「大河内さん、今日から出勤なんですね」 背後から聞こえた百瀬乃々子の明るい声に、果歩は足を止めていた。 始業20分前。給湯室で、コーヒーの用意をしていた時だった。 「うん、ひとまず、何もかも元通りよ」 果歩の顔も、自然に笑顔になっている。 本当は―― 大河内主査の最終的な処分は保留のままで、いずれ、何かの罰が下されるかもしれないが。 「被害者の女の子、被害届を取り下げたって本当ですか」 「そ、完全に本人の勘違い。警察で随分叱られたみたいよ」 むしろ、それだけで済んだのが幸いとしか言いようがない。大河内の希望もあったのだろうが、あの緒方という刑事の尽力があったという気がしなくもなかった。 そういえば、あの刑事さんって何者だったんだろう。どこの課で何をしているとか、全然聞いてなかったな。私。 「乃々子……今回は、ありがとうね」 果歩が言うと、ポットにお湯を入れていた乃々子は、恐縮したように首を横に振った。 「的場さん、私……いつかの合コン、覚えてます?」 「ん―― 合コン?」 しばし眉を寄せた果歩は、ああ……と少し嫌な気持ちで頷いていた。 「あの、入江耀子さんとご一緒した?」最悪の記憶がむくむくとよみがえる。 「そうです。私1人先に帰っちゃった合コンです」 「そういやそうだった……かな?―― それで?」 乃々子には悪いが、当夜のことは、正直あまり覚えていない。乃々子が先に帰ったかどうかもうろ覚えだ。 「私、知ってたんです。入江さんが須藤さん……かなり、ひどい方法でいじめてたこと」 消え入りそうな声で、乃々子は続けた。 「なのに、私、それをどうしても言えなかった……。心のどこかで、須藤さんのこと邪魔にしてたし、私には関係ない人だって思ってたから」 「…………」 「藤堂さんの話を聞いて、なんだか自分が恥ずかしくなったんです」 果歩を見上げて、はにかんだように乃々子は笑った。 「今、身近にいる人とは、もしかするとすごく深い絆というか、運命で繋がれているのかもしれないって思ったら、……私も何かしなきゃって思って」 「乃々子……」 果歩は、可愛い後輩の肩に、そっと手を置いている。 なんていい子なんだろう。これで恋のライバルでなきゃ……心から幸福を応援してあげたいのに。 「よーございまーす……」 ひどく覇気のない声がして、振り返るとポットを抱えた須藤流奈が立っていた。 「どうしたの、寝不足?」 果歩は眉を寄せている。いつも嫌味なくらい可愛い系メイクを完璧にしている流奈だったが、今は―― なんだかひどく微妙な目下をしている。 「別に……」 やはり覇気の欠片も見せないまま、流奈はもくもくとポットを水で濯ぎ始める。 「おはようございます」と、次いで爽やかな声がした。 藤堂さん―― 果歩は、はっと目を輝かせている。 長袖シャツを二の腕半ばまでまくりあげた彼は、目でその場にいる女3人に笑いかけ、洗い桶の中に今日の分のカップを入れ始めた。 ああ……今日もなんて、爽やかで素敵なんだろう。 果歩は、軽く胸がときめくのを感じている。そりゃ、まだ正式な恋人じゃないかもしれないけど。もう―― 私だけの藤堂さんだって思ってていいよね。 「わー、ラッキー、朝から藤堂さんに会えちゃった」 いきなり2オクターブ声があがり、流奈のテンションが上昇した。 「おはようございます。今日もいい天気ですね。よかったらお昼、どこかでご一緒しません?」 なんだろう、この手のひらを返したような豹変ぶりは……。果歩は、乃々子と顔を見合わせている。 「屋上でも、外でもどっちでもいいですよ。あ、なんだったら私、藤堂さんの隣に椅子持って来ましょうか!」 「はぁ……」 と、藤堂は相変わらずの受け答えだ。―― 結局、何一つ変わらない都市計画局の朝。 執務室に戻ると、すでに出勤してきた大河内が、黙々とたまった仕事をこなしている。 南原は新聞を読み、水原は大あくびをしていた。局長室の中では、那賀がストレッチ体操。次長室では、春日と志摩が、何事か打ち合わせをしている。 普通だなぁ、と果歩はしみじみと思っていた。 知らなかった。いつも普通で、当たり前の光景が、こんなに大切なものだったなんて―― 。 「お、前ちゃん、どうしたよ」 不意に南原が顔をあげたから、カウンターを吹いていた果歩は顔を上げた。 ―――晃司? あれからタイミングが悪くてずっと話ができなかった。そうだ、一度きちんと晃司には謝罪とお礼をしなければ。 が、振り返った果歩は、雑巾を落としそうになっていた。 「……ま、前園さん?」 水原が、呆然と呟いた。 「………生霊じゃなかったか? 