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年下の上司 story9〜 NovemberA

Monster Civil servant? 本当に悪い奴は誰だ(6)


「随分面白い展開になったみたいですねぇ」
 電話で聞こえる男の声は、今にも笑い出しそうに思えた。
「どうします? 藤堂さん、期限は明日ですが、お金、まだ振り込んでもらえてないようですね」
 藤堂は答えず、壁に背を預けて天井を見上げた。
「木曜には記事が出ますよ? 今回の未成年脅迫未遂ももちろん、面白おかしく書かせてもらいますよ?」
 くぐもった笑い声が、電話の向こうから響いている。
「じゃ、また明日連絡しますよ。まだご実家には連絡をとっておられないんでしょう? 原稿の締め切りがあるんでね、僕のほうの条件は明日がぎりぎりのリミットです」
 電話を置いた時、隣の部屋から声がした。
「……瑛士さん?」
「仕事の電話ですよ」
「そう? ひどく憂鬱な顔をしていらっしゃるけれど」
 軽く息をつき、藤堂は振り返った。丁度香夜が、奥の寝室から出てきたところだった。すっかり、身支度を整えている。
 今日、ホテルを引き払ってきた香夜は、今夜の新幹線で東京に帰ることになっていた。今夜は、藤堂の部屋に残した私物を取るために寄ったのだ。
 ワイン色のコートに身を包んだ香夜は、藤堂にすれば、ようやく年相応の落ち付いた装いになっていた。
 多分、的場さんが見たら驚くだろうな――と、内心ふと思っている。
 香夜には色々な顔があるが、今の香夜の姿が一番本人に近い気がする。というより、ここ数日、徹頭徹尾天真爛漫なお嬢様を演じていた香夜には、一体なんの意図があったのだろうか。
「もっと、瑛士さんの傍にいたかったのだけど」
 香夜は唇を尖らせ、不服気に呟いた。
「大切な会議があるの。そんなの、私がいなくても大丈夫だって言ったのに」
 微笑した藤堂は、傍らのキャリーバッグを取り上げた。
「じゃ、行きましょうか。駅まで車で送りますから」
 それには、香夜の眉が、わずかに上がる。
「もしかして、また、あのクラッシックなお車かしら?」
「中古なので……、でも、あの時はエンストだったんですよ」
「私、自家用車で初めて生命の危険を感じました」
「まぁ、交差点のど真ん中でしたからね」それはさすがに、申し訳ないと思っている藤堂である。
 じゃあ、タクシーを呼びましょうか。そう言おうとした時だった。
 不意に背後から袖を引かれた。
「――?」
 振り返ると、すんなりした腕が首にまわされて、甘い香りが近づいてくる。
「……どうしました?」
 頬に香夜の髪が触れている。藤堂は少し戸惑いながら、用心深くその肩を抱いて、引き離した。「何か、ありましたか」
 見下ろした女の双眸は、うっすらと涙にぬれて潤んでいる。
「ごめんなさい……なんだか、急に悲しくなって」
 泣いた自分を羞恥するように、香夜はさっと目を逸らした。
「……最後まで、私を頼ってはくれないのね。瑛士さん」
「え?」
 いやいやと首を振るようにして、香夜は再度藤堂にしがみついてきた。
「ちょ……香夜さん」
「私、知っているのよ。瑛士さんが脅されているのを」
「…………」
「余計なことだは思ったけれど、今回灰谷市に来たのは、瑛士さんのお母様に頼まれたからだわ。―― お判りになるでしょう? 今回の騒動は、全て、瑛士さんを呼び戻すための企みなんです」
「香夜さん」
 藤堂は、いっそう身体を寄せてくる女を離そうとした。が、細い腕はますます強く身体を締め付け、のしかかるように体重を掛けてくる。
「ちょっと―― 」冷静に――。
 壁におしつけられ、ようやく香夜の突進は終わった。
「一緒に帰りましょう、東京に」
 藤堂にしがみついたままで香夜は言った。
「このままでは、瑛士さんのせいで、役所のみなさんに迷惑がかかってしまいます。それで、ますます瑛士さんが苦しむなんて―― なんだか、私のほうが辛くなるわ」
「どこで、記者のことを知りました」
 藤堂は、冷静に返していた。
 まだこの件は、誰にも口外していない。
「瑛士さんのことは、全部知っています。日本に戻ってからのことなら、なにもかも」
「…………」
 軽く嘆息し、藤堂は視線を逸らしていた。やはり、この人の内面は、俺には謎だ。
「お気持ちはありがたいのですが、あなたを頼るわけにはいかないですよ」
 そっと肩を抱いて押し戻す。「これは、僕の問題ですから、僕自身でなんとかします」
「何もできませんわ。今のあなたには」
 はっきりした口調だった。香夜は身を離し、手にしていたバッグから白い封筒を取り出した。
「小切手が入っています。額面は自由にお書きになってください。私の会社のものですから」
「受け取れません」
 即座に断ると、腕を強く掴まれ、掌に封筒が押しつけられた。
「お金なら、すでに瑛士さんのお母様からお預かりしています。決して、私が立て替えようというんじゃないんですよ」
「母に?」
 あの人の性格からして、香夜にそんな真似を頼むだろうか?
