「こんにちはー」 思いのほか、軽いノリで、長妻真央は現れた。 指定されたのは、オープンテラスの喫茶店で、淡い照明が照らす露天の下、果歩はその少女と向かい合った。 夕刻のせいか、雰囲気は少しばかりダークだった。 店内やスタッフの雰囲気もそうだが、客筋も女子高生にふさわしい店とは言い難い。すこし崩れた感じの若者たちが、マナーも何もあったもんじゃなく騒いでいる。 そんな中で、現れた少女は燐光を放つような美しさがあった。 「電話くれた人? 大河内さんの職場の人?」 はっきりとした明るい声。色白の肌に黒い瞳と長い黒髪。 顔かたちはまだ幼いが、明瞭たる美形である。 「的場といいます。ごめんね、いきなり、こんな風に呼び出して」 「いいえー。綺麗ですね、お姉さん」 まぁ、……いい子なんじゃない? 果歩の背後のテーブルでは、晃司が雑誌を読むふりをしている。 ばかげた笑い声が、隣のテーブル席から響いている。少女の美貌が目立つせいか、こちらに向けられる視線も感じる。果歩は気になったが、現れた女子高生はまるで気にしていないようだった。 「で、一千万、出来たって言ってました? あのおばさん」 少女は、ウェイトレスにマンゴーソーダを頼むと、すぐに果歩に切り込んできた。 なまじ、聡明そうな美少女だけに、果歩はそのギャップに、しばし口がきけなかった。 「それは……常識的に、無理なんじゃない」 「無理はないでしょー、家、売ればいいんだし」 平然と少女は言った。 「知らないです? このへんの地価、けっこう高めなんですよ?」 「いや、そういう意味じゃなくてね」 なんだろう、この子。果歩は少しばかり不気味になりかけている。「示談の金額にも、それなりの妥当な額っていうのが、あると思うのよ」 「一千万」 真央は、にこっと笑って果歩を見上げた。まぶしいほど白い歯が、なんだか不似合いに爽やかで、果歩は、ますますたじろいでいる。 「――と、懲戒免職。私だったら、絶対前を選ぶけどな」 「懲戒免職なんて言葉、どこで覚えたの?」 「高校生馬鹿にしてるでしょ、お姉さん」 2人の前のテーブルに、オーダーしたコーヒーとソーダが運ばれてくる。 「いまどき、誰でも知ってるよ。それに、うちのお父さん、公務員だったから」 真央は、ストローを口に含んだ。 「……本当は、何もされてないんでしょ?」 相当の覚悟を決めて、切り出した質問だった。背後の晃司が、視線だけを向けてくるのが判る。 「うん、まぁね」 が、真央はあっさりと肯定した。「ここだけの話だけど」 「――――」 これは……。 なんというか、どういう反応をするべきなのだろうか。 果歩はただ、ぽかんと口を空けている。やはりまだ子供なのだろうか。こうもあっさり、口を割るとは思わなかった……。 「あの……」 「あの?」 ストローをくわえたまま、真央は無邪気な目で果歩を見上げる。 「なんで、そんな嘘なんてついたの?」 「そりゃ、一千万欲しかったから?」 「…………」 やっぱりこの子、どこかおかしいんじゃないだろうか。 果歩は、よほど背後の晃司を振り返ろうとしたが、ぐっとその誘惑を我慢した。 とにかく―― とにかく、落ち着かなくちゃ。 もしかすると、この話合い如何によっては、大河内主査の無罪が証明されるかもしれないのだ。 「それで、痴漢をでっちあげたんだ」 「まぁね。マンガ読んで、そういう方法で小遣い稼ぐやり方あるって知ったから」 「一千万は、それでも、多すぎると思わない?」 「なんで?」 やはり、あっけらかんとした目だった。「公務員クビになるより、マシじゃない」 「いや、だから……」逆に果歩が言い淀んでいる。「実際やったんならともかく、やってもないことで、一千万なんて払えないでしょ」 その刹那、初めて真央の目に、冷やかなものがよぎった。 「甘いなぁ、お姉さん」 むしろ侮蔑と冷笑を滲ませた目で、少女は果歩を嘲るように見上げた。 「人生経験、足りないね。やったとかやってないとか、それに何の意味があるのかな」 「……どういう意味?」 「実際って何? それって誰が証明するの? そんなの、どうでもいいじゃない」 「…………」 「ほら、よく言うじゃない? 