「き、きき、き、君らは、いったい」 忠実な部下の――多分、初めての反乱に、春日は、すでに顔を青白くしていた。 「いったい、何をしてくれたんだ。これはどういうことなんだ。説明したまえ、藤堂君!!」 「書かれているとおりです」 すでに腹を括っているのか、藤堂の声は落ち着いていた。 「的場さんと2人で、事件の目撃者を探しています。時間外にしていますので、職務上、なんら問題はないと判断しています」 「問題はないだと??」 春日は、手にした二つ折の新聞を叩きつけるようにテーブルに投げだした。 「今がどういう状況か、貴様は本当に判っているのか!」 藤堂は黙っている。その傍らで、果歩は一言も反論できずにうなだれている。 局長室。 午後の日差しが、ぽかぽかと差し込んでいる。その日差しの下で、猫みたいに背をまるめて最近お気に入りのココアを飲んでるいるのは那賀局長で、春日はその前で仁王立ちになっていた。 「これは、日刊灰谷といって、やや思想が偏った――言ってみれば、市への批判に終始した政治新聞です」 「そんなことは、言われんでも判っておる!」 志摩の説明を、春日は怒鳴るように一蹴した。 「今、大げさでなく全国の注目が集まっているこの事件で、よりにもよって一番自粛すべき立場の君らがだな」 ひゅっと、喘息を思わせる呼吸を、春日はした。「君らがこんな真似をして、ただですむと思っているのかね!!」 春日次長――血管が切れるんじゃないかしら。果歩は初めて、とんでもなく叱られている最中にそんな思いに囚われていた。 それくらい、春日の剣幕は凄まじかった。今まで、様々な場面で春日には怒られてきたが、ここまでテンションがあがっているのは初めてだ。 それでも不思議と落ち着いていられるのは、隣に藤堂が立っているからかもしれない。 春日は握った拳で、空を切るような素振りをした。 「すぐに止めたまえ、こんな真似は二度としないと、今ここで宣言したまえ!」 「それはできません」 藤堂は即座に、冷静に答えた。 「今夜も2人で、目撃者を捜しに行くつもりです」 「と……」春日は、本気で絶句していた。まるで脱力でもしたかのように、春日はみるみる肩を落とした。「藤堂君……」 その反応もまた、果歩には初めて見るものだった。 「本気で言っているのかね。いや――もういい、どうやらわしは、君を見損なっていたようだ」 春日次長が、藤堂を買っていたのは知っていた。 それでも、まさかここまで深い信頼を抱いていたとは、想像していなかった。 なんだか、胸が苦しくなる。こんなに萎れた春日を見るのは初めてだ。藤堂は、表情ひとつ変えてはいない。彼は―― 自分に寄せられた上司の信頼を踏みにじるという、そこまでの覚悟を、最初から固めていたのだ。…… 「この手の政治的なゴシップ誌程度の報道で済めば、問題にする必要はありませんが」 再度口を挟んだのは、藤堂の隣に立つ志摩課長だった。「すでに地元テレビ局から照会がきています」 春日が顔をしかめるようにしてため息を吐いた。「やはりな」 「事実を調査中だとしか答えてはいませんが、注目を集めている事件だけに、大手でやり玉にあげられるのは時間の問題でしょう。……それで本当にいいのか、藤堂君」 志摩に静かに問われ、藤堂は唇を引き結んで頷いた。 「覚悟しています」 「その結果、市の信頼がどれだけ損なわれるか。第一線で市民相手に仕事をしている者たちにどれだけの余波が生じるか。それも覚悟の上だというのか」 感情を出さず淡々としているだけに、志摩の言葉は余計に胸に響いてくる。 「君が民間出身であること、あるいはその前歴――それだけではない。的場君の過去についても、記事になる可能性は今の段階では否定できない」 果歩は、自分の表情がこわばるのが判った。 それは――どこまでの過去を指した言葉だろうか。もちろん、そんな脅しには屈したくない。でも……。 「的場君だけではない。大河内君にとっても、それは大変なストレスだ。地元の駅で活動しているそうだが、あのような場所でいつまでも事件のことを騒ぎたてていたら、家族にとっては、なお辛い二次被害が生じるのは明らかだろう」 はっと、今度こそ、果歩は息を引いていた。