 戸惑う藤堂を、香夜は落ち着いた目で見上げた。
「こちらの役所にお入りになられる時、瑛士さん、ご自身の貯金を全てお母様にお渡しになられたでしょう? これはそのお金なんです。瑛士さんのものです」
「……それは」
「瑛士さん」
 香夜は、挑むような眼差しを藤堂に向けた。
「私……知っていますよ。どうして瑛士さんが、役所にお入りになられたのか」
「…………」
「ずっとお勤めされるつもりではないのでしょう? だってそんなの、瑛士さんの立場では、絶対に許されるはずがありませんから」
 潤んだ目が、藤堂を見上げている。
 その瞳の芯の部分に、ひどく冷え切った光がある。
 藤堂は再会して初めて、かつての香夜の片鱗を、彼女に見たような気がしていた。
 同時に、今さらのように気がついていた。
 自分のためなどに、父がこんな馬鹿げた騒ぎを起こすはずがない。
 そうか――そういうことだったのか。
「―― 香夜さん」
 藤堂はやんわりと、香夜の身体を押し戻した。
「とにかく、今夜は東京に帰りましょう。話はまたゆっくりと」
「それで? 瑛士さん1人でどうなさるつもりなんです? 職場の方がたをお見捨てになるつもりですか?」
 ふふっと含んだように、香夜は笑った。
「それとも、本来の姿に戻って金策に走られます? あなたが本気になれば、もちろん私の手助けなどいらないのでしょうけどね」
「…………」
 それは、何度も考えたことだった。
 が、そうしてしまえば、自分はもう藤堂瑛士ではいられなくなるような気も、同時にしている。そういう解決方法を選んでしまったら。
「瑛士さんが出来ないなら、私が全部、片をつけます。騒がれている事件のことも、瑛士さんが心を痛めている的場さんのことも」
 返事のしようがないまま、藤堂は視線を逸らしていた。
「瑛士さん」
 香夜がその場に正座して居住いをただしたので、藤堂も仕方なく同じように膝をついた。
「……なんでしょう」
 不思議な表情を潜めた目が、じっと藤堂を見上げている。
「瑛士さんは、あの方がお好きなんですね」
「…………」
「馬鹿な瑛士さん……。それを、私が許すとでも思っていたのですか?」
「…………」
「理由は、言わなくても、お判りになるはずですわね」
 藤堂が黙っていると、香夜は静かな微笑を浮かべた。
「あなたが出ていかれてから8年、婚約者に棄てられた私が、どんな思いで生きてきたか判りますか」
「……あの時のことは」
 藤堂の言葉を、香夜は静かに首を横に振って遮った。
「この8年、ずっとあなたのことが好きだったなんて、そんな見え透いた嘘は言いません。でも他の誰かと結婚するくらいなら、私は二宮の血を引く方と結婚します」
「…………」
「あなたにそれを、拒むことはできないと思います。……違いますか」
「…………」
 藤堂は嘆息して膝を起こした。
 これもいずれ、ぶつかるしかなかった問題なのかもしれない。
 が、何故8年もたった今になって、こういった展開になるのだろうか。
 この人の真意は、やはり、俺には判らない。
「それでも、今夜は帰りましょう。話は、またの機会にゆっくりとすればいい」
「いえ、気持ちが変わりました。帰りません、ここに泊ります」
「だったら僕が出ていきますよ。香夜さん、僕らは」
 不意に香夜の表情が崩れ、彼女は両手で口元を覆った。
 そのまま、子どものように声をあげて泣き始める。
 突然の香夜の変化に、どう対応していいか判らないでいると、女は、泣きながら再び藤堂にしがみついてきた。
「今、瑛士さんの気持ちが私になくても構いません。私の気持ちが信じられないことも判ります!」
 しゃくりあげながら、懸命に香夜は続けた。
「瑛士さん、気づいてください。でも、あなたの居場所は、少なくともこの街ではないんです」
 言葉が何も繋げないまま、藤堂はただ、その背中をあやすように撫でている。
 ―― 居場所……。
 自分の場所、か。
 本当にこれから、どうしたらいいんだ。
 このままではいけないことは判っている。なのに、これから、どこに流れていっていいのか判らない。
「瑛士さん……好き」
 頬に唇が柔らかく触れた。驚いて顎を引くと、唇はそのまま、首にあたりに寄せられた。
「逃げないで、お願い」
 首に、しっかりと女の腕が巻きついている。息も触れるほどの距離で、初めて見るような女らしい眼差しで、香夜はそっと囁いた。
「昔みたいに、して」
「…………」
 胸の底に、ひやりとしたものが不意に流れた。
 ガラスの砕ける音と、足元をすり抜ける猫の気配。
 女の子の金切り声と、草むらにうずくまる白いシャツ。