神様だけは知っている〜。だから、それでいいじゃない。人からどう思われようとさ」 なに言ってるんだろう、この子は。「……いいって?」 さすがに怒りがこみ上げて来て、果歩は、膝の上で拳を握っていた。 「あなたの嘘で、人生が目茶苦茶になりそうな人がいるのよ?」 「………へーえ」 その時の真央の笑顔に、――まるで探していた答えをようやく得たような笑顔に、果歩は言いようのない薄寒さを感じた。 これは、あの大河内夫人が音をあげて泣きついてくるはずだ。意思疎通どころか、普通の会話さえままならない。というより、この子の心の底にあるものは何だろう。 「嘘でも、真実でも、目茶苦茶になる時は、なるものだと思わない?」 再び、意味の判らないことを真央は言った。 「悪い奴には、いつか天罰がくだるのよ? そう親に習わなかった?」 言葉が出てこない果歩から、興味を失くしたように視線を逸らし、少女はくすくすと笑いだした。 「ふふ、……ふふふ、ねぇ、その天罰ってさ、いつ降りてくるんだろ」 「…………」 「こう、いきなりどかーんとさ、空から雷でも落ちてくるのかな」 「…………」 「まだ、お姉さんには、わからないかなぁ……。あのハゲのおじさんが、実際、私の身体を触ろうと触るまいと、はっきり言えばどうでもいいわけ」 それは、どういう意味だろう。 「……お金が手に入れば、いいって意味?」 「そんなものは副産物。私が言いたいのは、真実なんてどーでもいいってこと」 「…………」 「だって、誰にも証明できないもの。この世で真実を知っってるのは自分一人だけ。それってさ。ものすごーく寂しくて心細いことだよね」 「真央ちゃん」 「うわ、すごい上目線。ちゃんづけできましたか」 からかうように笑う少女を、果歩は少し強い目で見下ろした。 「それでも、今、私は事実を知ってしまったもの。このまま、黙っておくなんてできないわよ」 真央は肩をすくめ、空になったグラスをストローでかきまぜた。 「どうぞ? でも、後で後悔するのはお姉さんだと思うけどな」 「どういうこと?」 訝しむ果歩を、真央は憐れささえ滲ませた目で見上げる。 「その時に判るよ」 「……何が?」 「私が言ってることが、正しいってことが」 「…………」 それは、どういう意味だろう……。 その時、背後でいきなりけたたましい物音がした。 「なんだ? そりゃ、どういう意味だよ」 「いや、だから、それはさ」 「なめてんのか、おい!」 店内の誰もが、一瞬顔を上げている。中ではない―― 店の外で、何か揉め事が起きたようだった。 果歩がこわごわ振り返ると、垣根越しに、その光景が垣間見えた。 黒い皮のジャンパーを着た男が2人、足元にうずくまる塊みたいなものを蹴りつけている。――いや、塊ではない、人だ。 「死ねよ、ゴミ」 「うぜーんだよ、コラ」 蹴られている男は無抵抗だ。時折、うっとか、やめて、とか、そんなうめき声が聞こえてくる。 「……喧嘩?」 「このあたり、物騒だしね」 「すぐに警察が来るだろ」 店内が静まり返ったのは、ほんの一瞬で、すぐに元の喧噪を取り戻す。 「あ、気にしないでくださいねー」 「僕ら、みんな友達なんでー」 そんなふざけた声が、暴力が繰り返されている周辺から聞こえてくる。 おそらく、通行人に向けて仲間たちが言い訳したのだろうが、店内では、その声に関心を持つ者はもういないようだった。 「あーあ、可哀そうに」 頬づえをついた真央は、楽しそうに呟いた。 「あいつら、この辺りでは、ちょっと顔の売れた暴走族……今時、ダサって感じだけど、あれはあれで、暴力団の資金源になってんだよね」 警察に連絡したほうがいいのではないだろうか。そんな現場に初めて遭遇した果歩は、気が気ではない。これほど周囲に人がいるのに、まだ、殴る蹴るの暴力行為は続いている。 「ねぇ、お姉さん」 気づけば真央が、じっと果歩を見つめていた。 「こういう場合、いったい誰が一番わるいんだと思う? 殴ってる奴ら? 周りでひやかしてる仲間? それとも」 言葉を切って、真央は薄く、冷笑を浮かべた。 「それとも、見てて、なーんにもしない私たち?」 「…………」 「今の時代、人助けなんて、ハイリスクノーリターン。