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年下の上司 story9〜 NovemberA

Monster Civil servant? 本当に悪い奴は誰だ(8)


 現実は、やはりそんなに甘くはなかった。
 月曜日。全員で最後まで粘ったものの、結局何ひとつ手がかりとなる連絡はなく、示談交渉も決裂したまま、人事聴聞の日を迎えた。
 藤堂及び三役はその対応と準備に追われ、果歩は藤堂の携帯を預かっていた。
 もし―― ぎりぎり、リミットになって新たな電話がかかってこないとも限らないからである。
 職務専念義務に少しばかりひっかかりそうな気もしたが、それは気にしないことにした。まだ―― まだ、間にあうかもしれないのだ。
 ――にしても……この、覗いてみたい誘惑感はなんだろう。
 果歩は、机上に置かれている、モスグリーンの携帯電話をじっと見つめた。この中に藤堂さんの全てが詰まっている……いや、あっさり「お願いします」と渡されたから、大した秘密は入っていないだろうけど。
 私の着信音だけ特別とか―― いや、それはないか。自分も普通にしているし。
「…………」
 香夜さんの番号、消しちゃおうかな。
 この上に立つ優越感はなんだろう。今、私は、全ての女性より彼の一番近くにいます!
 現実は、ただ、携帯預かってるだけなんだけど。
「的場君、すぐにコーヒーの準備」
 慌ただしく春日が戻って来たのはその時だった。ひどく怖い顔をしている。果歩は緊張して立ち上がった。「いくつでしょうか」
「ひとつでいい。5分もしたら、市長がこちらに降りてこられる」
「…………」
 果歩は、自分の全身が強張るのを感じていた。
 灰谷市長、真鍋正義―― 。
 8年前、果歩はその人の秘書としてついていた。そして、最悪の形で追放された。以来、公の席で、顔をあわせる機会が全くなかったわけではない。
 が……、こうも近くで邂逅するのは、今日が初めてになるのかもしれなかった。
 ――落ち着いて……。
 急いで給湯室に向かいながら、果歩は自分に言い聞かせた。
 全ては終わって、すでに遠い過去の話だ。自分にとっては、確かに人生の一大事だったが、市長にとっては違うだろう。多分些細な―― できれば、そうであってほしい。
 準備を済ませて給湯室を出ると、丁度フロアと廊下を仕切る観音扉が開いて、役所のトップがまさに入ってくるところだった。
 誰もが思わず立ち上がる。
 果歩は、凍りついていた。
 黒っぽいスーツに身を包んだ大柄な真鍋は、険しい、不機嫌な顔を隠そうともせず、ずかずかと大股で歩いている。その傍らには、かつて果歩の同僚だった御藤がいる。
 明らかに目に入る位置だったが、御藤は果歩に一瞥もくれず、――市長の態度も同じだった。
 まるで黒い旋風が吹きこんだように、唐突にやってきた嵐は、局長室に消えていった。
「…………」
 心臓が、嫌な風に高鳴っている。
 遠い過去の情景が、一時に蘇り、果歩はしばらく動くことができないでいた。
 いけない―― 早くコーヒーを持って行かなくちゃ。
「的場さん」
 声をかけられ、はっと果歩は我に返っている。藤堂だった。
「コーヒーの準備は?」
「あ、はい、もう」
「ありがとう。僕が持っていきますから」
 返事も待たずに、藤堂は給湯室に入り、慣れた手つきでトレーを持って出てきた。
 ほっとしつつ、果歩は藤堂の言葉に甘えることにした。
 まいったな。―― 絶対平気だと思ってたけど、実際はそうでもなかった。私の中に、当時の悪夢は―― まだ、こんなにも生々しく残っているんだ。
「今日の聴聞、市長が傍聴するってマジ?」
 南原と水原の囁きが聞こえた。
「ひぇー、あんなのに睨まれて、大河内さん、ぷるっちゃうんじゃないっすか」
「俺らの首も、この春までかなぁ」
「テレビで、派手にやられましたからねー」
 果歩たちが起こした行動は、数局のテレビでわずかばかり紹介された。ただ、それほどひどい論調ではなかった。やはり、痴漢といえば、今は冤罪のイメージが強いのかもしれない。同情的なコメントも少しばかり寄せられ、余波は―― 思ったほど大きくないという印象だった。