それは――考えてもいなかった。迂闊にも、全く。 「それで、本当にいいのか。君たちは」 どうしよう――。 「ご家族の了解は得てします」 が、藤堂の口調は落ち着いていた。「僕が、事前に説明に伺いました」 初めて耳にする話だった。果歩は驚いて、藤堂を見上げている。 「携わる者にとって、リスクが大きいことも承知しています。それでも」 わずかに唇を噛み、けれど藤堂は真っすぐに志摩を見据えた。 「それでも僕は、今回は僕自身の信念に従いたいと思っています」 「まぁ、まぁ、もういいじゃないの」 刺すような沈黙を破って、おっちらと立ち上がったのは那賀だった。 「し、しかし局長」 口を挟む春日を、那賀は面倒そうに手を振って遮った。 「そもそもねぇ、職員の時間外の行動まで、わしらが管理できると思うほうが間違いだよ。いいじゃないか、何も政治活動をしとるわけじゃないんだから」 「しかし、これは市長からの」 ふわぁ、と那賀はあくびをした。「さて、ココアのお代わりをいれるかな」 「局長!」 「うるさいなぁ、春日君は……。わしが上の連中の窓口になればいいんだろう? 心配せんでも、市長に何もできやせんよ」 それで、春日が黙ってしまったのが、果歩にはむしろ意外だった。 「局長が表に立ってくださるのなら」 苦虫をかみ殺したような表情で、春日がようやく居住いを正した。「私に言うことは、もう何もありません」 「的場君」 背中を向けたまま、初めて那賀が、果歩の名を呼んだ。 「は、はい」 緊張したまま、果歩は強張って答えている。 「ココアはやっぱり、バンホーテンだね」 「??……は、はい」 な、なんだ、それは……。 背を向けたまま、淡々と那賀は続けた。 「なんだか面倒なことになりそうだがねぇ。君は本当に、大丈夫かね?」 「………はい」 少し間をあけて、果歩は力強く頷いていた。 大丈夫。 そっと藤堂を見上げると、彼がわずかに頷いてくれるのが判った。 今なら――2人で、この壁を越えられそうな気がするから。 ************************* 何か、腫れものでも触るように2人を見ていた課内の空気が爆発したのは、夕刻、取材に訪れたテレビクルーが去った後だった。 「民間出身というのは、本当に気楽でいいね」 もともと藤堂を快く思っていなかった中津川が、何か言い出すことは予想がついていた。 コーヒー事件が決定打で、2人の今の状況は冷戦を通り越して、すでに氷戦と化している。 「役所で何をしようと、どんな迷惑が周囲に及ぼうと、おかまいなしというやつか。君は、仕事ができるようだが、たった1人でうちの仕事の何もかもをやっているつもりなんだね」 誰も何も言わないどころか、むしろ中津川に同調するような目で藤堂を見ているのは、ここ数日のストレスが――本当に限界まできているからだろう。 「マジで、いい加減にしてもらえないっすかね」 ばさっと、書類を投げ出したのは、多分中津川以上にこの件では苛々していた南原だった。 「ここ最近、苦情電話の対応ばっかで、マジ仕事になんないんですよ。せっかく収まって来たってのに、係長自ら消えかけた火に油注ぐような真似してくれるんだから、たまんねぇよ、こっちは」 「……もういいじゃないですか」 迷惑顔で口を挟んだのは水原だった。 「主査だって、自分からやったって言ってるんだし……なんか、無駄に偽善者ぶってる気がしますよ。係長も的場さんも」 「今日の取材、いつニュースになるんだっけ」 「今夜ですよ。そうなったら明日はまた苦情電話……ああ、もう、休もうかな」 新家主査と谷本主幹も、うんざりした顔で頭を抱えている。 「あの――」 果歩は口を挟もうとした。今朝からずっと藤堂1人がやり玉にあげられているが、そもそもこの無謀な案を言い出したのは果歩なのだ。 「申し訳ありません」 が、それより早く藤堂が立ちあがった。 「みなさんにご迷惑をかけることは、重々承知しています。