだろう。
 誰も、何も言わない。
 気まずい沈黙の理由は、多分、誰もが判っている。
 みな、疲れているのだ 。連日の苦情電話、たまる仕事、それよりもなおたまっていくストレス。
 多分内心では、全員が「迷惑だ」と思っている。誰もが顔に出さないように、それぞれ無表情で視線を逸らしてはいるが、不満の気配はぷんぷんと伝わってくる。
「……あの、いいですか」
 それでも、口を挟んだのは、南原だった。
 水を打ったような沈黙の中、今度は、全員の注目が南原に集まる。さしもの彼も、わずかにたじろいだようだったが―― 続けた。
「大河内さん、あんた、本当にやったんですか」
 志摩がじろりと、南原を睨むのが判った。それでも南原は、ひるまずに続けた。
「いや、そこんとこだけ、はっきりしてもらえませんかね。俺ら、主査を信じてるから、今日までぎりぎり頑張ってこれたけど、もし、そうじゃないんなら」
「僕がやりました」
 はっきりとした声だった。
「弁解の余地はありません。酒に酔って、少しばかり羽目を外してしまったんです。大変申し訳ないことをしたと思っています」
 静まり返った部屋では、もはや、誰も口を聞こうとしない。
 南原は憮然とし、中津川が軽い舌打ちをした。水原が、重いため息を吐く。
「ご迷惑を、おかけしました」
 大河内は、再度深く頭を下げた。