 が、まだまだ安心はできない。
 最初の事件の時だって、5日もたって全国ネットに取り上げられ、一躍大騒動になったのだ。今にして思えば、なんだったのかという気もしないでもないが……。
「そろそろじゃね?」
「あと30分で始まりますよ。もう、大河内さん、会場に行ってんじゃないですか」
 なんにしても、このままでは免職は間違いない―― 。
 その後、起訴、有罪という流れになれば、証言者探しに携わった者たちへの風当たりも、当然強くなるだろう。
 果歩は気鬱なため息をついて席に戻り、多分全員が重たい気持ちで、聴聞会が始まるのを待っていた。
 
 *************************
 
「―― 果歩」
 りょうから内線電話があったのは、聴聞会開始後すぐのことだった。
「ああ、りょう、どうしたの?」
「黙って聞いて。今から言う電話番号をすぐにメモして」
「……? え?」
 囁くような声に不審を覚え、果歩は受話器を持ち直している。「なに、どういう意味?」
「いいから早く」
 早口で言われた番号を、果歩は素早く手元でメモした。携帯の番号だ。
「すぐにその番号に電話して。できるなら、この電話を切ったら直ぐに」
「……ちょっ、りょう、理由を言ってよ」
「目撃者よ」
 ―― え……?
「テレビを見て、今朝になって代表電話に連絡してきたの。でもうちの課長は、聴聞が終わるまで、その情報を伏せておくつもりよ」
「―― 待って、りょう、それは」
「しっ」
 りょうの口調が鋭くなった。「私まで島流しの道連れにするつもり? 一生恨まれたくなかったら何もしゃべらないで、いいわね」
 ―― りょう……。
「迷ってる暇はないわよ。うちの課長に先手を打たれたら、その人、証言を取り消すって言うかもしれない」
「え?」先手を打つ……?「それはなんで、」
「何も言わないっていう約束よ」
「…………」
 果歩は迷いながら時計を見た。聴聞は一時間程度で終わるはずだ。確かに、あまり悠長に構えている余裕はない。
「りょう……でも、本当に大丈夫なの」
「そんなの知らないわよ。どうせ、島に流される覚悟はできてんでしょ?」
「いや、私じゃなくて、りょうが」
「そんなぬかりがあると思う? 私に」
 自信満々に答えられる。まぁ、 確かに、訊いた私が馬鹿だった。
「類は友を呼ぶって本当ね」くすっと笑うような声がした。
「よかったじゃない。お人よしの連鎖反応が起きて。じゃ、がんばって、健闘を祈ってるわ」
 それだけで、電話は切れた。
 
 *************************

「じゃ、本当に事件を目撃されたんですか」
 電話をかけると、すぐに相手と繋がった。松本遼平と名乗った男は、30代半ばの営業マンで、あの夜は、帰宅途中に逮捕現場に遭遇したらしい。
 すぐに南原に車を出してもらい、果歩は待ち合わせの駅まで松本を迎えに行った。
「あの日はリバーって店に飲みに寄って……実は事件の1時間くらい前から、女の子2人が高架下をうろうろしてんの、見てたんですよ」
 セルフレームの黒メガネを掛けた長身の男は、面映ゆそうに説明してくれた。
「名門女子高の制服だし、なんでこんなところにいるんだろうって、ちょっと疑問に思ったんですよね。……まぁ、ぶっちゃけ、援交の類かな、と思ったもんですから。あまり、関わり合いにならないほうがいいな、と」
 運転する南原と、果歩は顔を見合わせていた。
 事件に遭遇した女子高生―― 長妻真央は、確か、友人と図書館で遅くまで勉強した後、急いで帰る途中で大河内に会ったと証言しているはずだ。
「それ、1時間前の話なんですか」
 果歩は念を押した。
「それくらいは空いてたと思います。それで……近くにあるリバーって店に飲みに行って、帰りに同じ場所通ると、警察と男の人がもめてたんですよ」
 営業マンだけあって、男の口調は滑らかだった。
「正直、あー、やられたなーと思いました。被害者の女の子と目撃者の女の子……うろうろしてた2人組だったし、いかにも組んでるって感じだったから」