 ずっと封印していた、過去の記憶の断片が、まるで幽霊のように首をもたげてくる。
 一瞬忘我した藤堂は、やがて虚ろな気持ちで言っていた。
「どいてください」
 離れてくれ。――俺に、触らないでくれ。
「あら、何を怖がっておられるの」
 くすぐるような笑い声と共に、雨の音が、どこかで聞こえた。どこか――胸の底に閉じ込めてある情景から。
 甘い匂いが、藤堂を包み込む。
「私の気持ち……今夜は、瑛士さんの手で確かめて……」

 *************************
                 
「っくしょっ!」
 ぶるっと身体を震わせて、果歩は開け放っていた窓を閉めた。
 さむ……。そういや、季節は冬に近かったっけ。あまりに残暑がきつかったから、なんだかすっかり忘れていたけど。
 隣の部屋では、妹の美怜が彼氏とずっと長電話をしている。
 今夜は、両親が揃って実家の法事に出ているから、姉妹2人だけの夜なのだ。
 ――てか、いくら親いないからって、いったい何時まで話してるのよ。脛かじりが。
「えー」とか「だよねー」とか、「まじでー」とか、そんな言葉しか聞こえない会話が、いったい何を意味しているのかまるで判らないが、とにかく互いに鼻の下をでれでれに伸ばしているのだけは窺える。
 ―― ああ……なんて、私には縁遠い光景だろう。
 鏡の前で肘をつき、果歩はほっと溜息をついた。
 強い度の入った眼鏡をかけた女が、鏡の中からじっと果歩を睨みつけている。
 30歳、独身、公務員……なんかすごくやばいワードばかりが、出揃ってるような……。
 もともと男運はないんだろう。最初がああで……次がこうで……今がこの様。
 真鍋さんとの恋愛は、つきあったと思えたのは瞬間単位。晃司は……時間だけは長かったが、忙しい彼と過ごす時間は本当にわずかで、最後のほうは、月に1回も会っていなかった。
 そうだ、そういや最後の半年あたりは、今にして思えば逃げ回ってたんだ、あの男は。今さらながら、むかむかしてくる。二股かけてるならかけてるって……最初から言ってくれてりゃ、こっちからとっとと別れてやったのに。
「…………」
 その晃司にも、今回は……その時の貸しなんかじゃ間に合わないほど、とんでもない目にあわせてしまった。
 わかっている。晃司だけじゃない、もう他の誰にも、迷惑はかけられない。意地になっている場合じゃない……でも……。
 なんだか悲しくなって、果歩は唇を噛んだまま、鏡台の前につっぷした。
 このままじゃ、また藤堂さんが一人で何もかもひっかぶってしまう。
 目撃者を探します。そう言いきったものの、そこから派生する騒動を、また彼一人に被らせることになると思うと、気持ちはそこでくじけてしまう。
 そうして、結局、長妻真央の言うとおりだと、認めるしかないのだろうか。
 真実には何の意味もない。いや、そうじゃない、あの子の心を閉ざしているのはそんな理屈でも哲学でもない。あの子は……多分、待っているのだ。
 天の雷が本当に降りてくるのを。
「…………」
 どうしよう。
 なのに、私には何もできない。私一人じゃ、何一つ、乗り越えられない……。
 弱い自分が悲しくて、無力な自分が悔しくて、なんだか泣きたくなってしまう……。
 藤堂さん……。
 今、何してるのかな。
 会いたいな。
 会って、話しがしたい。私の気持ち……私の心、全部、打ち明けてしまいたい。胸の底にあるものも、全部。
 そうして、彼と2人で歩いて行けたら……この、目の前に立ちはだかる壁も、乗り越えていけるのだろうか。
 ほとんど無意識に、果歩は携帯を取り上げていた。
 むろん、かけられない自分の性格はよく判っている。こんな時間だし、―― 多分、もう寝ているのだろう。もしかすると、また家に帰れないでいるのかもしれないし。
 アドレスから呼び出して、名前だけを表示させる。
 藤堂さん。
 写真の代わりに、くまのプーさんのイラストを入れた。最初の印象がそんなだったから―― 。今も、少しだけそんな感じがするけれど。
 私……。
 果歩は目を閉じ、携帯を胸に抱いていた。
 やっばり、好き………。
 不思議な動悸と衝動のまま、果歩は通話ボタンを押していた。
 特に用事もないのに、自分からかけるなんて初めてだ。心臓が、ものすごくドキドキしている。3コール……それだけで切るつもりだった。多分、寝ている。こんな時間だもの。きっと出ないに決まってる。
 出てほしいのと同じ気持ちだけ、出ないで欲しいと願いながら、最初のコールを果歩は待った。が、
「はい」
 えっ――?