 *************************
  
「私、何か食べるもの買ってきますね」
 1人減り、2人減り、結局、執務室に残ったのは、藤堂と果歩、それから大河内だけになった。
 よほど腹にすえかねたのか、南原は水原を誘うようにして早々に帰り、なにか、腫れものでも見るような目で、庶務係を見ていた計画係の面々も、いつもより早く帰ってしまった。
 もともと、大河内の仕事は藤堂が引き受けるつもりだったらしく、2人は淡々と業務の引き継ぎを続けている。
 果歩は、財布を持って立ち上がった。
「暗いので、気をつけて」
 声をかけてくれた藤堂に頷きだけを返し、果歩は執務室を出た。午後9時――フロアは照明も消えて、静まり返っている。
 ――僕がやりました。
 ――弁解の余地はありません。
 大河内の言葉が、まだ耳の底に残っている。
 わからない、本当に彼はやったのだろうか。だとしたら、人事部の主査は、なんだってあんな言い方をしたんだろう。
 気になることはまだある。示談金に一千万……大河内夫人が口にした言葉だが、あれはどういう意味だろう。
(――これって明らかに脅迫だけど、相手が市のえらい人の娘さんじゃ、誰も信じてくれないんでしょ?)
 やっぱり、この事件の裏には何かあるんだ。
 よく判らないが、そうとしか思えない。でも、なんだって主査は、ああもはっきり罪を認める必要があるんだろう―― ?
 相手が、市の大物の娘さんだから?
 が、気を使うにしては賭けるものの大きさが違いすぎる。奥さんの言い草ではないが、大河内家にとっては、まさに生死がかかった重大事なのだ。
 ――晃司……調べてくれるって言ったけど。
 あれきり、晃司からは何も連絡はない。日中はお互いに忙しいから、顔を合わせる暇もない。まぁ、もともと、頼ってはいけない人だったのかもしれないけど…… 。
 コンビニまで歩いて、缶コーヒーを3つと、チョコレート菓子をいくつか買った。
 もちろんこんな時間だから果歩は食べられない。2人への差し入れのつもりだった。
 藤堂さん……すごく、普通だったな。
 誰もが、強張ったり、妙に気づかったりする空気の中で、1人遅れてきた藤堂だけは、全く普段どおりに振舞っていた。
「じゃ、はじめましょうか」と、淡々と引き継ぎを切り出し、大河内も淡々とそれに応じ、すぐに2人は仕事の中に入っていった。
「ここの数字は、どうやって出しましたか」
「前年度の5パーセントで見込んでいるんですよ。でも、一部別のところから数字を持ってきてるんで……」
「なるほど、それは気付かなかったな」
「いや、係長の出されたこの数字のほうが、僕は的確だと思いますよ」
 傍らで聞いている果歩には、それは全く、普段の執務室内での2人に見えた。
 藤堂が、意外に大河内を信頼し、大河内がそれ以上に藤堂を信頼していることが、傍で見ていてはっきりと判る。
 そういえば、大河内は誰よりも早く藤堂のことを係長と呼んでいたっけ。
 てっきりそれは、大河内の事なかれ主義な性格ゆえだと思っていたが……。
 係内の仕事については、藤堂はまず誰よりも先に大河内に相談する。今頃になって、果歩は気が付いている。つきあいが薄いなんて、そんな薄情な言い方を藤堂さんはしたけれど、そうじゃない。もしかすると、この課内で一番、彼は大河内さんを頼っていたのかもしれないのだ。……
 執務室に戻ると、2人の姿は消えていた。机の上が乱雑に散らかっているから、倉庫にでも行ったのかもしれない。コーヒーを冷蔵庫に入れようと給湯室に入ろうとした時、中から藤堂の声が聞こえた。
「どうして、嘘をつかれるんですか」
 果歩はどきっとして、咄嗟に息を詰めていた。中からコーヒー豆の匂いがしたから、コーヒーを淹れようとしていたのかもしれない。
「嘘……、ですか」
 戸惑ったように答えたのは、大河内だった。
「的場さんが言っていたんです。本当に罪を犯したのなら、大河内さんは5日も意地を張り続けられるような人ではないと。――僕も、そう思いました」
「………」
 息が詰まるような沈黙の後、緊張が解けたような笑い声が聞こえた。
「それは……的場さんも係長も、僕のことを知らないんですよ」
 自棄とも、あきらめとも取れる口調だった。
「せっかくご心配いいただいているのに、悪い言い方になるかもしれないですが、……たかだか仕事でつきあっている相手のことなんて、誰も―― 本当のところなんて判りませんよ」
「………」
「判った気になっているだけです。職場なんて……しょせん、人生で一番仮面を被って過ごす場所じゃないですか」
 藤堂は答えなかった。水を流す音だけが聞こえて、途切れた。
「警察は、怖いところですよ」
 苦笑交じりの声がした。「最初はね。あれでも免職になるかもしれないって思って、ひたすらやってないって言い張ったんです。それに、みっともないでしょう。いい年した親父が、女子高生に痴漢なんて」
 やはり藤堂は答えない。
 その沈黙を取りつくろうように、大河内一人がしゃべり続ける。
「散々責められて、結局は白状しました。それでも、最悪停職くらいで済むかもしれないって思ったんですけどね。まぁ、こういうご時世ですからね。仕方がないんでしょう、世間は、公務員に厳しいですから」
 どうして藤堂は何も言わないのだろう。
 立ち聞きしている果歩は思っている。
 ショックを受けているのかもしれないが、なんだか一人で喋っている大河内が憐れに思える。
 果歩自身は、―― 少なからず、心に衝撃を受けていた。
 確かに、その通りかもしれない。人生で最も仮面をかぶって過ごす場所。
 それを、職場というのなら、私は誰のことだって、本当の意味では知ってはいない。
「女房は訴えるのなんのと大騒ぎしてますが、安心していていいですよ。僕が犯した罪なんです。自分で……ケツくらい、拭いますよ」
 わずかな沈黙があった。
「そうでしょうか」沈黙を破ったのは、藤堂だった。
「僕が若輩だからでしょうが、僕はそうは思わない」
「……何が、でしょうか」
「仮面を被らなければ耐えられない場所だからこそ、時折、思いもよらない本性が出てしまうこともあるんじゃないですか」
「…………」
「自分の本性が何かなんて、僕自身にも判りません。日々、色んなことにぶつかっていって、その都度気づかされてばかりです」
「…………」
「自分のことも、相手のことも、そのようにして知っていくものではないですか。僕は、的場さんの指摘が、的外れなものだとは思いません。大河内さんが嘘をついているとしたら、 ――それは、今です」
「…………」
「……嘘をつかれてまで、いったい何を守ろうとしているのかは、判りませんが」
「…………」
 沈黙の下で、大河内が息を詰め、歯を食いしばるようにして泣いているのが、果歩には判った。
「す、……すみません、みっともないところを、お見せして」
 鼻を噛むような音がした。
「ふ、不思議なもんですね。誰かに無条件に信じてもらえることが、こんなに、……嬉しいものだなんて、今まで、思ってもみなかった……」
「……大河内さん」
「じ、人生は悔いることばかりです。あなたはまだお若いから、そういう失敗もないんでしょうね。僕もあの時、きちんと信じてあげればよかった。どんなに悔いても、取り戻せるものではありませんが」
 耐えていた感情が一気に押し寄せたのか、そのまま大河内は、声を殺して泣き続けているようだった。
「僕は――何もしていません。少なくとも、警察に捕まったことについては」
 振り絞るような声は、ここ数日の疑惑の、全ての真実を吐露していた。
「でも、これでいいんです。もう何もおっしゃらないでください。そのお気持ちだけで十分です。原因は全て僕なんですから。僕は……、――藤堂さん」
「……はい」
「人を殺そうとしている奴がいます。それに加担している奴と、ただ見ているだけで何もしない奴がいる。本当に悪いのは誰だと思いますか」
「………」
「僕は……何もしなかった奴だと思います。何故だと思いますか、その中で、そいつが一番、リスクなしに助けることができたからです」
「………」
「今、僕は、あの時の罰を受けているんです。それだけのことなんです。大丈夫です、女房と子供は、石にかじりついてでも食わせていきます。今日まで、本当にお世話になりました」

