コーヒーショップで隣り合ってスツールに座った後、晃司はしばらく不機嫌そうだったが、諦めたように本題に入ってくれた。 「判ったよ、モンスター長妻と大河内さんの繋がりが。――っても、直接じゃないんだけどさ」 果歩は頷いた。「長妻さんが区に異動したことなんてないもんね」 りょうが指摘する職員名簿は、果歩も一応調べてみた。 大河内は当時、南区土木課の主事で、長妻は本庁の財務局長―― まず、接点などあり得ないし想像もつかない。ただ、晃司との繋がりだけは、漠然と判った。 当時土木課の庶務だった佐伯美香という女性が、その2年後に収納の庶務になっている。晃司が新規採用で配属された課の庶務担当である。 晃司は今夜、その佐伯美香を含む、当時の収納課の面々と飲み行ったらしかった。 「佐伯さんに聞いてやっと俺も思い出したよ。入庁した時から、そういや南区には怖い噂があったんだ。……屋上の幽霊」 「――え?」 晃司はそこで軽く嘆息し、コーヒーを一口飲んだ。 「俺が入る2年前、屋上から飛び降りて、自殺した職員がいたんだよ。勤務時間中、……ものすごい音がして……以来、屋上には出るんだって」 当時のことを思い出したのか、晃司はわずかに眉をしかめた。 「役所に入った時、色んな奴から聞かされたのに、忘れるもんなんだな。たかだか6年ほど前のことなのにさ」 「…………」 そういえば―― 。 古い古い記憶の片隅に、そんな新聞記事を読んだイメージが蘇る。果歩にとってもはるか昔で、全く内容は覚えていないのだが。 「土木の……職員だったの?」 「その通り、大河内さんの同僚で、一緒に組んで工事入札とか担当していた人だった」 「…………」 「家も近所で、子供さんも同じ小学校出身、プライベートでも仲の良かった人らしい」 果歩は息を飲み、膝で拳を握りしめた。「……それで?」 (人を殺そうとしている奴がいます。それに加担している奴と、ただ見ているだけで何もしない奴がいる。本当に悪いのは誰だと思いますか) 「こっから先はオフレコな。佐伯さんに迷惑がかかるから。―― 死んだ職員は三島さんっていうんだけど、実は自殺当時、逮捕直前だったんだ」 「逮捕??」 「入札担当って言えば……ま、収賄だろ」 晃司の声が低くなった。 「…………」 「特定業者に情報流して、それで落とさせてたっていうんだ。内部リークで発覚して、警察が動く前に、懲戒免処分にされた。佐伯さんの話じゃ、発覚から処分まで本当にあっという間だったらしい」 えっと、果歩は驚いている。じゃあ、それは、罪が確定する前に――ってこと? 「警察が動く前って……そういうものなの?」 「そういうもんだよ。市も独自に調査するだろ。状況証拠が固まって本人が認めりゃ、警察が動く前に先行して処分する。マスコミが気づいて騒ぎ出した時、その職員はもう免職しています、で逃げられるだろ」 「…………」 確かにそうだ。警察の処分と、市の処分は自ずと違う。 果歩は軽い焦燥を覚えた。だとすれば、大河内も同じである。本人がああして罪を認めている以上、警察の処分を待たずに懲戒免の決定が降りる可能性は十分にある。 晃司は続けた。 「その後、市が警察に告発して、本格的な収賄容疑での取り調べが始まってさ。……もちろんマスコミの取材も来るし、三島さん、何度も警察に事情聴取されて、当時はノイローゼ状態だったそうなんだ」 晃司は苦い目で、首のあたりに手をやった。 「怖いだろ。役所クビになったのに、わざわざ南区の屋上から飛び降りたんだぜ? 相当、恨みがあったんじゃないかって……実際、それを裏付ける噂もあったそうなんだ。こっから先は、ちょっと果歩には、嫌な話になるかもしれないけど―― 」 果歩が促すように頷くと、晃司はわずかに言葉を濁した。 「……事件後、土木の職員はほとんど散り散りに飛ばされてさ。まぁ、汚職防止に失敗したんだから、全体責任ってやつなんだろうな。