 鳴る前に出た??
「……的場さん?」
「はっ、はい」
 コール鳴った? 果歩の耳には、プルルルの、プしか聞こえていない。
「どうしたんですか」
 心なしか、藤堂の声がかすれて聞こえた。その、低い囁きにも似た声に、果歩は胸が不意に締め付けられている。
「……あの、別に……用じゃないんですけど」
「…………」
 わー、な、なんだろう。この気まずい沈黙は。
「今、家ですか?」
 藤堂が切り出してくれた。果歩は、妙にほっとしながら、返事の前に頷いている。
「い、家です。藤堂さんは?」
「……僕は、外です」
 そうなんだ……。
 こんな時間に? ふと時計を見てから、果歩は、はっとあることに思いいたって、表情を陰らせていた。
「もしかして……ご実家ですか」
「実家?」
 が、それには、少し意外そうな声が返される。「違いますよ。明日も仕事なのに」
 その口調が、いつもの藤堂だったから、果歩はようやくほっとしていた。
「じゃ、また役所ですか」少しだけ、口調が滑らかになっている。
「違います。……さすがに少し冷えますね、この時期は」
「えっ、じゃあ、本当に外なんですか?」
「少し、頭を冷やしたかったので」
 なにかあったんだろうか……。
 彼の背後から、そういえば車が通り過ぎる音が聞こえる。
「電話、すごく早く出てくれたんですね」
「僕も、かけようと思ったから」
「…………」
「だから、びっくりしました。こんな時間だから、もう寝ていると思っていたので」
 え……?
 それって、もしかして、私に……?
「あの……」
 不思議な熱に包まれたまま、果歩は携帯を持ち直していた。「今、どこにいるんですか?」
 何故か、藤堂は答えない。
「あの、」果歩は再び時計を見上げた。「うち――今、親が留守で」
 しまった。それはまずい。この格好といい、すっぴんに眼鏡といい、家に呼ぶなんてとんでもないミステイクだ。
「出てこれますか」
「え?」
「……近くまで来ているので、どこかで会えませんか」
「…………」
 あの……今から……?
 なんで……?
 近くって、うちの近く?
 それじゃまるで、私と藤堂さん……同じこと考えてたみたいじゃない。
「10……いえ、15分ください。あの、今部屋着なんで」
 それでも、咄嗟にそう答えていた。「行きます。必ず行きますから」
「うん……待ってます」
 胸がしめつけられるような熱に包まれたまま、果歩は電話を切って、天井を見上げた。
 これは、何かの夢だろうか?