大変申し訳ないと思っているのですが、今回は同僚というより」 藤堂は言葉を切り、少し言い方に迷うような素振りをみせた。 「……同僚というより、大河内さんの友人として、何か力になりたいと思いました。しばらくの間、ご迷惑をかけることを許してください」 果歩も立ちあがって頭を下げた。 周囲は静まり返っている。総務課どころか、今朝からこの騒ぎを興味津々で見守っていた他課の職員も、注視している。 果歩は、書類を届けに来たらしい乃々子が、カウンターの傍に立っているのを認めた。 「友人ねぇ……」 冷やかに口を挟んだのは中津川だった。 「藤堂君、君は何か……勘違いをしているのではないかね」 藤堂は黙って、中津川に向きなおる。 「君が若いせいか、民間出身のせいだかは知らんがね。ここは学校でもサークルでもない、職場だよ。ここにいる連中は友達でも仲間でもない、ただ同じ仕事をしているというだけの関係だよ」 鼻で笑うようにして、中津川は立ち上がった。 「しかも、役所は基本3年で異動だよ。たかだか3年のつきあいで終わりだ。そりゃあ、みんな仲良くやるさ。時間外に飲みにいけば、休みの日にゴルフにも行く。が、それは全て仕事のためだ。自分の仕事をいかに円滑に進めることができるか――そのための顔繋ぎであり、割り切った大人のコミュニケーションだよ」 誰も何も言わなかった。黙って聞いている果歩には、その態度は同感であり、同時に思いもよらない人生の孤独を言い当てられた寂しさでもあるような気がした。 (この世で真実を知っってるのは自分1人だけ。それってさ。ものすごーく寂しくて心細いことだよね) ひねくれた女子高生の言葉がよみがえる。 そうだ。結局―― 究極的には、人は1人なのかもしれない。私も藤堂さんも、りょうも晃司も、すごく近くにいるようでいて、その心の底にあるものは、決して他人には判らない。 ここに座っているみんな――南原さん、水原君、今はいないけど宇佐美君。志摩課長も春日次長も、しょせんは、定められた期間の間、仕事という無機質な絆で繋がれているにすぎない。3年もたてば、全員がばらばらになって、新しい職場で新しいメンバーと机を並べるのだ。 寂しいといえば、寂しい。でも、当たり前といえば当たり前すぎて、これまで考えたこともない現実。 「まぁ、……そうだよな」 南原がぼそりと呟いた。 「確かに、ここにいる奴らが友達かって聞かれれば、そりゃ確かに違うよな」 「まぁ……確かに、そうっすけど」歯切れ悪く、水原も同意する。 「偽善だよ。藤堂君」 勝ち誇ったように、中津川が口調を強めた。 「それとも、幻想でもみているのかね? たかだか半年机を並べた君の友情なんて、大河内君は想像もしてはいないだろうよ。女の的場君なら、なおさらだ」 最後の女の、は、間違いなく蔑視が入っていたが、果歩は何も言えなかった。ある意味……中津川の言うとおりだと思ったから。 でも、だとしたら、自分を動かしているこの感情は何だろう。意地でも同情でもない。使命感に少しだけ似ている。でも――それだけじゃない。 「そうでしょうか」 静かな、藤堂の声がした。 「また、君のもっともらしい反論か」 即座に、中津川が顔をしかめて、それを遮る。 「君の持論は聴きあきたよ。何を言っても無駄だね、藤堂君。わしと君は違うんだ」 いきなり出鼻をくじかれたのに驚いたのか、藤堂は、わずかに苦笑した。 「いや、……すみません、補佐のおっしゃるとおりだと思います。でも3年は、決して短くはないですよ」 「あっという間だ、君はまだ異動を経験しておらんから判らんのだ」 「そうかな……」藤堂は、わずかに考えるような眼差しになった。 「僕には、とても長く感じます。3年という時間に限らず、今僕らは1日のうち、起きている時間の3分の1以上を、こうして一緒に過ごしているんですから」 彼はそそこで言葉を切った。 「言いかえれば、今生きている時間の3分の1を、一緒に過ごしていることになりませんか?」 果歩は、藤堂を見て、それからその場にいる全員を見回していた。 そんなに長く―― 一緒にいることになるんだっけ。