―― 全員が、どっかの区とか事業所に飛ばされたんたけど、1人、大河内さんだけが、本庁の観光課に……いってみりゃ、栄転みたいな形で異動になったそうなんだ」 「…………」 「それで、色々噂がたった。もしかして、三島さんを告発したのは大河内さんなんじゃないかって」 「…………」 「そう考えると、全部のつじつまがあうんだそうだ。そもそも内部リークなんて、よほど近い人間じゃないと出来ないだろ。それなりに巧妙に隠してたんだろうし」 「うん……」 果歩は黙って考えている。 一番悪い奴―― 何もしなかった奴……多分、それは違う。 「でも、当時の土木にはもう一人。いったん外郭団体に異動になったものの、2年後には本庁財務課に異動になって、現在本庁の部長級にまでなってる奴がいる」 「…………」 果歩は、職員名簿で見た名前を思い出していた。そうだ、 その時も、へぇ、こんな人が昔は土木にいたんだな、と少しだけ奇異に思った記憶がある。 「人事部長の勅使河原さんだよ。土木の前の経歴を調べたら、都市開発課時代に長妻さんの下で5年くらい働いてた。―― 当時の土木と長妻さんとの繋がりといえば、あの人しか思いつかない」 ************************* 「的場さんって、本当に素敵な方ですね」 楽しそうに話す女を、藤堂はわずかに微笑して見下ろした。 ホテルの最上階にある展望台つきのレストラン。お腹が空いて死にそうだと香夜がいうから飛び込んだのだが、ラストオーダーぎりぎりだった。 自身も最後のコーヒーを口にして、藤堂は少しきまずい咳ばらいをした。 「香夜さん、申し訳ないのですが、これを食べたら――」 「はい、ちゃんと部屋に帰ります」 ケーキをつつきながら、香夜は素直に笑った。が、その笑顔を、少しも信じてはいけないことを、藤堂はよく知っている。 傍目には、随分幼げに見える彼女だが、実は藤堂より2歳年上で、東京で会社を2つほど経営している。どちらも父親から譲られたものだが、輸入雑貨家具、コスメティックとランジェリー、業績は上々で、実業家としてもあなどれない一面を有している。 が、なによりあなどれないのは、何をしでかすか予想もつかない、あまりに突飛な性格である。香夜という昔話のお姫様のような名前のとおり、もしかしてあの子は、本当に月から来たのではないか―― と、親類の中で囁かれるほどの変わり者。 「香夜さん」再度咳ばらいをしながら、藤堂は続けた。 「念のために言いますが、その部屋というのはですね」 「ホテルの部屋です。心配しなくても、昨日、瑛士さんの部屋は引き払いましたから」 一瞬ほっとしたものの、はっと藤堂は色をなして顔をあげた。 「それは、まさか部屋ごと引き払ったっていう意味じゃ」 「まさか。私が出ていったんですよ。何当たり前のことを言ってるんですか」 いや、やりかねないから訊いたのだ。 藤堂は内心冷や汗をかきながら、外の景色に視線を転じた。 数年ぶりに再会して、彼女の性格がますますグレードアップしていると気づかされたのは、迂闊にもごく最近である。 が……その底に流れる感情が判らないだけに、何をされても藤堂にはいまひとつ彼女の真意が拒みきれない。それ以前に、どう謝っても許されない罪を、過去に藤堂は彼女に対して犯している……。 「お仕事、忙しいんですね」 香夜の声が真面目だったので、藤堂もふと心の警戒を解いている。 「せっかく東京から出てきてくださったのに、お相手できずにすみませんでした」 「いいんです。私が、無理を言ったんですから」 香夜は、愛らしい舌を出した。 「今回は退散してあげます。でも、次は、もっと作戦を練っておしかけますよ」 「いや……もう、このあたりで」 本当に汗が滲んできて、藤堂は額に手をあてた。 「今度用事がある時は、僕が東京に戻りますから」 「うちの父には、まだ話していないんでしょう?」 「え?」 