今の」 ふらふらーっと総務の前を通り過ぎ、観音扉から外に出て行った晃司は、まさに南原の形容どおりの形相をしていた。 蒼白―― というより、むしろ真っ白な顔をしている。 ど、どうしちゃったの?? 晃司。 果歩は、慌てて後を追っている。なんだか知らないが、尋常の様子ではない。 エレベーターフロアまで出ると、晃司の背中が、ふらふらーっと非常階段のほうに消えていく所だった。 「晃司……」 追いかけようとした果歩は、はっと足を止めていた。非常階段に、女性らしき人影が見えたからだ。もしかして彼女―― しまった、へんに追いかけたら、またものすごい目で睨まれてしまう。 「よっ、ごめん、呼び出して」 が、きびすを返す前に、声だけが聞こえてきた。 ―― まさか?? 果歩は足をとめていた。―― りょう?? 「いや…………なんっすか」 片や、ひどく萎れた声で、晃司。 「忘れ物、これ、君のでしょ」 「どーも……」 「しっかりしなさいよ。たかだか一晩女の部屋に泊ったくらいで」 「―― っっ、―― っ、た、頼むから、夕べのことは、果歩に言わないでくださいよ」 「そりゃ、言うなってんなら、言わないけど」 果歩の目は点になっていた。―― なにこれ。 え? え? なんなのこれ。 まさかと思うけど、りょうと晃司が―― そういう仲?? 「なっさけないの。なんなんですか、あれ」 背後で声がして、固まった果歩は振り返る。立っていたのは、何時の間についてきたのか、心底呆れた目をした須藤流奈だった。 「本当、使えない男ですよねー。ちっ、役に立たないって言うか」 4歳も年下の流奈に、心底苦々しい舌打ちをされる晃司って―― 。 が、その時には、多分流奈の声で、晃司もりょうも果歩の存在に気がついていた。 「ああ、果歩」 りょうは、平然と手をあげたが、晃司の顔からは、みるみる血の気(もともとなかった)が引いていく。 「か、かか、果歩、これは……その、とんでもない誤解―― 」 その時だった。 「見つけた! 私の王子様!」 ―― え……? 浮世離れしたどん引きのセリフ。もしや、再び香夜の襲来でもあったのかと、果歩は思わず身構えている。 が、違った。 エレベーターホールをすごい勢いで駆けてくるのは、可愛らしいセーラー服。 黒髪をなびかせた美少女は、あっと言う間もなく、呆けたように立っている晃司に抱きついた。 ―― は、はい?? 「何すか、今の声は?」 「なんの騒ぎだよ」 どやどやと、総務から人がフロアに出てくるのが判る。ほかにも、出勤してきた職員が足をとめて注視している。 そんな最悪の状況の中、女子高生にひたと抱きしめられた晃司は、文字通り、石のように固まっていた。 「ダーリン、会いたかった!」 「は……? は??」 うる星やつらですか? 果歩は昔読んだマンガを思いだしている。ダーリン会いたかったっちゃ。まさにそれと同じ状況が今、目の前で―― 。 ようやく晃司の眉が動いた時、積極的な女子高生の顔が、その顔に思いっきり被さった。 ぐっという呻きにも似た声は、多分晃司の声が口の中で潰れたのだろう。 ちょうどその時、始業開始のベルが鳴った。 「………………」 「………………」 「………………」 こんなことが、いまだかつて灰谷市役所であっただろうか。 勤務時間中に、職員が、現役女子高生(制服をそのまま信じれば)とキス――。 全員が、悪夢でも見るような目で見守る中、晃司は口を手の甲で押え、ふらふらっと後ずさった。 「……だ、」それが、彼が、この信じがたい状況下で発した第一声だった。 「誰だ、……お前」 「えっ、私のこと忘れたの??」 多分、果歩だけが、その少女の正体を知っていた。いや、後からフロアに出てきた大河内主査も気がついたのかもしれない。 「真央ちゃん……??」 「あ、お姉さん」 長妻真央は、ぱっと端正な美形顔を輝かせた。 「お姉さん、私、この人好きになっちゃった。あの時、超しびれちゃったもん。こんなにかっこよくて男らしい人、真央、初めて!」 いや……そのストレートさはいいんだけど。 果歩はおそるおそる周辺を見回している。 人垣の向こうに、仏頂面の春日次長の顔がある―― 。震えあがった果歩は、心底晃司が気の毒に思えていた。 その空気が全く読めない真央は、晃司の手をとったまま、高らかに宣言した。 「真央、この人の恋人になります! いいよね、お姉さん!」 な、なんで、私に振られるの? 果歩はただ、どうやったらこの場が収まるか、半ばパニックになりながら考えている。晃司は―― 多分、すでに思考力をなくしている。 