ちょっと頭のいい人間なら、誰だって関わり合いになったら損だって判るよね。だって、誰だって自分が一番可愛いもの」 果歩は迷いながらも携帯を持ち上げようとしたが、それより、ひどく自棄な笑みを浮かべた真央から目が離せなかった。 「でもさー、やられてる方からみれば、こうしてのんびり見守ってる私たちって、いったいどう映るんだろうね」 「…………」 「ねぇ、お姉さん、いったい誰が、一番悪いんだと思う?」 小さな悲鳴が、外から聞こえた。「助けて……」そんなうめき声が、確かに聞こえた。その声は、隣席の笑い声でかき消される。 「教えてやるよ。馬鹿野郎」 大きな声が、その喧騒を遮った。晃司だった。果歩は声も出ず、ただあっけにとられている。 「それはな、そんなことをえらそうに言ってるお前だよ。なんだ、てめぇは、――神様か」 後半はすでに一人言だった。 晃司は、あっと言う間に垣根を飛び越えると、喧嘩のただ中に入っていった。 「おい、お前ら、いい加減にしろよ」 「なんだ? てめぇ」 「オヤジが、何、イキってんだよ」 果歩はすでに、携帯で110通報をしていた。「お巡りさん、喧嘩です。すぐに来てください!!」もう、声を張り上げるしかなかった。 最低なことになった。 晃司が手を出しても出さなくても―― もう、最悪だ。 「あーあ、面倒なことしちゃって」 真央は、くすくすと笑っている。 果歩は席を立っていた。胸ぐらを掴まれた晃司が殴られているのが見える。全身の血の気が引いていく思いだった。どうしよう―― どうすればいいんだろう。 「誰か――!」 周囲の人は、少しばかり足を止めても、そのままそそくさと、逃げるように歩き出す。 「あの時だって、沢山の人が、見てたような気がするけどなー」 真央が、低く呟いた。 「ハゲのおじさん、気の毒に、だーれにも庇ってもらえなかったもんね」 ************************* 「的場果歩さん?」 かなりの時間待たされた後、ようやく通された部屋には、見知らぬ男が待っていた。 「はぁ……」 果歩は、強張ったまま、狭い室内を見回した。まさか 夢にも思わなかった。自分の人生で、警察の取調べ室に入る日が来ようとは。 すみません、勘弁してください。と、つい言ってしまいたくなるような圧迫感である。 頼んだら、まさかカツ丼が出てくるのかしら。 そんな現実逃避的なことを考えながら、勧められるままに席についた。 「ふむ……」 小さなテーブルひとつ挟んで座る男が、顎に手を当てて果歩を見下ろす。 なんだか、必要以上にじろじろ見られているような気がして、逆に果歩は、男を睨み返している。 というより、どうしてこんな時間まで警察に引きとめられたのかが判らない。 足代署――。 少し、署員がお話を伺いたいと言っておりますので。ひととおりの聴取が終わった後、そう言われて足止めされてから、随分な時間がたっている。 「はじめまして、刑事部の緒方といいます」 かなりの時間そうしていた後、男は、ようやくそう切り出した。 「怖い思いをされましたね。その上、こんな部屋にお呼びだてして申し訳ないのですが、まぁ、他に空き部屋もなかったので」 年の頃は、30代後半くらいか、がっしりとした体格で背が高く、顔立ちはかなり濃い。二重瞼、逞しい鼻梁、ゆるいウェーブのかかった髪。なんだかイタリアの匂いが軽く漂ってくるようだ。 が、目付だけは、刑事らしく、鷹のような鋭さと、蛇にも似た陰湿さを備えている。 総合的な第一印象は―― すごく嫌な感じ、だった。 「じゃあ、私、容疑者とかじゃないんですね」 「当たり前ですよ。ただの目撃者で、しかも通報してくださったのに」 わずかに笑った男から、少しだけ親近感が見受けられる。 「あの―― 」 果歩はまず、気がかりだったことを切り出した。「前園さんは、どうなったんでしょうか」 「怪我は軽いですよ。被害届は出されないそうです。まぁ―― それが賢明でしょうね」 緒方と名乗った男は、首の後ろあたりを掻いた。 「なにしろ、加害者も被害者も逃げちゃいましたからねぇ……。