「瑛士さんが、やはり結婚できないと言い出したことですよ」 香夜が、ごく自然に触れにくい話題に踏み込んだので、藤堂は少し驚いて顔を上げていた。 香夜は、もくもくとアイスを口に運んでいて、やはり藤堂には、今、彼女が何を考えているのか判らなかった。 何故、誰もが忘れていたはずの婚約の話を、8年もたった今になって蒸し返したのか――、その理由が全く判らないように。 「そうですね―― 何度か電話はしたのですが、……会ってはいただけないようです」 「私が、絶対に瑛士さんに会うなって言ってるんですよ。だから父はまだ、婚約は成立中だと思いこんでいます」 「…………」 わずかに唇を引き結び、藤堂は香夜に向きなおった。 「香夜さん、あなたは……本当は」 「瑛士さん!」 何かに驚いたような声が、唐突に藤堂を遮った。 「このアイス、ほんとうにおいしいです! ひと口食べてみてください」 「いや……、僕は」 「そんなこと言わずに、さぁ」 「いえ、本当に」 「私、食べてくれるまで、ずっと勧め続けますよ?」 「…………」 「さぁ、あーんして」 「いや、」 「さぁ」 「…………」 仕方なく言う通りにした。「 ――ねっ」 「……おいしいです」 背後の2人連れ女客が、くすくすと笑いをかみ殺している。 はぁっと藤堂は溜息をついた。 昔と全く変わらない。彼女といると、万事がこの調子で進んでいく。 この人といると、永遠に本題が切りだせない気になるのは何故だろう。 「さっ、瑛士さん、もう一口」 「いや、いいです。その、虫歯が――」 「虫歯?」 「甘いものがしみるので」 見え見えの言い訳だったが、香夜は、ぱちぱちと瞬きして、不思議そうな眼で藤堂を見上げた。 「虫歯がなんですか。甘いもの食べて元気にならなきゃ。そんな深刻な顔、瑛士さんには似合わないですよ」 「はぁ……」 「もう一本スプーンがありますから、一緒に食べましょ? ね?」 まったく――。 それでも、明るい笑顔を見ていると、少しだけ気持ちも軽くなる。 あの時は、二度とこうして笑い合うことなどないと思っていたが――彼女の中で、過去はどのように整理されたのだろうか。 「あ、そうだ、瑛士さん。ひとつ発見です。的場さんって、前園さんとつきあっているでしょう」 その明るさのままで、香夜は唐突に話題を変えた。 「さぁ……、僕には判らないですが」 「だって、果歩って呼んでたんですよ。的場さんも、すごく甘えた声で晃司って。大人ですね」 「……そうですね」 「でも、呼び捨てって憧れます。私も呼んでもいいですか。――瑛士」 「……はは」 「2人して、今からどこかへ行くみたいだったし。なんだかすごく楽しそうだったんです。本当にお似合いの2人ですね」 「……そうですね」 ――お似合い、か……。 先ほど堂々廻りしていた思考が、また同じ迷路に入り込んでいく。 誰もが、自分がいるべき場所を持っている。 自分のそれは、果たして――どこだったのだろうか。 「瑛士さん」 「……そうですね」 「瑛士さん?」 いい加減な返事をしていた藤堂は、香夜の強い口調に、ようやく顔をあげていた。 香夜は、すこし睨むような眼で、じっと藤堂を見つめている。 「そして瑛士さんには、私が、一番似合ってるんですよ」 「…………」 「そのことを、絶対に忘れないでくださいね」 「…………」 ふと、自棄にも似た気持ちが、胸の底に湧き上がりそうになっている。 判っている。いつもの悪癖――限界が、もう首のあたりにまで届きそうになっている。 (私……よく判りませんけど、このままでいいとは、思えません) (金持ちのぼんぼんが、何が楽しくて貧乏生活を満喫してるのかは知りませんが、それが周囲にとってとんでもない迷惑だってことを、いい加減自覚すべきだ) (僕は――何もしていません。少なくとも、警察に捕まったことについては) あらゆることには、見えない可能性が潜んでいる。 