「いいんじゃないですかー」 何故か冷めた声で、最初に口を開いたのは流奈だった。 「でも、18歳未満との性行為は、青少年健全育成条例に違反すると思うんで、気をつけたほうがいいと思いますけどー」 「あ、私18ですから、お姉さん」 にこっと真央は、余裕の笑顔を流奈に向けた。「性行為、全然オッケーです」 す、すみません、私はもう限界です。 果歩はよろよろっとよろめき、だっときびすを返していた。 「じゃ、私も仕事に戻るんで」 しばしあっけにとられていたりょうも、首をかしげながらきびすを返す。 「……すげーな、前ちゃん」 「女子高生かよ……うらやましい」 「しかも、相当可愛いかったですねぇ」 この朝の出来事で、すっかり女子高生の彼女持ちというレッテルが、―― おそらく庁内中で貼られてしまった晃司に、果歩は気の毒すぎて、声をかけることもできなかった。 ************************* 「すみませんね。こっちは指示通り動いたんですが、どうも、その手には乗ってくれなかったようで」 電話してきた相手は、ひどく恐縮しているようだった。 「しかも、結果として無実だったなんてね。これじゃ、市のヨイショ記事にしかなりゃしない。どうしましょう。的場果歩の情報なら、あらかた掴んでいるんですが」 「今回は、様子を見ましょうか」 落ち着いて香夜は言った。 「報酬は約束どおりお支払いします。的場さんの記事は、また、次の機会にとっておいてくださいね」 電話を置いて、香夜は息を吐いて天井を見上げた。膝に、アビシニアンのエリスが這い上がってくる。 香夜はその頭を撫で、軽く耳にキスをした。 「とてつもなく見事な演技をしたつもりでしたのに、ダメでしたわ、エリスちゃん」 にゃあ、と猫は甘えた声で、ひと声鳴いた。 「いったい瑛士さんは、どこであんな忍耐力を学ばれたのかしら?」 昔はもう少し、簡単な男だったのに。 ―― もしかして、的場さんが傍にいるせいかしら。 だとしたら、それは、誤った選択よ。 瑛士さんも、とっくに気が付いていると思うけど、今回、マスコミを動かしたのは、瑛士さんのお父様などではないんですよ。 「さて、次はどういう手でいきましょうかねぇ、エリスちゃん」 飴も鞭も、色も涙さえも効果がない頑固者。 なんとしても、彼には役所を辞めてもらって、家に戻ってもらわねばならない。 「…………」 瑛士さん1人が幸せになるなんて、絶対に許せない。 そうでなければ、死んでしまったあの人に申し訳ないもの―― 。 ************************* 「長妻さんは、市長選から手を引かれたようですね」 志摩がそう切り出すと、手元の書類に目を落としていた春日は、眉もあげずに口を開いた。 「まぁ、けじめだろう。―― とはいえ、あの人の手が真っ黒だということは、市の幹部なら誰でも知っていることだがな」 「娘さんが、あれだけの騒ぎを起こしましたからね。しばらくの間は、表だっては動けないでしょう」 それには答えない春日の腹のうちもまた、志摩には今一つ読み切れない。 居住まいを正し、志摩は本題を切り出した。 「大河内君の処分は、今回は見送られることになりました」 「そうか」 「勅使河原部長は12月1日で、外郭団体に異動です」 はじめて春日の薄い眉が動いて、彼は不可思議な微笑を浮かべた。 「そしてまた、戻ってくるか。ほとぼりの冷めた頃に」 「現市長が、再任を果たせば、そうなるでしょうね」 「…………」 志摩は一礼して、次長室を辞去した。 長妻元治は、市長選挙において、真鍋票のとりまとめを一手に担っていた男である。真鍋市長は、その長妻に市長の後継を委ねるつもりで何年も準備をしていた。 あるいは来春の選挙で真鍋が引退し、長妻が出馬することも十分考えられていたのだ。 が、もうその線は完全に消えた。過去のスキャンダルの一端が表に出たこと。なにより大きいのは、愛娘の思わぬ反乱である。 在京大手3社への何者かのリークは、それを見越してのものだったのだろうか。市財政界の大物、長妻擁立の動きを潰すための―― 。 なんにしても、真鍋正義は強力なブレーンを失ったことになる。来春の市長選挙は、おそらく大荒れになるだろう。 ――キーは、反市長派が一体誰を担ぎ出してくるかだな。 志摩はしばし足をとめ、沈思する。 誰であっても志摩の立場では関係ないが、少なくとも下手な選択をして、貧乏くじを引かないようにすることが肝要だ。 ************************* 「しかし、局長まで呼んで居酒屋はなかったんじゃねーの?」 