この人たちと。 「詭弁だな。それは、話のすりかえだ。長い人生の、たかだか3年だとわしは言っているんだよ」 「人生の長さなど、誰にも決められませんよ」 きっぱりと、藤堂は言いきった。 「家族とも、恋人とも、こんなに長くは一緒にいないでしょう。短くはないですよ――そんな風には思えない……そんな風には、思えません」 「……それは、」 初めて、中津川が、むっとしたように言葉に詰まった。「君の、勝手な感覚だろう」 「短いかもしれない人生の、3年もの時間をこうして一緒に過ごすんです。心の繋がりがないなんて嘘ですよ。少なくとも、僕はそうは思わない」 不快気に顔を歪めたまま、中津川はもう何も言わない。 「私――」 果歩は、口を開いていた。言ってから、はっとした。でも、黙っていることはできなかった。 「私も、そう思います。……上手く言えないけど……誰かに信じてもらえなきゃ、人なんてすごく寂しいじゃないですか」 「てか、信じるも何も……」 困惑したように、水原が口を挟んだ。「あれだけはっきりと、本人がやったって言ってるのに、何を信じるっていうんですか」 「理由があるんです。主査はやっていません。私、はっきり聴いたんです」 「的場さん」 藤堂が、背後からそっと止めた。 「口だけなら、なんとでも言えるだろ」 ぶっきらぼうに、今度は南原が口を挟んだ。「そんなの、何をどう信じろっていうんだよ。実際、警察じゃゲロしちゃってんのに」 「そうですよ。ぶっちゃけ、本当のところは大河内さんにしか判んないじゃないっすか」 「大河内さんにしか判らないことだから!」 果歩は、言葉を繋いでいた。 「だから、私たちだけでも、信じてあげなきゃって思うんです。だって周りにできることって、信じるか信じないかしかないじゃないですか」 ************************* 「少し休みましょう」 藤堂に声を掛けられたのは、11時を回った時だった。 「もうすぐ終電です。それまで少し時間がある――この時間は、誰も通りませんよ」 「そうですね」 駅裏の高架下。通るのは酔客やバイト帰りの若者が多く、お世辞にも風紀がいいとは言い難かった。 藤堂がいてくれてよかったと、果歩はしみじみと思っている。これだけ体格の大きな人が、ボディガードみたいに傍にいてくれるから、酔っ払いにからまれることもなかったのかもしれない。 「ビラ、あと少しになっちゃいました」 「結構、受け取ってもらえましたからね」 階段をあがると少しだけ賑やかな通りが見えてくる。路上の自動販売機で、藤堂がコーヒーを買ってくれた。 その間にも、路上には配ったばかりのチラシが落ちている。藤堂はそれを拾い上げ、ついていた泥を丁寧に払った。 「出てきますかね……目撃した人」 「どうかな。誰だって、揉め事は避けたいですからね」 果歩は、軽くため息を吐いた。今日で2日目。リミットは今週の日曜日だ。月曜には聴聞があって、そこで全てが決まってしまう。 事件が起きた時間帯にチラシを配っているから、もし―― 本当に目撃した人がいるとしたら、とっくにヒットしているはずだ。 チラシの内容は、長妻真央のプライバシーを考慮して、日時と、男性が逮捕された件、という文言にとどめておいた。が、それでも、あれだけ新聞やテレビで騒がれたのだから、判る人には通じているはずだ。 藤堂の携帯番号を載せているが、いまだ誰からも連絡はないらしい。電話は、日中は留守電になっていて、その内容は藤堂がチェックしているから、もしかすると悪戯や中傷が寄せられているのかもしれないが――。 そんなことを思っていたら、藤堂の上着に入っていた携帯が鳴った。 「はい 」短く答えて電話に出た藤堂は、すぐに軽く息を吐いた。 「いえ、違いますよ。ええ、女性の携帯は載せていません。あの人はただの手伝いですから」 それだけで、電話は切れた。ふぅっと、再度ため息をつき、藤堂は手にしたコーヒーを飲みほした。 「なんの電話だったんです?」 「やはり、明日から僕1人で配りますよ」 「――え?」 驚く果歩を横眼で見て、藤堂は自身の髪に手を差し入れた。 