諦めたら、そこが終わりだ。 それでも、たったひとつだけ、どうしても越えられないと思う壁がある。――。 ************************* 「……ごめんなさいね。……あなたには……色々、失礼なことを言っちゃって」 数日で、げっそり痩せた感のある女は、ぼそぼそとした声で切り出した。 大河内良子―― 多分、今、少しばかり精神衰弱になりかけているのだろう。目の前で小さく肩をすぼめている女からは、先日までの猛々しい怒りは消えて、今は ただ、疲れきっているようにしか見えない。 (的場さんに、どうしても直接謝罪したくて……どこかで、お会いできませんでしょうか) おそらく夫に叱られたのか、180度態度を変えた電話が携帯にあったのは、昨夜遅くのことだった。 土曜日。開店したばかりの役所近くの喫茶店で、果歩は大河内の妻と会うことになった。 正直言えば、会うのはかなり怖かったし、藤堂に相談しようかとも思ったが―― それはやめた。 なんだか……これ以上、彼を追い詰めてはいけないような気がしたからだ。 ――藤堂さん……今、何を考えているんだろう。 藤堂が香夜と帰り、果歩が晃司と帰った夜から、2人の間には再び目に見えない壁ができて、互いにそれを乗り越える気がないのは明らかだった。 というより、今、藤堂にとっては、恋愛は思考の枠外にあるのだろう。 彼が悩んでいるのは――多分、大河内さんのことだ。 そこに、自分がどう関わっていくか、……果歩に深いことまでは判らないが、そういったことで、考え込んでいるのだろう。 ただ、謝罪を受けるだけなら、個人的に会っても問題はないだろう。そう思って、結局は一人で大河内の妻に会うことにした。 が、最初に少しばかり謝ったきり、大河内良子は、気まずそうに口を閉ざし、そのまま視線をうろうろさせている。 ――なんだろう……。 彼女が、何かを頼みたがっている気配は察したが、それが何か判らないまま、果歩は所在なく、女の言葉を待っていた。 やがて、ひたすら黙りこくった後、 夫人は、ぽつりと切り出した。 「実は……被害者の女性は、元市職員の、娘さんなんですけども」 「知っています」と果歩は、用心深く答えた。 「長妻元局長の……お嬢さんだったそうですね」 何故か沈み込んでいた女は、その刹那、ぱっと眼を輝かせた。「的場さん、ご存じだったのね。じゃ、そのお嬢さんと面識はある?」 「いえ、それは……」 「そう……」 みるみるその輝きが萎れた。 果歩には、まだ女が何を言いたいのか判らないが、どうやら、ただ謝罪がしたくて呼び出されたわけではないらしい。 「じゃあ、長妻さんをよく知っている方のこと、ご存じじゃないかしら。以前主人に聞いたのだけど、あなた、前は市長の秘書をしていたっていうから」 「すみません。私自身に、そういった伝手は、何も……」 「そう……」 今度は心底、女はがっくりきたようだった。 再び女が黙り込んだので、少し迷ってから、果歩は先夜からずっと疑問に思っていたことを切り出してみた。 「その……ご主人の方に、面識は……?」 「え?」 「ご主人と長妻局長は、お知り合いではなかったんですか」 大河内は、間違いなく被害者女性を庇っている。 事件が何かの誤解でなければ、被害女性が、故意に虚偽を言い立てているのだ。つまり、嘘をついている。 理由は―― 果歩には想像もつかないが、偶然でなければ、何かの意味があるはずだった。 市政の怪物、長妻元局長の一人娘 。大河内との接点といえば8年前の汚職事件しか考えられない。 大河内の言動も、りょうの指摘も、その線を明確に指している。 が、判らない――。汚職事件の裏に何があったとしても、少なくとも表向き長妻局長は無関係だ。死んだのは三島という職員で、万が一大河内が三島を告発していたとしても、長妻局長の娘が大河内に報復する理由が説明つかない。