「…………」
 あの……。少し躊躇ってから、後部座席の男に果歩は訊いた。
「気を悪くされたらごめんなさい。どうしてその場で、警察に事情をお話にならなかったんですか」
「……それ、言われるとなぁ」
 困惑した風に、松本は綺麗に固めてある髪を撫でた。
「まぁ、面倒だったのもあるし、……そっちこそ、気、悪くしないでくださいよ。あ、公務員だって思ったもんですから」
「…………」―― 公務員。
「警察官がそのおじさんの身分きいてて、灰谷市役所って聞こえたんですよね。なんだよ、公務員かよって思ったら、なんかもう、手を貸すものバカバカしくなっちゃって」
「…………」
「いや、この不景気なのに、おたくら給料いいんでしょ? 僕らはじり貧ですからね。駅裏のスナックで飲むのが精いっぱいっていうかね」
 果歩は何も言えなかった。多分―― 南原も同じだった。
「その後の報道見ても、なんともね……。高級料亭かよ、馬鹿野郎、お前ら税金で給料もらってんだろ、みたいなね。……そんな感じで、忘れてました」
 うわ、気ぃ悪くしないでくださいよ。こうやって改心して出て来てんですから。
 果歩と南原が黙ったので、男は慌てたように言い添えた。
「いえ……仰るお気持ちは、よく判ります」
 今頃になって果歩は、春日の叱責を思い返している。昔と今は違う。時代は激流のように流れている。昔は許されていたことが―― 今は、許されなくなっている。
「逆に、聴きたいんですけど」南原が、ためらいがちに口を挟んだ。
「そう思われるのは仕方ないにしても、なんで今になって、出てこようって気になられたんですか」
「テレビで……おたくらがビラ配ってんの見ちゃったから」
 ぼつり、と男は呟いた。「俺、体育系だから、そういうノリ弱いんですよね。……いや、そうじゃないかな」
 松本は軽く息をついた。
「結局は根の部分で面倒だと思ってた自分が恥ずかしくなったったのかな……。正直、公務員は好きじゃないけど、卑怯者のままだと寝ざめが悪いと思ったんで」
「……ありがとうございます。本当に」
 果歩は、心から礼を言った。そうやって―― 大きな網目でしかない何かの琴線に、ふと誰かの心が引っかかることもある。
 上手く言えないけど、それが人の繋がりというものなのかもしれない。
「それで、ご面倒をおかけして本当に申し訳ないんですが、このまま役所にいって、ある場所で、今と同じ証言をしていただきたいんです」
「はっっ、マジかよ?」
 南原が、果歩を振り返った。「俺、このまま警察行くんだと思ってたけど」
「それじゃ、間にあわないじゃない」果歩は南原を睨みつけた。「あと30分もしたら、主査、クビになっちゃうのよ」
「どこにでも行きますよ」
 松本は、諦めたように頷いた。「電話した時点で腹括ってましたから。僕も、その程度には男ですし」
「すみません、よろしくお願いします! 南原さん、急いで、でも交通ルールは順守して!」
「なっ、何を無茶なことを……」
「ちなみに、この車は職員の私物で、私たちは年休を取っています」
 果歩が生真面目に説明すると、松本は初めて相好を崩して笑った。
「へぇ、そういう面では結構大変なんですね、公務員さんは」
「ご理解いただいて、恐縮です!」
「警察官か、お前は……」
 南原はぼやきながら、前の車を追い越した。

 *************************

 売家。
 玄関に引っかかっている吊看板は、すでに雨ざらしになっている。傍らには不動産屋の看板が立っていた。門扉に、すでに表札はない。
「…………」
 果歩は、なんとも言えない気持ちで、半ば朽ちかけた家を見上げた。
 窓には目張りが施され、ガラスにはところどころひびが入っている。
「……売りに出されたのは、先月なんですよ」
 傍らに立つ男が言った。
「この8年、奥さんが必死に働いてローンだけは返し続けていたようなんです。よほど思い入れがあるのか、貸家にも出さずにね。……でも、それも力尽きたんでしょう。あと一千万近く、ローンが残っていたという話ですから」
「…………」
 一千万……。
(そりゃ、一千万欲しかったから?)