「この界隈は飲み屋が多いから男性がよく通るし、路上からみると死角なんです。あまり、夜中に女性がぽつんといるような場所ではないでしょう。――もし、的場さんに何かあったら」 「大丈夫ですよ。藤堂さんがいてくれるし」果歩は慌てて言っていた。 「藤堂さん1人でなんて、それこそ、逆の意味で危ないじゃないですか」 「……どういう意味です?」 そこは、ちょっと口で説明するのがはばかられた。たまにであるが、女性が1人で通ることだってある。その時、2人きりになって、そして何か誤解が生じて騒がれたら、藤堂が言い逃れできない立場になるのだ。 それは―― 少々心配しすぎかもしれないけど。 果歩の缶を受け取り、藤堂はそれをダストボックスに落とした。 「僕だって万能じゃありませんよ。多勢でこられたら太刀打ちできませんし、本当は昨日から、危ないと思っていたんです」 「わかってますけど、大丈夫です。ちゃんと防犯ベルも持ってきてますし、すぐ逃げられるように、スニーカー履いてますから」 まだ何か言いたげだったが、藤堂は諦めたように、嘆息した。 「今日は、車で送りますよ」 「え……、本当ですか」 「昨日はタクシーだったでしょう。今日は車で来てますから、帰りは家まで送ります」 わー、なんだか、ラッキー? こんな時に不謹慎だけど、今も……こうして2人でいられることが、すごく嬉しい。2人で同じ時間、同じ気持ちを共有できていることが。 それに、彼の車には初めて乗るし。 どんな車だろ。彼の体格を考えて――イメージ的に…………。 トラック? 「やぁ、丁度休憩ですか。それは間が悪かったな」 ひどいだみ声がしたのは、その時だった。 てっきり、また酔っ払いだと思った果歩は身構えていたが、薄闇から滲みだしてきた影は、特段酔った風ではない。 わりとがっちりした体格の、中年の男である。最も年を判断したのは、半分ばかり白くなった短い髪によるところが多いから、実際は若いのかもしれないが。 デニムの上着に、黒いパンツ。格好はかなり若かった。その首にぶらさがったごついカメラに目がいった時、果歩はようやく、その人がマスコミの人なのだと気がついた。 「約束どおり、取材にきましたよ、藤堂さん」 にやにや笑う男の、妙な慣れ慣れしさが不気味だった。果歩は当惑して藤堂を見上げたが、彼の横顔に、さしたる感情は浮かんではいなかった。 「約束は反故にされたというわけで……記事は月曜にもおおっぴらに出るでしょうよ。今日の取材も含めて、随分楽しいものになりそうだ」 「明日は、テレビ灰谷で取り上げられる予定なんですよ」 落ち着いた口調で、藤堂は答えた。むしろその声には、不思議な余裕が滲んでいる。 「バッシングを受けるのは僕らでしょうが、かえっていい宣伝になるんじゃないかと思っているんです。梶原さんにも、ご協力いただけるということで」 「……協力」 梶原という男は、一言呟くと、片眉だけを意外そうにあげる。 藤堂は、眼鏡を指で押し上げて微笑した。 「今日は、実はお待ちしていたんですよ。先ほども彼女と話したんですが、2人というのは、少しばかり心細かったので。取材なら、どうぞ一緒に来てください」 「は………」 何か、訝しげな、探るような目で藤堂を見ていた男は、次の瞬間、何かが壊れたように声をたてて笑いだした。 果歩には、まるで意味が判らない。 「なるほど、そうきましたか。――なるほどねぇ。こりゃ面白い。ただのボンボンだと思っていたら、見事に逆手に取られちまった」 「…………」 藤堂は黙っている。 彼の横顔に、決して余裕だけではない厳しい感情が潜んでいることを、果歩は漠然と察してしまった。 意味はよく判らないが、この男の言葉も、藤堂の言葉も、額面どおりに受け取らないほうがいいことだけは理解できた。 「……ま、今夜は退散しますよ。あたしが記事にしなくても、騒ぎは十分大きくなりそうだ」 あ、そうそう。独り言のように呟き、背を向けた男は振り返った。 「今、2人とおっしゃいましたが、どうやらお仲間がいるようですよ。