大河内が、職を辞してまで、その少女を庇う理由も。 罰―― 。 大河内さんは、罰を受けていると言った。信じてあげることができたら、とも。 一番悪い奴は―― 何もしなかった奴。 それが、8年前の事件での、大河内の役回りだとしたら、大河内は決して同僚を告発したわけではないのだ。なのに、彼だけが不自然な異動をしている――。 「主人がですか?」 が、夫人は、思いもよらないという表情になった。 「主人は、全くですよ。長妻という名前をきいても、しばらくぴんとこなかったみたいですし」 「……そうなんですか」 「後から、市の大物だって聞いて、びびったんじゃないんですか。それで焦って自白したんでしょうよ。本当に、情けないんだから……」 「…………」 この人は、夫の無罪を心から信じていたわけじゃないんだ……。 寂しさと非難がましい気持ちが同時に押し寄せたが、果歩には何も言えなかった。 「ただ、うちの娘は知っていたみたいです。色々聞いたら、どうも小学校が同じだったようで」 「えっ……」娘さんが? 「娘より3学年上なので、私に面識はありませんでしたけどね。なにしろ、家が近いですから……そういう偶然もあったんだ思うと、恐ろしくなりましたけど」 「あの、長妻さんとは、ご近所なんですか?」 それもまた、初めて耳にする事実だった。 「近所というより、同じ学区内ですか。……少し距離がありますから、長妻さんのご自宅は、私、見たことはありませんけど」 果歩は、少し胸がドキドキするのを感じていた。 一昨日、晃司はなんて言っていただろう。自殺した三島の娘と大河内の娘は同じ小学校で――。 そうか。大河内、三島、長妻の3家族は、ごく近くに住んでいたんだ。 「3歳年上、とおっしゃいましたよね。失礼ですが……その、被害者の方のご年齢は」 「18です。まだ、高校3年生なんですよ」 だから嘘をつくはずがないって、警察はもう、一方的にあの子の味方なんですよ。大河内夫人の言葉は、もう果歩の耳には入っていなかった。 18歳……ということは、8年前は10歳だ。学年で言えば4年生か5年生だろうか。 三島の娘は、当時小学4年生だった。―― 繋がった。同じ学校で、同じ学年なら、少なくとも面識程度はあったはずだ。 でも――だから? なんだか頭がこんがらがってくる。 が、確かにそこには、なんらかの因果の根が含まれているはずなのだ。 大河内主査が、職を辞してまで守ろうとした何かが―― 。 「実はですね。……それで、相談なんですけど、的場さん」 憔悴しきった声で、妻は続けた。 「これは……弁護士先生に口止めされているんですけど、あの娘、……長妻真央というんですが、私に電話してきたんです。家を売って一千万用意しろって」 「 一千万ですか?」 さすがに耳を疑っていた。「どういう金額ですか、それ」 「その額をこっそり自分に振り込めば、示談にしてやるって言うんです。明らかに脅迫じゃないですか。――でも先生は、金額がふざけすぎているから、逆に脅迫にはなりえないって言うんです」 確かに、あの程度の事件の示談で、一千万はふざけすぎている。 「でも、電話で話をした私には判ります。あの子……本気でした。本気で一千万、うちから奪おうとしてたんですよ!」 「お金に……困っていたんでしょうか?」 口にした言葉のバカバカしさに、果歩は思わず嘆息した。 年に一千万以上の報酬を得ている元局長のお嬢様が? それは、すこしばかりあり得ない。しかも大河内家から一千万など、――普通に考えて捻出は不可能だと判るはずだ。 「なんにしても、主人は罠にかけられたんです。相手の目的がお金なら、悔しいですけど、多少の金額は払います」 「…………」 「でも、一千万なんて不可能で……。的場さん、実は弁護士からは、万が一裁判になったら不利になるので、娘と直接示談の話はするなって言われてるんです。