 あの子……もしかして、このことを知っていたんだろうか。
「あの、本当に私が同席してもいいんですか」
 果歩はためらいがちに、先日足代署で会ったばかりの刑事を見上げたる
 緒方潤一。顔に負けず、名前もなんとなく濃い感じがする。
 その緒方から果歩の携帯に電話があったのは、昨夜遅くのことだった。
「僕も、今日は非番なんですよ」
 にこりと、厚い唇を曲げて、イタリアの太陽みたいな男は笑った。
「今日は事情聴取でも取り調べでもありません。……まぁ、相手はかよわい女子高生ですからね。関わった以上、穏便に片をつけてやりたいじゃないですか」
「…………」
「あなたがいた方が、スムーズに話が進むような気がするんです。こんなおっさんが1人で女子高生に会いに行ったら、ははは、逆にこれになっちゃいます」
 男は両腕を合わせてみせた。
 少しおかしくなって、果歩はくすっと笑っている。
「あれぇ?」
 ふっと緒方が、顔をのぞきこんでくる。
「な、なんですか」
「笑うと、随分可愛い顔にになりますなぁ」
 なんだ、それは。
「その逆は普通ないですよ」
 二度と会うこともないと思っていた警察の人と、こうして少しばかり親しくなる不思議を感じながら、果歩はくすんだ空を見上げていた。

 *************************

「それで?」
 予想に反して、長妻真央はこれっぽっちも悪びれてはいなかった。
「結局何? 私に被害届を取り下げろってこと?」
 先日と同じ、オープンテラスの喫茶店。相変わらず風紀の悪そうな店だったが、さすがは刑事。緒方1人の存在感で、なんだか周りも漠然と静かになっている。
 こうして見ると、結構高い身長も、肉厚で凄味のある体型も、ストライプの入ったスーツやてかてか光るネクタイも……全てが彼を、堅気の人ではないと示していた。
 警察の人……だと知らなければ、悪いが、ヤ○○にみえなくもない。
「これは、僕の、個人的な親切で言ってるんだけどね」
 緒方は、果歩でもうっと思うほどボリュームのあるパフェをつつきながら言った。
 てっきり真央へのサービスだと思っていた。まさか自分が食べるつもりだったとは……。
「君にとって、相当不利な証言が出たことは間違いないんだ。このまま裁判になっても負ける可能性が出てきたどころか、君自身が偽証罪で訴えらる可能性もある」
「ふーん」
 真央は、今日もマンゴーソーダーを飲んでいた。
「今、ここで、すみません、私が嘘をつきましたって、泣いて謝っちゃえば、おじさん、優しいから許してあげるんだけどなー」
 果歩は、横目で緒方をチラ見している。なんだか、相当変わった人みたいだけど、刑事なんてそんなもんなのだろうか。
「じゃ、私の勘違いだったかな」
 顔をあげた果歩に、真央はにっと笑って見せた。
「学校から急いで帰ってたっていうの、訂正。少し友達とそのあたりプラブラして遊んでたの。本当のことが言えなかったのは、パパに叱られたくなかったから」
「…………」
「それでいいんでしょ? 目撃者の証言と一致してる? じゃ、あとは法廷で会いましょう」
「真央ちゃん」
 果歩は口を挟んでいた。「大河内さん、役所で……本当のこと、話したから」
 真央は表情を変えず、ただ眉だけを軽くあげる。
「三島さんのお父さんが、大河内さんに助けを求めて―― 大河内さん、それを無視してしまったんだって」
(信じてくれって、三島さんは何度も言ったんです)
(俺は何もしていない、全部、課長の指示だったんだと―― )
 大河内はあの日、聴聞の場所で、過去の全てを暴露したのだった。彼が長い間―― おそらく生涯、胸にとどめておこうとしたことを。
(僕は怖かった。課長に逆らって、僕にまで余波が飛んでくるのが怖かった。三島さんの言葉に耳を貸さなかったばかりか……、課長に三島さんから聞いた話を進言し、結果として、……証拠隠滅に手を貸しました)
 当時の課長は目の前にいた。人事部長の勅使河原義人。
 その後の処分がどうなったのか、果歩は知らない。おそらく当時の証拠もない。ただ―― 勅使河原は人事ラインから外れるだろう。それは、りょうの口から漠然と漏れ伝わって来ている。