高架下で、迷子みたいにうろうろしてる連中がいましたから」 ************************* 「はぁ?? 百瀬と宇佐美が?」 携帯を耳にあて、南原は顎を落としていた。「――マジで?」 「本当ですよ。さっき、宇佐美から電話があったから……」 水原の声も、疑念というか不審というか、理解できない不思議さに満ちていた。 唖然としながら、南原は布団にひっくりかえって天井を見上げた。 住宅政策の百瀬乃々子とバイトの宇佐美が、今夜、藤堂と的場の手伝いに行った。聴き間違いでなければ、水原が言ったことは、そういうことだ。 しかし―― なんで? 「宇佐美のアホは判るよ。あいつ、的場さんにベタ惚れだもんな。――でも、なんで百瀬まで?」 「そりゃ……まぁ、藤堂係長のことが、あれだからじゃないですか」 「にしても……」 腐っても百瀬乃々子は上級試験合格者で、噂では、来年総務に来るのではないかと言われている。ああ見えて学歴もかなりすごくて、本人も、将来上に行くという自覚はあるはずだ。 藤堂の奴、なんで止めてやらねぇかな……。 少しばかり憮然としつつ、南原は髪に手を入れた。 「てか、なんで今休んでる宇佐美が、ここで出てくんだよ」 「それが、百瀬さんから電話があって、誘われたって言うんですよ」 「……はぁ」 「僕の疑問は、はっきりいってここなんですけど、なんで百瀬さんが、宇佐美の電話番号を? いや知ってたからって、なんで電話を?」 「俺が知るかよ、道連れが欲しかったんじゃねぇの? 宇佐美なら、どんなに叱られたってしょせん、バイトだから……」 「まぁ、そうなんでしょうけど。でも普通、僕らでしょう。かけてくるなら」 「…………」 そうか? それはもっとない気がするが、―― いったいこのチビっ子は、何にこだわっているんだろう。 「…………」 「…………」 なんとはなしに無言になる。 「用って、それだけ?」 「まぁ……そうですけど」 じゃあ、切ればいいのに、お互いなんとなく切れないでいる。 「…………」 「…………」 おいおい、付き合い始めのカップルか? 南原はそんな自分に呆れて、頭を掻いた。 「んじゃ、わりーけど」 「僕、明日から行こうかな」 えっ?? 「……いや、宇佐美にしつこく誘われて、あいつ、思いこむとしつこいから」 独り言のように水原は続けた。 「よくよく考えたら、宇佐美は志摩さんの甥なんですよねー。その宇佐美が参加してるってことは、志摩課長は少なくとも、参加者に対して怒れないというか、立場がない」 二度目に落ちた顎を、南原は相当の努力をして押し戻した。バ――。 馬鹿か? こいつは。 「おいおい、何寝ぼけたこと言ってんだよ。そんな馬鹿なことしたら、お前、次の異動で、絶対行きたくねーっつってた区役所に飛ばされるぞ」 「僕が、そんな器だと思いますか」 三度目に落ちた顎は、今度は拳で押し戻した。 いや、確かにこいつは、少しアホのきらいがあるんだけど。 「どんな器だろうが、飛ばされる時は飛ばされるんだよ。ばーか、ちびすけが何言ってやがる」 「背は関係ないでしょう!」 「背のこと言ってんじゃないんだよ!」 南原は起き上った。「お前、将来俺の上司になるんだろうが。それが、こんなとこで躓いていいのかよ」 「えっ、なんで僕の秘密の野望を南原さんが」 「みえみえなんだよ。どうでもいいけど、お前だけはやめとけ。行くんなら――」 南原は、しばし考えた。「……俺が行くよ」 「僕だって行きますよ!」息まいた声が返ってくる。 「バーカ、お前は関係ねぇだろ。これは庶務の問題なんだから」 「だって、百瀬さんまで行ってるのに」 口惜しそうに水原は呟く。 「……?」南原は首をひねりながら、100パーセント冗談のつもりで言った。 「お前、まさかと思うけど、両津勘吉に惚れちまったんじゃないだろうな」 それは――南原にとっても、かなり苦い思い出なのだが、かつての百瀬乃々子を指して言った皮肉である。 が、想像以上のパニックが電話の向こうから返って来た。 「ち、ちが、違いますよ。