捕まえた所で、仲間内のじゃれあいだと言われたら、正義の味方の立場がなくなっちゃいますし」 「…………」 「ま、公務員さんならね。穏便に済ませたほうが得策でしょう。逆に相手が前園さんに殴られたと言い張れば、証拠なんて何もないですからね」 「そんな――」 あまりの言い草に、果歩は言葉を失っていた。晃司は、ただ暴力を止めようとしただけなのだ。しかも、一切手を出さなかった。 ボクシングをやっていた晃司が、もし本気を出していたら、あんな連中に負けるはずがない。なのに―― 。 「相手は未成年ですからね」 緒方は、少し難しい目になった。「こう言ってはなんですが、前園さんは運がよかったのかもしれませんよ。ああいう連中は、上にやくざがついているんで、警察沙汰になると妙に抜け目がないんです。公務員さんなんて、絶好のカモですからね」 「…………」 「ああいう、狼みたいな連中からみると、肉のたっぷりついた羊みたいなものですよ。うっかり関わると、骨までしゃぶられてしまいます」 果歩は、黙るしかなかった。沢山の憤りが、胸で渦を巻いている。が、その憤りの一端は、他の誰でもない、自分自身に向けられていた。 こんなことに晃司を巻き込んでしまった。―― 将来有望で、誰よりも出世欲の強い、晃司を……。 「目撃した人は……沢山いると思いますけど」 「見てるだけの人ならね。どの事件も、大体そんなものですよ」 あっさり言うと、緒方は果歩に向きなおった。 「さて、そんなことよりですね。あなたには、多少……やっかいな嫌疑がかけられているんですよ。なに、犯罪には当たりませんがね。多少は問題になるかもしれませんね」 「……どういう、意味でしょう」 緒方の目が、みょうに淡々としているので、逆に不安がかきたてられる。 「今日あなたは、前園さんと同伴していた……それは間違いないですね」 「はい」質問の意図が判らず、用心深く果歩は頷く。 「では今日、いったい何の用で、あなたと前園さんは、あの店に行かれました?」 それは――。 果歩は、答えられずに視線だけを動かしていた。それは――どう言えばいいんだろう。 緒方は、軽く息をはいた。 「あなたね、……いけませんね。大の大人が2人して、わいせつ事件の被害者なんかに会いに行ったら」 「…………」 「あなた、しかも加害者の同僚でしょ? 相手の女の子は未成年……そりゃ、いけませんわ。的場さん。相手の親御さんも弁護士も、かなり激怒しているという話ですよ」 「…………え」 「長妻真央さんですかね。可哀そうに、泣いてましたよ。的場さんに示談を強くすすめられて、どうしたらいいか判らなかったって。しかも女2人だけだと油断させておいて、背後に男性職員を同席させていたなんて……」 「ちょ、ちょっと待ってください」 果歩は色をなして立ち上がっていた。 「私、示談なんかすすめていませんよ」 「相手は、そう言い張っているんですよ」 緒方は、落ち着いた目で遮った。「状況的に見ても、長妻さんの言い分に、分があると思いますがね。僕だけでなく、多分誰もがそう思います」 「違います」 果歩は、むきになって言い張った。「それは、絶対に違います。あの子が嘘を言っているんです」 「………嘘ね」 呆れたようなその呟きに、果歩は、静かに打ちのめされていた。 緒方の呟きは、真央にではない。――確かに果歩に向けられている。まるで、嘘をつくならもっと上手くついたらどうですか、とでも言いたげなように……。 (まだ、お姉さんには、わからないかなぁ……。あのハゲのおじさんが、実際、私の身体を触ろうと触るまいと、はっきり言えばどうでもいいわけ) (だって、誰にも証明できないもの。この世で真実を知っってるのは当事者だけ。それってさ。ものすごーく寂しくて心細いことだよね) そういうことだったんだ――。 ねちねちと続く刑事の説教を聞きながら、果歩は茫然と思い出していた。 あの子は、最初から、私との話し合いを、全く別のものに変えるつもりでいたんだ。だから、あっさりと真実を吐露したし、そのことを憂いてもいなかった。 あの状況下では、何を言っても自分の主張が通ることが、判っていたから。…… 「すみません」 果歩は、額を押えるようにして、緒方の言葉を遮った。 