示談については、双方の弁護士で話しあうからって」 「そうなんですか」 「でも、あの娘……表向きの示談には、絶対応じないはずなんです。私にはわかります。だから、……的場さん、ここからがお願いなんですが」 「……なんでしょうか」 「あの娘と会ってみてもらえないでしょうか。あの娘の真意みたいなものを、ぜひとも聞いてみていただきたいんです。第三者なら、会って話しても問題ないと思いますし」 すがるようにせがまれ、果歩はさすがに返事に窮した。 そこまで踏み込めば、相当な危険と跳ね返りがあることは覚悟しなければならない。 「わかりました。……私でよければ」 が、しばらく考えてから、果歩は頷いた。 踏み込むことには躊躇いがある。が、ここで自分可愛さに無視を決め込むことなんて、人として出来るだろうか? 果歩は、主査の口から、はっきりと聞いてしまったのだ。 あの人は無実だ。 なのに今、一人で罪を背負って役所を辞めようとしている……。 その理由の一端に、今、足を踏み入れようとしているのなら、途中で引いたりせず、最後まで踏み込むしかない。 ************************* 「もし三島さんの娘と、長妻局長の娘が仲良しだったとしたら……」 首をかしげながら、晃司は続けた。 「動機は復讐? 三島さんを見捨てた大河内さんが許せなかったってところかな」 「そうね……それしか考えられないんだけど」 だとしたら、長妻真央――この事件の被害者の女子高生だが、真央の父親が長妻であったことは、ただの偶然で、なんの意味も持たないことになる。 「長妻さんの口から、何か事件の裏みたいなこと聞き出したのかもしれないぜ。本当に悪いのは大河内さんだ、とかさ」 「そうね……」 三島という職員の自殺後、栄転に近い形で本庁に異動になった大河内。 多分、それが一番妥当な線なのだろう。 が、それより、いったんは外郭に出たものの一年後に本庁に異動になった人事部長の勅使河原。そして――その勅使河原を部下として可愛がっていた長妻はどうなのだろう。 なんだか、あの横領事件の裏には、単純でない影がひそんでいそうな気がしてならない。 が――そこは、おそらく踏み込んだら、二度と出られない暗黒の森だ。 「なんか、謎ばっかだなぁ。お前、本当に大河内の奥さん信じて大丈夫か?」 「てか、どこまでついてくるの?」 果歩は足をとめて、晃司を見上げた。 果歩にとっての一番の謎は、どうして晃司がついてきたかだ。 「大丈夫だよ、私一人で」 「いや、だってあぶねーだろ」 あけて月曜日。 果歩は1時間年休を取って、バスを2本乗り継いで―― 北区にある私立女子高前のバス停に降り立っていた。大河内夫人に頼まれた、長妻真央と会うためである。 「平気だよ、相手、女の子だし」 「そういう意味じゃなくてさ」 丁度下校時刻なのか、目にも眩しいミニのセーラー服がひらひらと通り過ぎていく。歩道には、いくつもの銀杏の葉が舞い降りる。 「あんま、よくねぇんじゃないの? 示談も済んでないのに、役所の同僚が勝手に押し掛けたりしたら」 「一応、夫人の了解も得てるし、彼女とも、電話で会う約束はしてるから……」 果歩は言葉を濁している。 確かに晃司の言うとおりだった。未成年の被害者に成年の果歩が会う―― それは、露見してしまえば、間違いなく大問題である。 「相手も市職員の娘さんだし、滅多なことにはならないわよ」 自分に言い聞かせるように言った。 長妻真央。 名門私立白石女子高の3年生。長妻が再婚した、20歳年下の女性との間にできた1人娘である。 インターネットで検索したら、全国高校作文コンクールで2年連続優勝、関東ピアノコンクール優勝、との結果がてできた。 警察がその言い分を全面的に信じただけあって、相当優秀な生徒らしい。 晃司はしばらく迷っているようだったが、やがて意を決したように先に立って歩き出した。 「間に合わねぇぞ、約束、5時だろ」 「晃司――」 「なんにしても、ついてくよ。