なんで僕が……まさか、はははっ、もう、嫌だな南原さんは、ははは、ははは」 「………………」 おいおい、マジかよ……。 どうでもいいけど、的場さんと藤堂以外、なんとも不純な動機だなぁ。 しらねーぞ、どうなっても。 「こうなりゃ、量で勝負するか」 南原は呟いていた。もう1人、都市計画局には恋に狂いざいている女がいる。赤信号、みんなで渡れば――まぁ、少しは怖くはないだろう。 電話を切った後、不意に周囲が静まり返る。一人きりの部屋に、秒針の音だけが響いている。 人なんて、孤独なもんだ。 でも、嘘でも、そうでないと思える瞬間があるのも、いいかもしれない。―― ************************* 「都市政策の須藤主事、住宅計画の百瀬主事、総務は藤堂係長、南原主事、的場主事、水原主事、……いや、今夜から谷本主幹と新家主査も同行するそうです」 さらに――、志摩は続けた。 「都市デザイン室の窪塚君も、昨夜から参加したそうです。まぁ、もともと彼は異端児ですから、何をしでかすか判らないところはありますが」 「……政策、住宅各課はカンカンだろうな」 春日は書類をつきかえしながら、呟いた。「君も、気苦労なことだろう」 「私も、身内が参加していますので」 淡々と志摩は続けた。「何も言う資格はありません」 「……君がたきつけたか」 「なんのお話で」 春日は嘆息して立ち上がった。「いや、もういい。局長が放っておけと言われたんだ。局内の波風は、とりあえず君が押えてくれ」 「わかりました」 折り目正しく立礼して退室する背中に、春日は小さく毒づいている。―― 狸め。 優秀だが、腹の底の読めない男だ。 しかし、これで懲罰人事が大っぴらにできなくなった。総務課の問題だけならともかく、若く、将来ある職員をここまで巻き込んでしまったら。 「…………」 春日は苦い目で空を睨んだ。 一刻も早く、この騒ぎを終結させる必要がある。 下手な対応をして、マスコミがおかしな方向に走ったら、あれだけの才能を、無駄に潰すことにもなりかねない。 人事は、いつになく処分を急いでいる。その理由を――春日は最初から知っていた。 ************************* 「お急ぎのところ、すみません」 「事件の目撃者を探しています」 乃々子と南原が、声を張り上げている。 てか、なんだってこんなにいきなり人が集まったんだろ? 果歩は、宇佐美と一緒に、足りなくなったチラシをコンビニでコピーして、それを全員に配って回った。 「藤堂さぁん、流奈、足が疲れちゃった」 まぁ、1人、思いっきり動機が不純な奴もいるけれど。 それも今回は、ちょっと許せる気になるのは何故だろう。しなしなと甘える仕草も、少しだけ――1ミリくらい可愛く見える。 「前園君は、残念だったね」 チラシを渡すと、ちょっと意味深な目で声をかけてくれたのは窪塚主査だった。 この人の参加には、正直誰もが唖然とした。予想外というか、想像外というか―― が、窪塚には窪塚なりの思いがあったらしく、決して物見遊山気分ではないらしい。 晃司……そういえば、あれからどうしてるんだろう。 職場復帰はしたようだが、まだ果歩には顔を合わす機会がない。 「前園君、親御さんが島根から上京してきて、政策部長が平謝りだったらしいよ。まぁ、大切な一人息子みたいだしね」 「そうですか……」 そんな大事になっていたんだ。……本当に悪いことをしてしまった。ちゃんと機会をつくって、きちんと謝りにいかなくちゃ。 「何をしているんですか!」 強い声が聞こえたのはその時だった。果歩は振り返り、おそらく全員が、驚いたように動きを止めた。 「い、今すぐ、こんなことはやめてください。お願いですから!」 大河内だった。 その背後から、妻らしき人が追いかけてくるのが見えた。 白の長袖シャツにジーンズという、普段の大河内からは想像もつかない姿である。特徴的な頭にはキャップを被り、そのせいか、いつもより随分若く見えた。 「妻が隠していたから……迂闊にも、まるで気が付きませんでした」 息を切らして、大河内は続けた。 「なんだってこんなバカな真似をされているんですか。