 *************************
                 
「あの……」
 ずっと黙りこんでいる藤堂に声をかけたのは、10時を少し過ぎてからだった。
 大河内はすでに帰宅し、執務室には藤堂と果歩の2人になっている。
「―― はい?」
 はっと我に返ったように藤堂は顔をあげた。
 彼が、さきほどから何もせず、ずっと考えこんでいるのを知っていた果歩は、あえて素知らぬふりで言った。
「もう帰りませんか、10時はとっくに過ぎちゃってるし」
「ああ……」
 戸惑ったように、藤堂は腕時計に視線を落とした。
「僕はもう少し……、的場さんは、帰られますか」
 そういう返事がくることは予想していた。
「さっき、コンビニにいく途中、高校生みたいなのにつけられたんです」
「本当ですか?」藤堂が眉をよせた。
「最近はひったくりも多発してるし、なんだか怖くて……バス停まで一緒に帰ってもらえませんか」
「いいですよ。そういうことなら」
 ごめんなさい、大嘘です。
 人――というか果歩を疑うことを知らない藤堂が、急いで机の上を片付けるのを見ながら、心の中で手を合わせる。
 彼が何を考えているのか、果歩には、手に取るようだった。
 大河内さんのこと、なんとかしたいと思ってるんだろうな。
 もし―― 果歩には、藤堂の家のことは想像もつかないけど――もし、全てがあのモグラ主査の言う通りで、彼が……たとえば役所をやめて元の場所に戻ることで、この騒ぎが収まるのなら。
 加えて、元の場所に戻ることで、たとえば大河内さんを救うための―― お金とか手段とか、そういうものを得ることができるのなら。
 彼はどうするだろうか。
 役所をやめてしまうだろうか。
 普通なら、やめたりはしない。自分の人生を他人のために賭けるほどの大きな理由がない限りは、多分。
 が、藤堂はどうだろう。
 もし、彼の居場所が、本当はここではなかったら――?
 本当の居場所は別にあって、彼は今、単にその場所から逃げているだけだとしたら―― ?
 そもそも、藤堂は何のために役所にいるのだろう。
 少なくとも生活のためではない以上、彼の心を引きとめている何かが揺れてしまったら、……。
「先にロビーに出てますね」
 果歩は、断ってから、執務室を出た。
 ――私……矛盾してるな。
 一人になった藤堂が思いつめてしまうのが怖くて、こうして一緒にいようと誘っている。
 このままでは、彼が役所を去ってしまうだろうという予感が漠然としている。
 私―― 私はどうしたいんだろう。
 さっきまで、いっそ別れてしまいたいと思っていたのに、彼を失うと思ったとたん、もう、未練と恋しさで胸がいっぱいになっている……。
「ああ、やっぱり残ってたんだ」
 ロビーに出た途端、声をかけられ、果歩はぎょっとして立ちすくんだ。
 薄闇の中から、見慣れた長身が現れる。
「俺だよ、俺。なんだよ、幽霊でも見たような顔をして」
「晃司?」
 どうして晃司が――今日は早く帰っていたはずだったのに。
 が、その背後から顔をのぞかせた人を見て、果歩は今度こそ本当に驚いていた。
 