 大河内は、再び年休扱いになった。後は、警察の扱い次第である。示談になるか、それとも事件そのものがなかったことになるか。
「紗央理さん、山口の高校で元気にしてるんだって」果歩は続けた。
「仲のよかったお友達の仇を討とうとしたんでしょ? 真央ちゃんは優しいね。でも、やり方……多分、間違ってるよ」
「世の中ってさぁ」真央は、肘をついて、遠くを見るような目になった。
「どうしたって、一番悪い奴は、捕まらないようにできてんだよね」
「…………」
 それは……誰を指して言っているのだろうか。
「ハゲのおじさんが、今さらそんな話をして、何かが変わった? 三島のおじちゃんが帰ってくる? 紗央理がこの街に戻って来られる?」
「…………」
「なぁんにもかわんないよ。……意味なんてない。それで終わりって、笑わせんなって感じ。裁判になるならなったでいいし、私を訴えたければ訴えれば」
 緒方は無言で、パフェの先端を崩している。
「……じゃあ、それで戻ってくる?」
 果歩は、逆に訊いている。「三島さんや、紗央理さんが、戻ってくる?」
「…………」
「何も戻らない代わりに、また、新しい何かが無くなるよ。それは真央ちゃんの大切なものだったり―― あの時の三島紗央理さんと同じ、何も知らない大河内さんの娘さんだったりするんだよ」
「…………」
 冷めた目のまま、真央は視線を別の方角に向けている。
「今度は、真央ちゃんが加害者になるんだよ。私はそれを知ってて、見てるだけなんてできないよ」
「何言ってんの、偽善者が!」
 不意に真央は、燃えるような目を果歩に向けた。
「あんたに何が判るのよ。―― 私の何が判るって言うのよ」
「長妻さん」
 果歩が気押される前に、ゆるやかに緒方が口を挟んだ。
「これは君の仕組んだ復讐劇だ。それはそれでよしとしよう。おじさんも、正義の味方の端くれだからね。悪いやつは退治されなきゃいけない」
「…………」
「が、それに関係ない人を巻き込むのはどうなのかな。今朝、君の友達が鉄道警察に保護されたのは知っているかい?」
 初めて冷めていた真央の表情に変化が浮かんだ。「―― なんの話?」
「てっとり早く小遣いを稼ぐ方法……君より随分知能の低そうな娘さんだったから、すぐに他で実践してみたくなったんだろうね。相手はしばらく否定していたが、結局調書にサインして、警察に連行されたそうだ」
 真央は、椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。「―― 嘘よ」
「そう思うなら、確認してみたらどうだい?」
「…………」
「君がなんの気なしに巻き込んだ友達が、もしかしたらここで人生を誤ってしまうかもしれない。君はどう、その責任を取るつもりなのかな」
「………………」
 大きなガラス玉のような目を震わせていた真央は、やがて諦めたように腰を落とした。
 そのまま、しばらくの間、テーブルの片隅を、真央はじっと睨み続けていた。
「私が……追い出したのよ」
 テーブルの上で、握られた拳が震えていた。
「私が紗央理を追い詰めたの。……いじめられて、紗央理、ずっと1人ぼっちだったのに、私……私……逃げ続けてた。だって、一緒だと思われるのが嫌だったから!」
 綺麗な双眸から迸るように涙が散った。
「本当に悪いのはパパなのに、私はそれを知ってたのに―― 怖くて、現実から逃げたくて、ずっと紗央理を無視してた。私が一番悪いのよ! 私があの時―― 少しでも、紗央理の味方になってあげてれば!」
 一番悪いのは誰なのか。
 ここにも―― その重荷を1人で背負ったまま、生き続けていた人がいる。
「紗央理が、学校を辞めることもなかった……三島さんたちが、引っ越すことも……」
 歯を食いしばるようにして泣き続ける真央の頬から、涙の滴がテーブルに落ちた。
「ずっと待ってた……あの家に、いつか紗央理が戻ってくるのを、私、ずっと待ってたんだ。……でも、もう…………戻らない……」
 視線を逸らし、果歩はそっと涙を払った。
「君の復讐は成功したよ」
 緒方が、静かに呟いた。