 だったらお願い―― 彼と会うまで、覚めないで……。

 *************************
  
 夢でない現実は、思いのほか厳しかった。まず、フルメイクは、さすがに15分では無理だった。
 乾き切らない洗い髪をとりあえずひとつにまとめ、コンタクトをして眉を引き、マスカラだけを睫に入れた。
 あとは着替えるだけでいっぱいいっぱいで、なんで15分なんて自分の首を絞めるような時間を指定してしまったのか、――果歩は半分泣きたくなった。
 まぁ、夜だから顔色までは判らないだろう。どこか店に入るのかな? いや、それはちょっとパスさせてもらって……。
 自転車かな。
 だったら私も、自転車でいったほうがいいのかしら。が、母のママチャリはちょっと風情が……。とはいえ、美怜のバイクはもっと情緒がない。
 玄関で靴を履きながら、ふと果歩は我に返っている。
 まるで初めてデートする高校生みたいだ、私……。
 ふわふわした気持ちを、落ち着け落ち着けといさめながら、果歩は浮ついているのか、緊張しているのか、よく判らない状態のまま、エレベーターを降りて、エントランスを出た。
 藤堂は、マンションの外壁にもたれるようにして立っていた。
 白いシャツにVネックの黒ニット。下は暗いカーキ色のパンツだった。 
 眼鏡は掛けていない。
 果歩に気づいたのか、顔をあげた藤堂は、控え目に片手を上げてくれる。
 わずかに微笑した顔は、なんだか服もせいもあって妙に幼くて、まるで大学生のようにも見えた。
「すみません、お待たせしちゃって」
 ひどくぎこちなく果歩は言った。藤堂が視線を下げて、自身の髪に手をあてる。
「いえ……僕が無理を言ったので」
 その綺麗な横顔に、果歩はますます胸が締め付けられている。
「自転車ですか?」
「いえ、車です」
 あ……そうなんだ。意外な感に打たれ、果歩は少し言葉に窮している。
「結構遠くに停めてあるんで、……少し、この辺りを歩きましょうか」
「あ、はい」
 どこに……行くんだろう。まぁ、確かに、この時間ならどの店もしまっているから、行く場所なんてないんだけど。
 静かな夜の街を、肩を並べて歩きながら、果歩は少しずつ、気持ちが落ち着いていくのを感じている。黙ったまま、何もしゃべろうとしない彼の気持ちまでは判らないけど――
「藤堂さん、別の人みたい」
「そうですか?」
「服のせいかな。……役所とは全然違うから」
 藤堂は足を止め、少し眩しそうな目で果歩を見下ろした。
「的場さんも、少し印象が違って見えますね」
「えっ―― 」しまった。メイクが甘いのを見抜かれてる。
「そ、そそ、そうなんでしょうか」
 が、この人には一度、すっぴん眼鏡という最悪の素顔を見られているのだ。その時に比べたら、随分作っているほうなのだが……。
「よ、夜のせいかもしれませんねー。ほら、いつもより暗いから」
「……うん、そうですね」
 特段否定も肯定もせず、藤堂はわずかに笑んで歩き出した。
 道路沿いに川土手がある。「降りてみましょうか」藤堂が言ったので頷いたが、内心は、多少ドキッとしていた。
 むろん、藤堂は知らないだろうが、このあたりは夏、少しばかりいかがわしいデートスポットなのである。
 が、さすがにこの時期は寒いせいか、周辺は閑散としていて、目の前には暗い河川が静かに流れている。
 傾斜のきつい土手を、バランスを取りながらよたよたと歩いていると、先を行く藤堂が手を貸してくれた。
 温かくて大きな手を当然にように取りながら、果歩は彼との距離が、今までになく近くなったのを感じていた。
 傾斜を降りても2人は手を離さず、寄り添ったまま、川の近くにまで歩いて行った。
 ずっと無言だった藤堂が、初めて静かに口を開いた。
「一緒に、やってみましょうか」
「え……?」
「目撃者探しですよ」
「………………」
 今度は果歩が――夕方の藤堂と同じ反応を返す番だった。
「ちょ――それは、まずいんじゃないですか」
「何がでしょう」
 藤堂の横顔が軽く苦笑する。「これ以上まずい事態なんて、僕には、思い浮かびませんが」
「…………」
「大河内主査の懲戒免は、来週月曜に決まります。それまでに示談が成立するか、もしくは被害届の取り下げがあれば、あるいは覆るかもしれない」
「…………」
「可能性は限りなく低い上に、明日から、僕らがそういった活動をすれば、それは間違いなくマスコミから叩かれます。しかも的場さんは、先月……別のことでも騒ぎを起こしているでしょう」
 あ……。と果歩は思い出している。ホテルのカラオケボックスで、なんとかという嫌味な男をバッグで思いっきり殴った件……のことだろうか。