別のテーブルから様子見てるだけだから」 仕方なく、果歩も晃司の後を追う。 「あまり、関わらないほうがいいと思うよ」 「それ、俺のセリフでもあるんだけど」 話すんじゃなかったな―― と思ったが、話してしまった以上は仕方がない。 今日、晃司は亡くなった三島の娘のことを調べてきてくれて、その時に、果歩が持っている情報も全て開示してしまった。 三島紗央理―― やはり、大河内の娘と同じ小学校で、父親の死後に転校した。今の消息は、明らかではない。 「事件後は、随分いじめられてたらしいぜ、紗央理って子」 「……そうなんだ」 「不登校が続いて、なんとかスクールっていうの? ほら、不登校児童がいく……そんなとこにしばらく通ってたみたいだけど」 「………」 「公務員の汚職はなぁ……。家族や子供は、たまんねぇだろうな」 「………」 すでに実名報道がなされている大河内の家族も、いずれ同じ末路をたどるのだろうか。昔と違って、今はインターネットで簡単に情報が広がる時代だ。いたたまれなさは尚更だろう。 ――……なんとか、助けてあげられないだろうか。 歩きながら、果歩はそっと唇を噛んだ。 ************************* 「そうですか……」 藤堂は、うつむいたままでそう答えた。 「月曜には聴聞があって、そこで処分が決まるだろう。今のままでは、十中八九、懲戒免だろうがね」 春日は、軽く嘆息して立ち上がった。 「人事の連中が、ひどく処分を急いでいる理由は、……私にも判らんが」 「…………」 「忙しい折だが、仕方あるまい。来週中には新人事が発表される。大河内君の後任は、今、志摩にめぼしい人材を当たらせている」 「わかりました。そのつもりで準備をしておきます」 「それと―― 藤堂君」 背を向けようとしていた時だった。藤堂は足を止めて、再び春日に向きなおる。 「マスコミが、的場君の近辺を探っているのは、知っているかね」 「……知っています」 「ある程度の――」 そこで春日は、疲れたようにため息を吐いた。 「情報の流出はやむを得んと思っているが、くれぐれも用心するよう、君の口から伝えておきたまえ」 次長室を出ると、丁度苦情電話が終わったのか、南原が叩きつけるように受話器を置いている所だった。「くそっ、好き勝手言いやがって」 「いったい、何時になったら収まるんでしょうかねぇ」 水原が疲れ果てたようにぼやく。 「昨日、ニュース24で、公務員不祥事の特集やってたでしょ。冒頭うちの市でしたからね」 谷本主幹が、はぁっとため息をついた。「その前はニュースライブでも特集があったし、なんなんですかね。ブームにでもなってんのかな」 「こんな時に、的場さんはとっとと帰るし」 ちっと南原が舌打ちをした。「信じらんねーな。全員が残業してる時に、帰るかよ、普通」 「前園さんとデートだったりして」 水原が、わけ知り顔で囁いた。たちまち南原が眉を上げる。 「はっ、マジか?」 「実は見ちゃったんですよー、4時過ぎに2人が、エレベーターで降りてるとこ」 藤堂は無言で席に戻った。谷本主幹が、椅子を軋ませて振り返る。 「係長、さっき電話がありましたよ。えーと、メモってますが、梶原……」 「ありがとうございます」 「また掛けるって言われてました」 前の席では、まだ南原と水原が声をひそめて囁き合っている。 「そういや、最近、妙に親密だもんな、前ちゃんと的場さん」 「よく考えたら、ふつーにお似合いなんですよね。むしろ驚きさえないという……」 「それじゃ、秘書課のあの子を振ったんだな。なるほどなぁ、やっぱ、本命は的場さんか」 藤堂は無言でメモを取り上げる。 リミットは今週末。それまでに、結論を出さなければいけない―― 。 |
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