「君が本当に罰したいのは、君自身だったんだね。―― 君はたくさんの罰を受けなきゃいけない。色んな人を傷つけてしまったからね」
 真央は答えず、ただ肩を震わせている。
「それから、紗央理さんに会いにいってみるといい。なぁに、人の心の鎖なんて、案外解けてみれば単純なんだ。―― 少し、時間はかかるかもしれないけどね」

 *************************
 
「なんだ、来てたんだ」
 カウンターに座る男を見て、宮沢りょうは、少し驚いて眉をあげた。そのまま、その男の隣のスツールに腰をおろし、馴染みのマスターに声を掛ける。
「マスター、私水割りで」
「……相変わらず、初っ端からがっつり飲むんですね」
 たちまち隣の酔っ払いが絡んでくる。
「なに? まだ10時前だけど、もう出来上がってんの?」
 むっつりと顔をあげた男は、自分も空いたグラスをマスターに差し出した。「お代わり、ストレートで」
「……大丈夫?」
 りょうは、前園晃司の顔をのぞきこんだ。「君、そんなに飲めてたっけ」
「飲めるんですよ。いつもはセーブしてるんです」
「飲めない男の典型的な言い訳だけど……」
「ほっといてください!」
 りょうは首をかしげつつ、自身の水割りに唇につけた。まぁ、荒れてる原因は察しがつくけど、私に当たることかしら。
「宮沢さん、この間店に来てた、IBMの28歳」
 マスターが、ナッツの盛り合わせを出しながら声をかけてくれた。この店は、2ヶ月前に見つけた新たなお気に入りで、先月きっぱり失恋してから、りょうはここの常連と化している。
 40代の、どこか危険な匂いが漂うセクシーな長髪マスターも魅力的だ。もともとホスト出身のようで、客あしらいがかなり上手い。
 シェーカーを振りながら、マスターはりょうに微笑みかけた。
「宮沢さんのこと、随分気にしてたみたいですよ。店に顔出したら連絡してくれって言われてるんですけど、教えてあげてもいいですか」
「もちろん。えー、なんだろ、ついてるな、今夜は」
「すぐに来られると思いますよ。すごく熱っぽく、宮沢さんのことを話してましたから」
「ふぅん、新しい恋の予感♪」
 気分良く煙草に火をつけると、隣で鬱々と飲んでいる男が呟いた。
「宮沢さんって、……結構、軽いノリの人だったんですね」
 酔うと嫌な絡み方するなぁ、眉をしかめつつ、りょうは水割りを一口飲んだ。
「恋愛って意味ならそうだけど。今はがつがついってる時期なのよね」
「宮沢さんなら、がつがついかなくても、よりどりみどりでしょ」
「そうでもないのよ。今焦らないと、将来バツ一の絶倫男が待ってるんだから……」
「……え?」
「ま、こっちの話よ」
 以前この店で前園晃司と出会ったのは、全くの偶然だった。
 多分、職場の飲み会で、上司に無理に連れてこられた状態で会ったのが1回目。
 2度目は、りょうが1人で飲んでいる時にふらりときた。その時に「最近元気がない的場さんが心配で」とかなんとか言われて、頼まれたのが、果歩とのデートのセッティングだった。
 そして―― 今夜が3度目。
「もしかして、私に何か言いたくて来た?」
 漠然と嫌な予感を覚えつつ、りょうは訊いた。男運がないと真に思えるのはこんな夜だ。とてつもなくいい男と出会えるチャンスが到来した時に限って、とんでもない邪魔が入る。
 だん、と前園晃司はグラスをテーブルに叩きつけた。
「来ましたよ。当たり前じゃないですか。なんなんですか、釣り道具って。殺し文句って、全然通じなかったじゃないですか!」
「ああ………」
 言ったんだ、本当に。
 まさか、そこまでバカとは思わなかったけど―― 。
「駄目だった?」
「かすりもしませんでしたよ。俺も意味わかんなかったし」
「…………」
 言うかな、普通。
 なんとまぁ、ひねくれた出世欲の塊みたいな子だと思ってたけど、果歩のこととなると馬鹿みたいに素直なんだ。
「ま、飲んだら? 今夜は私が奢るから」
「3万分、がっつり飲ませていただきます」
 完全に目が据わっている。
「宮沢さん、席を変えましょうか」
 囁くマスターに、りょうは片手を振って、大丈夫、と告げておいた。