「なんなんですか、もう、高級料亭にすれば文句を言われ、居酒屋にすれば不平を言われ……」 「お前はいちいち極端なんだよ。居酒屋でもランクがあるだろ、300円均一って、あまりにも下すぎるじゃねーか」 果歩が会計を済ませて店を出たら、そんな漫才が繰り広げられていた。むろん、言わずとしれた最低コンビである。 「結構、美味しかったですよ」 「那賀さんも、なんだかんだいって楽しそうでしたし」 藤堂と大河内が頷き合っている。 「じゃあ、わしは、可愛い子ちゃんを連れて、次の店に繰り出すかな」 確かに上機嫌の那賀の隣には、微妙に硬くなっている乃々子と、対照的にハイテンションな流奈。その隣では、晃司が居心地悪そうに立っている。 彼を襲った災難―― その誤解は、果歩と大河内が説明して回ってあげたが、よほど、その出来事がショックだったのか、いまだ晃司は抜け殻のようである。 今日も、何を話しかけても「はぁ」とか「うん」とか、ぼんやりした答えしか返ってこない。 「行きたいんやけど、叔父さんが煩いんで……」 と、少しばかり残念そうに、志摩とタクシーに乗り込んだのは宇佐美で、新家と谷本は、局長についていくつもりのようだった。 11月下旬、仕切り直しの忘年会。 結局、時期は世間の常識から外れているものの、狭くて安い居酒屋で、目撃者捜しメンバーもほぼ全員が参加して、―― 忘年会はかつてないほど盛り上がった。 「僕は、帰ります」 大河内が皆に向きなおった。「今夜は、ありがとうございました」 「普通、今夜くらい二次会行くでしょ?」 「まぁ、そういう独特の素っ気なさが、大河内主査なんだけどさー」 とか言いながら、みんな笑顔で手を振っている。 「んじゃ、また来週〜」 「たまった仕事、ちゃんと片付けといてくださいよ」 大河内は、不必要なほど深々と頭を下げて、夜の街に消えていった。 あれから数週間しかたっていないのが、嘘みたいだ。 あんなに色んなことがあったのに、今、こうして全員が、普通に一緒にいることが。 ―― が、ただ1人、この場にいない人がいる。 正確には2人――1人は春日だが、多忙な春日が総務課の飲み会に出ないのはお約束のようなもので、そこはあまり気にする必要はない。 気がかりなのは、この課でただ1人、目撃者探しに参加しなかった人―― 中津川補佐である。 そのことだけが、喉に刺さった小骨のように、果歩の胸に引っかかり続けている。 元々浮いていた補佐が、これでますます皆と離れてしまわなければいいけれど。…… 「僕は行くけど、藤堂君はどうする?」 窪塚主査が、藤堂に声をかけた。 「すみません、今日は、家の用事があるので」 「まさか、こないだの婚約者とデート? 藤堂君も隅におけないねー」 微笑する藤堂は、肯定も否定もしない。 「的場さんは、どうせ門限だろ?」 タクシーの手前で、南原が振り返った。「30過ぎの娘に、過保護すぎる親ってのも大変だよな」 過ぎは余計よ、南原さん。―― まだジャスト、30です。 それでも果歩は、にっこり笑って手を振った。 「ごめんなさい。また、次の機会にご一緒させてくださいねー」 散会―― 。 その場には、意図的に残った2人だけが残された。 「……わざとらしかったでしょうか」 果歩が呟くと、藤堂は少しだけ苦笑した。 「そうですね。―― まぁ、誰も気にしていないと思いますよ」 「流奈もいるし、てっきり無理だと諦めてました」 明るい月が見下ろしている。 2人は肩を並べて歩き出した。 「本当に奢ってくれるんですか?」 少し疑念をこめて果歩は訊いた。 「前からの約束ですから。これから忙しくなりますし、当分早く帰れないでしょうし」 「…………」 最初に食事に誘われたのは、確か5月か6月で―― それが、ずっと反故にされ続けてきて、ようやく今日。 そりゃ、一緒に食事は嬉しいけど、飲み会の後ってどうなんだろう。しかも……まだ、そう言う段階なのかな、私たち。 ま、いっか。 「なんですか?」 「いいえ―― 月が綺麗ですね、まんまるですよ、藤堂さん」 「え……? 僕には三日月に見えますが……」 これは間違いなく、前進よね。だって今夜、誘ってくれたのは藤堂さんだもん。 「月があんまり丸いから」 「……? なんの歌です?」 今夜はあなたと杯あわせ 明日も仲良く迎え酒 「一杯、飲んじゃってもいいですか」 「いいですけど……」 「春が近いですねぇ、藤堂さん」 果歩はにっこり笑って歩き出す。 月が温かく、2人を照らし出していた。 本当に悪い奴は誰だ(終) |
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