「このことについて、前園さんはなんと言っているんですか」 「まだ、彼とは何も話してはいませんよ。病院に役所の人が来て、そのまま帰られたそうですし」 「…………」 役所……。それはそうだ。果歩と晃司の身分が知れた段階で、警察は役所に照会を入れている。ただでさえピリピリしている都市計画局である。すぐさま、総務に連絡がいったに違いない。 晃司……ごめん。 本当に、ごめん。 「少なくとも、前園さんは無関係です」 果歩は、うつむいたままで言った。唇がわずかに震えたが、強く噛んで持ちこたえた。 こんなこと――絶対に間違っている。 絶対に間違っているけれど。 今は、晃司を守ることが、一番大事だ。 「私が心細くて、彼を強引に誘ったんです。理由も打ちあけませんでした。私が誰と何を話しているか……前園さんは、何も判っていなかったと思います」 ************************* 「君は……いったい、何をするつもりだったのかね!」 春日の怒声が響き渡る。 「申し訳ありませんでした」 果歩は、何度目かの言葉を繰り返した。 覚悟はしていたし、不思議に気持ちは落ち着いていた。 ここまで人生最悪の瞬間が、二度もあるとは思わかなった。が―― それでも、最初の時に比べたら、なんだか軽いような気もしなくもない。 自分が、完全に開き直っていることを果歩は自覚していた。 「あれほど、勝手なことはするなと言っておいたろう。これが新聞にでも出たらどうなる。裁判にでもなって、大河内君の不利になったらどうする」 だん、と机が叩かれる。 居並ぶ志摩は直立不動で、藤堂は――視線を下げたまま、黙っていた。 「いいか、君は、市職員として、大変な過ちを犯したんだぞ? わかっているのか? 訓戒はおろか、減給処分だってあり得るんだぞ!」 「言い訳はしません」 硬い表情のまま、果歩は言った。 「さきほども言いましたが、前園さんは無関係です。それだけは判ってください」 「……あたら将来のある職員を」 春日は、心底怒りをかみ殺したような声で呟いた。 「君のような迂闊な職員と一緒にできると思うかね! 前園君はこの件では一切無関係だ。それは都市政策部長とも図って決めた」 「ありがとうございます」 「礼には及ばんよ。つまり、君が全部、1人で責任を被るだけという話だからね」 冷やかな声も、果歩は黙って聞き流していた。 これで島流しは確定だ。大丈夫――それでも、命まで奪われるわけじゃない。大丈夫……大丈夫、これくらいなら、まだ大丈夫。 島……? 島といえば、何か忘れているような気も……まぁ、いいか。 突き刺すような視線の中、果歩は執務室に戻り、たまった仕事を片付けはじめた。 「てか、何やってんだよ、的場」 南原の嫌味が、さっそく飛んだ。 「ただでさえ、苦情電話でイライラしてんのに、余計なことすんなっつーの。これでまた騒がれたら、迷惑すんのはこっちだっつーのに」 「すみませんでした」 あっさり答えて、パソコンを開いた。ああ、こんなにメールがたまってる。 果歩が淡々と仕事を片付け始めたので、逆に南原は拍子抜けしたようだった。 「なんだよ……なんか、調子狂うな」 「もしかして、的場さんも辞める覚悟をきめてんじゃないっすか」 「まさか……」 やがて5時になり、果歩はさっさと机の上を片付け始めた。 「え、まさかと思うけど、帰るのかよ」 今日一日、どこか訝しげな目で果歩を見ていた南原が口を開いた。 「帰ります。定時退庁は市の職員の務めですから」 「おい……お前、頭おかしくなったんじゃねーか?」 「お先に失礼します」 唖然としている南原を捨て置いて、バッグを肩にかけ、果歩は一礼してから踵を返した。 「――的場さん」 藤堂の声がしたのは、混雑していたエレベーターを避けて、階段を降りようとしていた時だった。 「…………」 「…………」 階段の上で自分を見下ろす大きな影を認めた途端、果歩の中の、頑なにはりつめたものが緩んでいた。 そうなるのが判っていたから、今日一日、藤堂をずっと無視していたのかもしれない。 「……話をしましょう」 静かな声がして、彼が歩み寄ってくる。 果歩はうつむいたまま、ただ唇を噛み続けていた。 ************************* 「前園さん、入院してるんですか」 階段を降りながら果歩は訊いた。 藤堂は、前を向いたままで、わずかに息を吐く。 「実際は、自宅謹慎です。――政策部長が、志摩さんを呼んで怒鳴りつけたそうです。……前園さんは、政策部のエースですからね」 「…………」 晃司には、電話の代わりに、謝罪のメールを送った。余計面倒なことになるから、一切知らないことにしておいてくれ、と念を押した。 返信はない――もしかすると、事の大きさに驚いて、今さらながら怒っているのかもしれない。 どう言い訳しようと、無関係だった晃司を巻き込んでしまったのは果歩なのだ……。 「的場さん、今回のことですが」 「藤堂さん」果歩は遮っていた。 「私、目撃者を探そうと思います」 「……え?」 「あの子、うっかりだかわざとだか、口を滑らせたんです。大河内主査の事件、目撃者は必ずいます。主査は無実です。私、その証拠を探します」 「ま…………」 藤堂は――実際、初めてみるような唖然とした表情のまま、絶句していた。 「待ってください」 「もう決めました」 果歩は再び遮った。「どうせ、今回のことで、私、何かの懲罰をくらうと思います。そのことはもう言い訳しません。何言ったって無駄だと判りましたし」 「的場さん」 「私がしようとすること、懲戒免の事例にあたりますか? 絶対に当たらないと思います。だったら、別にどうなっても平気です」 「的場さん!」 藤堂の口調が厳しくなる。 「そう言う問題じゃない。それが、どれだけの騒動になるか―― 、あなたは、まるで判っていない」 「そんな、別に大したことをするわけじゃないですよ」 彼が反対するのは判っていた。果歩は、少しだけ足を速めた。 「現場でビラを配るとか、しょせんその程度しかできませんから」 「マスコミが」追いついた藤堂が、言葉を途切れさせた。 「……今、新しい醜聞を狙って、うちの動向を探っているという噂もあるんです。今はよくない。もう少し時機を見てもらえませんか」 「もう決めたんです」 「許すわけにはいきません」 「時間外の行動にまで、上司の許可がいりますか」 果歩は、さらに足を速めた。 何故、今、自分がこんなにも藤堂を拒絶しているのか、判るようで判らなかった。 「的場さん――」 「もう決めたんです。藤堂さんには関係ありませんし、迷惑をかけるつもりもありませんから」 そうじゃない。本当は、誰よりも迷惑をかけることが判っている。その時、私はどうすればいいんだろう。 腕を強く掴まれた。「―― 聞いてください」 果歩は大きく息をしたまま、振り返らずに頷いた。「なんでしょう」 「大河内さんは、免職にはなりません」 「…………」 「今週中に、事件は全て解決します。……大丈夫です」 「…………」 それは――。 「だから的場さんは、何もしなくていいんです。いや、何もしないでください」 それは…………。 「……辞めるんですか」 「え?」 「役所やめて、お金で解決する気ですか? よくわかりませんけど、それが藤堂さんの世界では、当たり前の責任の取り方ですか」 「…………」 「私のいる世界では違いますよ」 色んな感情が一時に壊れて、初めて涙が、ぼろぼろっと零れた。 「そんな責任の取り方をする上司なんていません! そんなの――ただの逃げじゃないですか!」 辞めないで――。 行かないで――。 ここにいて。ここ以外の、もうどこにも、行かないで。 やっと判った。 私はずっと……ずっと、そう伝えたかったんだ。この人に。 だから……だから、この人に、これ以上大河内さんの件で、思い悩んで欲しくなかった。 「……失礼します」 涙を手のひらで乱暴にこすり取ると、果歩は肩をそびやかして歩き出した。 判っている。今の自分は、結局、何もかも意地になっているにすぎない。 香夜に―― 藤堂に――そして、長妻真央に。 このままではいられない。 なのに、これから自分がどうすべきか、果歩にもまるで判らなかった。 |
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