「まぁ、気持ちは判るよ。年下君。今回はとんびに油揚げだったもんね」
「………なんでそれ、知ってんですか」
「せっかく果歩の前で張りきったのに、殴られて警察沙汰になったんじゃね。で、最後の美味しいところだけ、藤堂君にもってかれたんだから」
「……………」
「親まで出てきて、部長が土下座して謝ったらしいじゃない。まぁ、そんだけ騒がれれば、謹慎するしかなかったでしょ」
 晃司は無言でグラスの中身を全部あおった。「―― お代わり」
「それくらいにしといたら」
「いや、3万には程遠いっすから」
「みみっちいなぁ……そんなだから、果歩に見向きもされないのよ」
「……、……」
 何か、ものすごく物言いたげだったが、晃司は、新しいグラスに口をつけただけだった。
 2時間後―― りょうは、晃司と共に2軒目の店にいた。
 悪い予感に限って、よく当たるのは何故だろう。せっかく到来した新たな恋も、この酔っ払いの悪酔い男のせいで、あっという間に吹き飛んでしまった。
「俺……違うんすよ。実は、謹慎してたんじゃないんです」
 が、妙にしおれた男は、今度はすっかり落ち込みモードになっていた。
「果歩が何してんのかも知ってたし、その気になれば、いつだって手伝いにいけたんです。……でも、俺、行かなかった。……つか、行けなかった」
「まぁ、賢明な選択だと思うけどね」
 冷酒を口にしながら、りょうは呟いた。
 果歩にとっても、重荷になってただろうし―― とは、胸の中で言い添える。
「何、飲んでんすか」
「え、日本酒だけど……」
「じゃ、俺も同じものください」
 やめといた方がいいと思うけど……。とはとても言えない。
 りょうは、自他共に認めるザルである。少しばかりは酔えたほうが可愛らしいとは知っているが、昔から酔ったためしがない。
「初めて飲むけど、上手いっすね」
 多分、すでに味なんて判ってないはずだ。
 りょうは肩をすくめ、自分の酒を口に含んだ。
「親まで出てきて、部長に叱られて、……自分のやってることが、すっかり怖くなったんです。俺、昔ボクシングしてたんだけど」
 独り言を呟くように、晃司は続けた。
「大学の時、ケンカして、相手怪我させたことがあったんです。ほら俺、見かけによらず、短気だから」
 見かけどおりだと―― ま、いいか。「……で?」
「そんとき、退学寸前までいったんです。結局親が学校と相手に泣きついて、事なきを得ましたけどね。その時のこと、何年かぶりに思い出したのかな……何もかもなくなる恐怖って、わかりますか」
「…………」
「俺、そん時、市役所の内定もらってたから、大学クビになったら、プーですよ。プー。そん時、親にどんだけ心配かけたかを思い出しちゃって、それで…………」
 よしよし、とりょうは、つっぷした男の髪を撫でている。
「まぁ、またいつかチャンスはあるわよ。年下君」
「あるのかなぁ……もう、永遠にないような気がするけどなぁ」
 ぽん、とその頭をはたき、りょうは冷酒を飲みほした。ああ―― 隣に悪酔いしてる人がいるだけで、酒がこんなに美味しいなんて。
 まさに、人の不幸は蜜の味。
「果歩は、ああみえて、結構一途な頑固者なのに」
「知ってますよ」
「どうして、自分からふられるような馬鹿したかな。たとえ藤堂君が現れたって、君が浮気なんかしなかったら、果歩は一途に君を待っていたと思うけどね」
「…………」
 それには、しばらく晃司は黙っていた。
 無反応な頭を見ながら、寝たかな、とりょうは思っている。さて―― どうしよう。どうやってこの大男を送ろうか。誰か、助っ人を頼まなきゃ……。
 その時、携帯の着信が鳴った。自分のではない。どうやら、眠っている男のポケットから響いている。
 どうしよう―― と迷ったものの、さほど罪悪感ないまま電話に出た。知り合いなら、ここで助けを頼むつもりだった。
「もしもーし、どなた?」
 相手が黙っているので、りょうは声を大きくした。
「知り合いなら、助けてくれる? この携帯の持ち主、どうもつぶれちゃったみたいでさ。あ、私は知人の」
 ぶつり、といきなり電話が切れた。―― なに、これ? りょうは瞬きして、携帯電話を見つめている。