「あれは、僕の対応も悪かった。……言ってみれば、僕のせいでもあるんですが」
「藤堂さんは、全然関係ないじゃないですか」
 果歩は慌てて言い添えている。が、藤堂は何も言わずに、わずかに息だけを吐いた。
「その件も含め、先日長妻真央さんに会いに行かれた件も、合わせて叩かれるかもしれません。その結果、どれだけ騒ぎが大きくなって、どれだけの余波があなたを見舞うのか、正直、僕には予想もつかない」
「…………」
「そういった事態に耐えていける覚悟は、ありますか」
「…………」
「あなたにその覚悟があるなら、僕に言うことは何もありません」
 ――私………。
 果歩は、こみあげる感情をうつむいてやりすごしてから、藤堂の手を強く握りしめた。
「全然大丈夫です」
 藤堂さんが、いてくれるなら。
 あなたが、私の傍にいてくれるなら。
 でも――。
「藤堂さんは、どうなるんですか」
 この場合、役付きの藤堂のほうが、責任がより重くなる。役所の非難は、どちらかといえば、藤堂1人に集まるだろう。
「僕は、まぁ、なんとでもなります」
「役所……辞めるってことですか」
 心臓が嫌な風に鳴り始める、が、藤堂の横顔はそれをあっさり一蹴した。
「そのくらいで懲戒が下りることはありませんよ。まぁ、中途異動は確実でしょうが」
「最悪、島もありですよ」
「いいですよ」藤堂は笑った。「一緒に、島で暮らしましょうか」
「…………」
「まぁ、2人一緒ってことはないでしょうけどね、現実には」
 その言葉は、果歩の耳には入っていない。
 一緒に暮らしましょうか―― 暮らしましょうか……って、な、なに? それって、もしかしてプロポーズ??
 ではない証拠に、藤堂の横顔は憎いほど淡々としていた。
「今の職場を離れるのは、心残りですが」
「…………」
「そのほうがいいのかもしれないと思うこともあります。いずれにしても、主査の事件が大きくなったのは、僕に責任があるんです。このままには、しておけない」
 ――藤堂さん………。
「それでも、今夜、的場さんに会うまで決心がつきませんでした。本当は……」
「…………」
「僕が、役所を去るのが一番いい方法かもしれないと、思っていたものですから」
 藤堂の手を握りしめ、果歩は彼の肩に寄り添って頭を預けた。
 私……。
 そのまましばらく、2人とも無言だった。
 何かを言いたいのに、伝えたいのに、言葉にしたら、今2人の心に生まれたあまりにも淡い何かが、流れていきそうな気がして――。
「すごく、いい匂いがする……」
 藤堂が囁いた。
「え、今日は何もつけてないですよ」
「シャンプーかな」
「やっぱり、犬ですよ、藤堂さんは」
 ぎこちなく固まったまま、果歩は、彼の指が髪を解くのを許していた。
 肩に流れた髪に、藤堂はそっと唇を寄せた。
 心臓が、壊れそうに高鳴っている。果歩は眩暈を感じて、藤堂の胸に身体を預けた。
「……また、前みたいになったら、みっともないので」
「…………」
「これだけ――許してください」
 本当に女心が判らない人。
 ここまできて、もう、許すも許さないもないのに――。
 優しい手が髪を撫でてくれるのを、果歩は目を閉じて感じていた。
 それでも、果歩は思っている。
 一度だけ――そう、一度だけ、今夜みたいに、家まで訪ねてきてくれた人がいた。あの夜は2人で車に乗って、すこしだけ言い合いになって、それから結婚の約束をした。
 あの頃の日々は、自分の中で、全て過去になったんだと思っていた。
 なのに、皮肉なことに、藤堂さんを好きになって、またあの時と同じ感覚を味わっている。同じ不安と、この先に待っているかもしれない別れを―― 畏れている。
「藤堂さん」
 それが、私の中にある大きな壁の正体なら――。
「……的場さん?」
 この壁は。
 この人と2人でなら、乗り越えていけるだろうか。もしかして。
「私……がんばります」
「…………」
「4月までですか。……意味はよく判らないけど、藤堂さんに好きでいてもらえるように、がんばってみます」
 ――好き……。
 今はあなたのことが、本当に大好きだから。
 腕を引かれ、抱き寄せられた。
「今夜だけ」藤堂が、かすれた声で囁いた。
「明日からは、いつもの僕に戻ります」
 唇が性急に重なって、息が止まるほど抱きしめられた。
 すぐに熱が押し入ってきて、果歩は唇を開いて、彼の情熱を受け止めた。広い背に腕をまわして抱きしめて――倒れそうな自分を支えた。
 好き……。
 大好き……。
 たとえ、それがどんなに不安で怖いことでも。
 これからもずっと、この人の傍にいたい――。




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