 *************************
               
「びっくりしたよ、いきなり前園さんですかって、声かけられた時は」
 よほど驚いたのか、晃司は首をかしげながら不審そうに口を開いた。
「どうして俺のこと知ってるのって聞いたら、瑛士さんのご友人は、みな記憶してるんですって、――どこのお嬢様?」
「さぁ」
 果歩は肩をすくめた。
「随分、長い間、外で待ってたみたいだけど……」
 晃司は呟き、果歩もそのまま無言になった。
 夜の国道沿い。風は冷たく、もう冬の匂いを孕んでいる。
 晃司に言われるまでもない。冷えきった手、赤い鼻先、あの、いかにも温室育ちっぽいお嬢様が、ずっと役所の外で、藤堂さんの帰りを待っていたのだ。
 果歩を見つけて、まるで主人を見つけた犬みたいに無邪気に目を輝かせて…… 。
 係長なら、今、中で帰り仕度をしてますよ。
 果歩はそれだけを香夜に伝え、晃司の手を引くようにしてエレベーターに乗り込んだ。
 多分、ベストな選択だった。顔を合わせれば、自然に怒りとか嫉妬とかが表にでて、藤堂にも伝わってしまうだろう。
 ――藤堂さん……怒ったかな。
 彼が、香夜から逃げ回っているのは知っている。が、あれほど切ないまでの恋情を見せつけられて、放っておくことができるだろうか。
 そうよ、だいたい逃げるなんて男らしくないもの。
 せっかくだから、はっきりかたをつければいいんだわ。私か、 あの人か。
「…………」
 果歩は、はあっとため息をついた。
 この状況で、何やってんだろ、私。
 なんだか限りなく、私が切り捨てられそうな――そんな展開の夜だっていうのに。
 果歩は、気を取り直して晃司を見上げた。
「それより、どうしたの? 今夜は早く帰ったんじゃなかったっけ」
「飲んでたんだ」
「へぇ……」
 仕事人間が、珍しいこともあるもんだ。と、果歩は改めて晃司の顔を見つめている。
「……昔の南区の連中と――俺から誘ったのなんて初めてだったから、明日雪でも降るのかって驚かれたよ」
「………え」
 南区? 
「あ、じゃあ、……もしかして」
 晃司の横顔は、少しだけ面映ゆそうだった。
「丁度、帰りに役所の前通ったからさ。なんか、まだ残ってそうな気がしたから」
「……ありがとう」
 もしかしたら、忘れられたかスルーされたかと思っていたのに。
 なんだか、感動でじわっと視界がうるんでいる。晃司がこんなにいい人だったなんて――何か、夢でも見ているんじゃないだろうか。
「俺、決心したから」
「何を?」
 果歩は腕時計を見た。こんな時間だ――入れる店があったかな。そうだ、もう少し歩けば、24時間営業のコーヒーショップがあったっけ。
 顔をあげると、晃司が妙に真剣な顔で黙りこくっている。「……晃司?」
「つ、……」
「つ?」
 晃司の気負いと、緊張が、果歩にはまるで判らない。つ……? つがつく決心ってなんだろう。
「――釣り道具、買うよ!」
「…………」
 果歩は、瞬きをして晃司を見上げた。――なんだろう、それ。
「彼女の趣味?」
 よかった〜別れてて。船釣りなんかしようって言われたら、マジ、困ってたところだった。
「いいね、健康的で」
 自分が言ったことなど、果歩はすっかり忘れている。




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