 もしかして、隠し彼女でもいたりして―― だとしたら、少しばかりまずかったかしら。
「それ、やっぱ、違うと思うんですよね」
 寝ていたとばかり思っていた男が、いきなりそう呟いた。
 さすがに驚いて、りょうは携帯を落としそうになっている。
「……果歩、俺のこと、本当に好きだったのかな」
「そりゃ、好きでしょ。3年もつきあってたんだから」
 今さら、何を言ってんだろう。この男は。「私からみても、果歩は随分君に尽くしてたような気がするけどね」
「……俺たち、本当に普通だったんですよね」
「普通の何が不満なわけ?」
 それにはりょうがむっとしている。「普通が一番よ。波乱万丈の恋愛なんて、ひたすら疲れるだけじゃない」
「……始まりからして、ごくふつーっていうか……特に燃え上がることもなく、俺が告白して、向こうがあっさりオッケーして、それだけっつーか」
「それ以外に何がいるのよ」
 さすがに呆れて、りょうは席を立とうとした。
「言い訳? のろけ? 言っとくけど、君に恋路を邪魔されて、少々腹が立ってるの。勝手な言い分なら聞くつもりはないからね」
「……待って……」
 腕をつかまれ、りょうは少しばかりたじろいでいる。
 つっぷした顔をあげないままで、晃司は続けた。
「俺はともかく、果歩は多分、俺のこと、ものすごく好きなわけじゃなかったんですよ。なんていうのかなー、……一生懸命尽くしてくれたのは判りますよ? それは、すごーく判ってんだけど」
「…………」
「それは、あれですよ。俺のことが好きだからの一生懸命じゃなくて、……なんていうかな、この関係を保ちたいゆえの一生懸命っつーか……わかります? そういうの」
「…………」
「あの時の果歩は、別に俺じゃなくてもよかったんですよ。ぶっちゃけ、誰でもよかったのかもしれない。いや、それで果歩を責めてるわけでも、俺の浮気を正当化してるわけでもないんすよ。ただ―― そんな気がしてるだけで」
 ―― ああ……。
 可哀そうだけど、それは多分、正解だ。
 あの時の果歩は、ささやかな幸せを誰よりも求めていたはずだった。普通に恋愛して、普通に恋人やって、普通に結婚する。8年前、ひどく残酷な形で失われた彼女の夢。
 ある意味、前園晃司の指摘は真実をついている。この関係を保ちたいがゆえの一生懸命さ。―― りょうも、同じことを思った記憶があるからだ。
 なんだって果歩みたいないい女が、前園晃司みたいな冷たい、酷薄な男に振り回されているんだろう。―― そう思ったことがあったから。
 果歩はなにより、普通の恋愛を求めていたのだ。
 そして、ようやく手に入れた(りょうには、ちっとも普通だとは思えなかったが)前園晃司との関係を、とても―― とても大切にしていたのかもしれない。
「誰でもよかったわけじゃないと思うよ」
 りょうは再び、晃司の頭を撫でていた。
「果歩はああみえて、かなりの面食いだから……知ってるでしょ」
「最初の奴でしょ?」
 垣間見える横顔が苦く笑った。「最初は知らなかったけど、後で、人の噂で聞きましたよ。びっくりした……俺、実は光彩建設の入社試験受けてんですよ。大学4年の時」
「…………」
「あの男が会社にいた、ぎりぎり最後の年になるのかな。面接の席にあの人、いたんですよ。―― 俺、田舎もんだから、マジでびびったな。男の人なのに……綺麗で……まるで映画俳優みたいでさ」
「…………」
「で、次が俺なんて、なんか情けなさすぎるでしょ。……はは、どこまでレベル落としてんのかな、果歩の奴」
 なんかもう……。
 可哀そうで、聞いてられなくなるじゃない。
「飲もう、若者」
「いいっすねぇ……てか、もう一滴も飲めない気が……」
「いやぁ、全然酔い足りない。夜はまだまだこれからだしね」
「そうっすねぇ…………果歩……」
 どうにもこうにも切ない奴。
 りょうは、嘆息して天井を見上げる。
 なんだかなぁ。―― まるで、自分を見ているようだ。





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