こんな……馬鹿な、――みなさんが、上に睨まれてしまうじゃないですか!」 「いや、なんかもう……、今さら遅いんですよ」 南原が、面映ゆげに口を開いた。 「もう、勢いで乗っちゃった泥船というか……、だから気にしないでください。俺ら、それぞれ勝手な動機で来てんだし」 「そうですよ、主査、僕ら同じ課の仲間じゃないですか!」 水原の言葉はどこかそらぞらしかったが、それでも彼は、少しばかり本気で今のセリフを吐いたようだった。 「まぁ……そんな、大したことをしてる訳じゃないですよ」 「この程度で、目撃者が出てきたら、儲けもんじゃないっすか」 どことなく、皆の顔に気まずさが残っているのは、一時期、あからさまに大河内主査を迷惑視していたからかもしれない。その後ろめたさが、結局は全員をここに引き寄せたのだろうが、今は――もう、それだけではないような気がした。 大河内は、ひどく困惑したまま、焦燥したように全員の顔を見回している。 「僕は、主査の無実を信じてますから!」 いきなり大声を張り上げたのは、宇佐美だった。 「お前は、本当に単純だな」 「そやかて、ほんまにそう思うし、俺」 水原のつっこみに、宇佐美は可愛い唇を尖らせる。「大河内さん、ええ人やもん」 「ばーか、いい人だって犯罪はおかすんだよ」 「それは、ええ人とは言わん。ほんまに悪い人は、もっと髪がふさふさしとるもんなんや。ハゲは気苦労の証やねん。ハゲに悪い人はおらんって、うちのオカンが」 しーん……。 果歩は言葉をなくしていた。多分、この場にいる全員が。 誰もが曲がりなりにも気をつかって、一度も触れたことのない主査の髪のことを……。 しかもこの深刻な状況で、顔色をなくしている奥さんの前で――。 が、いきなり笑いだしたのは、この状況下で、一番神経がまいっているはずの人だった。 大河内の妻である。 「あはは、はは、あんた、面白い子ねぇ……ハゲに悪い人はいないって……確かに、うちの人はいい人だけど」 「えっ……そんなに笑われるような……」 「バカッ、むしろ怒られるようなことなんだよ」 よほどツボだったのか、大河内良子は、腹を抱えるようにして笑い続けている。次に、気が抜けたように大河内本人が笑い、なんとなく―― 緊張が解けた笑いが、全員に広がった。 「やりましょうよ、あなた」 大河内の妻が、涙をぬぐいながら言った。「当のあなたが、家で鬱々しててどうするのよ。関係ないみなさんが、こうして頑張ってくださってるのに」 「…………」 妻に背を叩かれた大河内は、キャップのつばを下げ、しばらく感情を押し殺しているようだった。「………僕は……」 「月曜が、聴聞でしたね」 藤堂が、初めて口を開いた。 「僕らはそれまで頑張ります。大河内さんも……色々ご事情はあると思いますが、できれば本当のお気持ちを、聴聞会でお話いただければと思います」 「…………」 「差し出がましいことを言っているのは承知しています。……でも、それが、被害を受けたと訴えている女性のためでもあると思うんです」 何か言いかけた大河内の唇が震えている。 「大河内さん」藤堂が、少し強い口調で言った。 「僕だって1人ではできなかった。そんなにご自分を責めないでください。……そんなに人は強くなれない――誰だって、背負っているものの重さは違うんですから」 うつむいた大河内の頬に、一筋の涙がこぼれ、彼はそれを急いで手で払い取った。 「僕は……それでも、……みなさんに、そんなことをしてもらうような……」 「騒ぎが収まったら、もう1回忘年会をやりましょうよ」 水原が、明るい声を出した。「ここにいる皆さんもご一緒に。ね、なんか打ち上げみたいで盛り上がるじゃないっすか」 「そういや、あれがケチのつきはじめだったよな」 「今度は、公務員らしく激安の居酒屋にしとけよ」 「だいたい水原が、11月なんかでセッティングするから……」 いいことを言った的な満足感に酔っていた水原は、たちまち、頬を膨らます。 温かな笑いが、秋の夜空に響き渡った。 |
>>next >>contents |